例幣使道歩き旅 1
      (倉賀野~境町まで)
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 例幣使追分-鎌倉橋-玉村-飯倉-五料-柴-堀口町-三橋-下蓮町-武士橋-境萩原-境駅      20.6km  

 日光例幣使街道
  徳川家康の没後、朝廷は日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)を使わした。その例幣使が通った街道をいう。京から中山道を通り、倉賀野宿で中山道と分岐し、楡木(にれぎ)宿にて壬生街道(日光西街道)と合流して日光へと至る。 楡木より今市までは壬生街道と共通の道を通る。 この間に宿場として楡木まで、
 玉村、五料、柴、木崎、太田、八木、梁田、天明、犬伏、富田、栃木、合戦場、金崎 の13宿が置かれた。
   距離は約90km。 壬生街道は以前に歩いているので楡木まで歩くことにしました。

 参考書
「今昔三道中独案内ー日光 奥州 甲州ー」(今井金吾著 日本交通公社)


 2015年4月19日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■例幣使追分
  8時50分倉賀野駅到着。駅から南下して県道121号へ向かう。県道は昔の中山道であり、倉賀野宿があった所。2007年6月以来の再訪となった。右手のベイシアマート駐車場に倉賀野本陣跡の石碑がある。他にも色々と史跡はあるのだが、今回は目的ではないので素通りする。
 やがて●下町交差点に到着。ここが中山道と例幣使道との追分で、中山道と例幣使街道が表裏に書いてある標識が立っている。分岐点に●追分道標を兼ねた常夜燈がある。「従是右江戸道・左日光道」とある。文化11年(1814)例幣使道五料宿の旅籠高砂屋文之助が若い頃の放蕩の罪滅しに中山道との追分に建てたもので、江戸や京都からも寄付を仰いが、その中には松本幸四郎、歌舞伎役者や雷電・柏戸など力士の名も見えるとある(今井著)。が、以前中山道を歩いた時もよくわからなかったし、今回もわからなかった。 道標の奥に立つ●閻魔堂はちょうど改修中で中には何もない。本来は赤く塗られこんな感じ。  では ●例幣使街道の標識に従って街道を行くことにしよう。        9:15  

 ■追分~綿貫町
 追分を●左に進んで県道136号。ほどなくJR高崎線の踏切を渡る。工業団地を過ぎ、 国道17号を横断、県道13号も横断していく。県道のちょっと先の十字路際左手に●台座だけの「道標」がある。上に石仏が乗っていたのだろうと思われる。右隣の道標らしき方は全く読めない。
 街道はこの先も続くはずだが、●塀で進めない。この先は日本原子力研究開発機構の敷地が広がっている。ここは戦前の火薬庫だったそう。 そこで北へ迂回することになる。綿貫町交差点を右折する。   9:45

■綿貫町~鎌倉橋
 開発機構沿いをしばらく行くと、左手に●不動山古墳がある。古墳の上に不動堂がある。形は随分と削られ、頂上は樹木で覆われて見通しが悪い。説明によると、5世紀後半に築造された前方後円墳である。お堂の後ろに ●舟形石棺の身の部分が置かれてあった。 地図を見ると北側に●観音山古墳というのがあるので行って見た。古墳跡が公園になっており、古墳自体がかなり大きく、全体を眺められたり、石室を覗いたり、古墳の上に登ることもできる。歴史の教材にはもってこいの感じ。    10:00

 ■鎌倉橋~玉村3丁目
 街道に戻り先に進む。南側の「県民の森」でなにかイベントがあるらしく、駐車場に入る車でかなりの渋滞をきたしている。●鎌倉橋で井野川を渡る。昔は土橋で30mほど下流に架けられてaいたという。下流のその土橋跡の痕跡があるらしかったが見落としてしまった。
 井野川のさらに先に滝川に架かる大橋がある。橋の東詰北側は梟首(きょうしゅ)場跡といって、岩鼻陣屋で打首になった罪人の首をさらしたといわれる所。今は案内もなく痕跡はなにもない。この先例幣使街道は●見渡す限り真っ直ぐに続く。このあたり古代の官道である東山道が通っているので、関係あるのかと思うのだがどうだろう。
 今は通れなくなっている三国街道別路が玉村宿の入口だと云われるが、どこが入口だかよくわからなかった。しばらく歩いた左手の●萬福寺の石仏がなんとも表情がかわゆく面白い。すでに宿の中に入っていると思われる。    10:40

