例幣使街道歩き旅 5
     (栃木~楡木まで)
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 栃木駅-開明橋-倭町-常磐橋-万町-嘉右衛門町-大町-合戦場-金崎-小倉橋-楡木追分   15.70km
 

 1 倉賀野~境町  2 境町~太田 3 太田~佐野 4 佐野~栃木  栃木~楡木

 2014年7月12日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■栃木駅~開明橋
 午前9時 ●東武栃木駅到着。今日で例幣使道5回目、壬生街道との追分けである楡木まで行き、ゴールとしたい。
 駅到着後、直ちに前回の終了地点である、左右の方向は「大通り」と書かれた案内標識がある交差点へ向かった。大通を渡って道なりに進むと県道31号線に合流する。合流したら●少し先の交差点を左に曲がって行く。巴波川に架かる開明橋の手前左手に●熊野神社が鎮座している。神社はごく普通のものだが、境内に●石仏が3体建てられているのは神仏習合時代のなごりであろう。開明