■玉村3丁目~玉村5丁目
 萬福寺から徒歩5分、左手にある旧家は●上の問屋場であった井田家。昔は前に店があって、現在の建物は母屋という。「泉屋」という屋号を持つ「井田酒造」という造り酒屋を営む。この建物は慶応4年の大火を免れた貴重な建物である。
 井田酒造の奥に玉村八幡神社がある。玉村八幡神社は烏川畔に面した角淵の八幡宮が元宮で、源頼朝が建久4年(1193)那須野に狩した折、鎌倉の由比ケ浜に似ているとして鶴岡八幡宮を分霊したものである。伊奈代官が玉村を開いたとき、この角淵八幡をここに遷座したもの。
 ●随神門も風格があり立派。慶応元年(1865)の建造で入母屋造。●拝殿は18世紀末頃。本殿は永正4年(1507)建立の重要文化財である。     10:56
 玉村宿
 慶長10年(1605)から関東郡代伊那備前守忠次によって新田が開発され、付近の住民を移して集落が形成された。寛永13年(1636)日光東照宮が完成、例幣使街道の開通によって街道一の宿場町へと発展した。
 本陣1 旅籠36  
 例幣使の一行は毎年京都を旧暦4月1日に出発し、4月11日に倉賀野宿を通過後玉村宿に宿泊。天明を経て4月15日に日光に到着している。玉村宿は慶応4年(1868)の大火で全焼したため往時の面影はあまり残っていない。

 ■玉村5丁目~玉村6丁目
 
玉村八幡宮と反対側の道を入った称念寺に●家鴨(あひる)塚という一風変わった石塔がある。嘉永3年(1850)国定忠次が捕縛され江戸送りの途中、玉村宿に留置されたが、目明かしの角万左十郎が忠次の中風に同情し、治療のため家鴨の生血を飲ませたと云われている。その家鴨の供養の為安政5年(1857)に建立されたと伝わる。
 街道に戻り、先に進むと●町田酒造がある。以前はレンガ造りだったようだが、建物は新しくなっている。裏手に酒造家らしく煙突が立つ。創業から160年で銘柄は「太平人」。
 町田酒造の対面の道路を入ったあたりが本陣跡で、●「木島本陣歌碑」が残っている。本陣の建物は慶応4年の大火で焼失してなく、屋敷内に天保14年、帰路も中山道を利用した例幣使参議有長の歌碑が残されている。
     みてくらの使にかさねて むかひける帰るさに  玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに     参議有長   通常例幣使は往路は例幣使街道を使い、復路は東海道を使うのだが、有長は帰りも中山道を使ったわけである。
 その他 今井本にいう木島薬局の出桁造りなどは無くなってしまったようで、あたりは住宅も新しくなっていた。 11:20

 ■玉村6丁目~飯倉
 しばらく歩くと右手に養蚕ゆかりの●上州櫓(やぐら)造りの民家があった。そのうち直線だった街道が緩く右へ曲り始めるが、この辺りが宿場の下木戸があった場所といわれる。その左側に石仏群があるが、一角に●毘沙門堂の石灯篭が建てられている。この石灯篭は江戸時代、下新田村と飯島村の境にあった毘沙門堂の常夜灯だったと云われているが、文化財としてこの地に保存しているもの。   この先で「文安銘の五輪塔」の案内板に従い、街道を外れ500mほど行くと、墓地の中に●文安銘の五輪塔と呼ばれる対の五輪塔がある。室町時代の文安5年(1448)と文安6年に建立された夫婦の墓だが、仲良く寄り添い、端正な形で微笑ましい。
  街道に戻り、国道354を真っ直ぐ、工業団地の中を進み、右手にJAがあるあたり、●左手に老人ホームがある所を左に曲がるのが旧道であるので、左の細い方へ曲がって五料宿へ向かう。    12:37

■飯倉~五料
 旧道への入口に●聖蹟記念碑と刻まれた石塔がある。陸軍の天覧演習があった場所のようだ。旧道に入り、静かな道を700m程歩くと左手に●常楽寺がある。ここは玉村に伝わる「千代寿丸伝説」ゆかりの寺で、水死した千代寿丸の遺体を竜神に祈って探し出したという僧のいた密厳院の後身という。寺の参道には沢山の石仏が置かれている。
 参道入口に●道標がポツンと立っていて、「利根川渡船 玉村町小泉道」と刻まれているらしいが、実際のところ摩滅して読みにくい。 国道を横断して先に進むと●五料宿の町並みとなる。昔の趣は残っていないように思われる。    12:53

 ■五料宿
 宿場に入って、案内板に従って左に入ったところに ●五料関所跡がある。 慶長6年(1601)厩橋藩(前橋藩)により正式に関所を設け、元和2年(1616)には幕府の承認を得ている。 五料の関所に特別に課せられた任務が例幣使の通行と舟運の取り締まりで、上り舟(江戸に向う舟)には特に厳しい船中改めが行われていたのだとか。史跡としては道路両側に「関所門跡の沓石」が残り、土手沿いの裏手に●鉄柵で囲われた井戸跡の二つだけ残っている。
 関所跡から南へ100mほどの路地奥にある●石垣囲いは舟問屋だった高橋清兵衛家の屋敷跡で、石積みの周囲は500mほどで、広大な敷地だけがほぼ残っているとは不思議な感じだ。    13:20
 五料宿
 地名の由来は朝廷の御料だとか、御霊信仰からとかいわれている。例幣使街道の渡し船の渡船地点であり、交通の要衝であった。1601年、前橋藩により関所が設けられた。 これに接するように数軒の旅籠ができ宿場町が形成された。天明3年の浅間山噴火により大被害を受け、関所も全滅した。関所の復旧の際、街道が付け替えられている。 本陣 0 旅籠2

  ■五料~柴町
 現代の●五料橋で利根川を渡る。利根川の渡しは関所を通過した所で、五料橋の少し下流にあった。橋を渡ってすぐ左に入ると、●柴町八幡神社が見える。源頼義が前9年の役の際、戦勝祈願したと伝わる。
 街道に戻ると●旧例幣使街道の標柱が立つ柴宿の町並みが真っ直ぐ続く。浅間山の噴火の前までは中町の雷電神社へ直線的に延びていたのだが、災害後宿場が現在地に移転した。
 宿の中程に●関根家本陣があったのだが、残念ながら昭和46年に解体され、現在残るのはは本陣門と老松のみ。  
   13:50
 柴 宿
利根川を渡ったすぐの宿場で、規模は比較的小さかったが、中町・堀口などの 加宿を加わえるとかなりの規模の宿場であったようだ。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。現a在の町並みに往時の 面影はあまり残っていないが、本陣跡周辺に往時の水路が復元されている。  玉村宿で一泊した例幣使一行は柴宿の本陣で休憩することが慣わしとなっていた。本陣1 脇本陣1 旅籠17  

 
 ■柴町~堀口町
 街道はその先で●右へ曲り、250m位で左へ曲る枡形を造る。その左へ曲る街道の突き当たりに●雷電神社がある。社殿の左右に鏝絵が施されているのが珍しい。 境内に浅間山噴火に伴うものと思われる溶岩で富士塚の様な塚がある。
 雷電神社から道は東へ進み、中町と堀口町と続く。共に柴宿の加宿で毎月10日までが柴宿、20日までが堀口町、30日までが中町と交代に問屋場を勤めたという。堀口町交差点手前を左に入る●満善寺は日光山中禅寺を開山した勝道上人の建立と伝わっており、由緒が古い。 14:10

 
 
 ■堀口町~三橋
 堀口を過ぎた「昌雲寺」あたりから道は少し右に折れ、広く直線的になった。左手に「東京福祉大学」が現れた。除ヶ町交差点の先大正寺町に入ると、又道が狭くなった。街道左手に鳥居が美しい●豊武神社があって、境内に●石仏道標が一基ある。安永8年に建てられ(1779)、例幣使街道沿いにあったものだが、上部に二十二夜信仰に基づく如意輪観音が彫られ、台座に「右ちゝぶ 左日光」と刻まれている。
 又その先の公民館庭にも道標がある。しばらく行くと右手に黒御影石の石碑があり、●「伊勢崎織物 大絣(かすり)発祥の地」と彫られている。伊勢崎市は桐生市と並ぶ群馬県下の2大絹織物生産地で、明治には伊勢崎銘仙と呼ばれ全国に声価を高めたという。その記念碑。 その先水路際に●遺跡三ツ橋碑と庚申塔を収めた祠がある。解説によると、建仁2年(1202)世良田長楽寺を開山した栄朝禅師が三ツ橋を通りかかるった際ハシカにより苦しむ子供を見て、すぐに経文を唱えると、たちまちハシカが直ってしまったのだとか。  15:10

 ■三橋~下連町
 馬見塚町交差点を過ぎると飯玉神社が鎮座している。隣の●延命寺は例幣使一行の御小休所でもあった所。
 10分程あるいた先、左手に例幣使街道を歩く人に大変人気だという●忠治茶屋がある。焼きまんじゅうで有名だそうだが、時間の関係でパス。
 茶屋のすぐ先右手に●「旧日光例幣使街道 右赤城」という標識が立っていて、幣使街道は右に入り、畑の間の細い道を行くのことになる。なぜこんな風に右手に入って行くのか地図を見ると広瀬川がぐっと回り込んでおり、このあたり湿地帯になっていたのだろうと思われる。   15:35

 
 ■下連町~武士橋
 ●畑の間を行くと「右赤城説明板」があった。これまで左に見えていた赤城山がこの場所だけ右後方に見えるとのことだが、今日は雨が降ってきたので見通しがきかず、右方向に赤城山は見えなかった。
 街道は左に曲がり、突き当たると県道296号に出て、ここを左に曲がる。脇に●道標がある。刻まれている文字は摩滅してほとんど読めないが、「右五りょう 東日光道 左ほんじやう」と彫られていると今井本には書いてある。下蓮町交差点から国道354号に入る。
 ほどなく国道は右へ大きく曲っていくのだが、旧道は●真っ直ぐ広瀬川の土手に向って行く。
 広瀬川の土手を上りきったところが●旧竹石の渡し跡。脇に「日光例幣使道 境版」の案内板がある。 竹石の渡しは現在の武士橋の50m程上流いあったそうだ。広瀬川を武士橋で渡れば境宿が近い。         15:55

 ■武士橋~境萩原
 武士橋を渡り、一つ目の交差点を左に入ると●旧例幣使街道に復帰する。人気がないが昔の例幣使街道の面影を良く残す。、輿に揺られ居眠りした勅使が、武士村との境まで向えにきた境宿の町役人に起こされると、「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」と言ったのだと書いてある、「乳母の懐」という案内看板に出会ったが。よくよく読むと「乳母の懐」の場所は看板の立つ場所ではなく、ずっと先の境宿手前、境萩原という所である。
 ほどなく左手に●八海山と呼ばれる築山があり、御嶽神社が祀られている。昔一本松と云われた一里塚跡というが定かではない。隣の鳥居は一本松稲荷大明神。
 この先400m程でと国道354号に合流する。国道を進み●右手の旧道に入ると「境萩原」になり、先ほどの「乳母の懐」と呼ばれる場所なのであろうか。境萩原交差点を右に曲がると境宿に入る。     16:15


 ■境 宿
 ●境宿の町並みに入った。この辺りが上の木戸跡、上丁切(かみちょうぎり)と呼ばれていた所。あまり昔の風情は残されていないが、結構蔵造りの家が残っており、また間口が狭く奥行きの長い建物が目に付く。
 交差点のすぐ先左手に●問屋場跡で看板が立てられている。 その先、右手スーパーの駐車場脇に●織間本陣跡碑が据えられているが、ここは寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太郎の家を移築したものだが、残念ながら取り壊されてしまって、残るのは石碑だけ。    16:22
 境 宿
 境宿は長く「立場・間宿」としての存在で、正式の宿場となったのは幕末の文久3年(1863)のこと。集落としては室町時代からあり広瀬川東岸の舟着場として地歩を占め、戦国時代には那波と新田の境というところから境と呼ぶようになった。浅間山噴火により中山道が途切れ、代替街道として宿駅として格上げになっている。本陣1 旅籠12

 ■境萩原~境駅
 織間本陣の斜め前(ぐんまみらい信金)に●「飯島本陣跡標柱が建てられている。飯島家は文政12年(1829)に建物が破損して織間家が本陣となった。●境町駅前交差点に来たが、正面の群馬銀行の植え込みに境町境町道路元標の石柱が立っている。
 今日は案外と距離があり、帰りの電車も1時間に2本しかないので、ここまでとして、左折して●境町駅から帰宅することにした。次は境宿の残りから始めたい。     16:30

       2 境町~太田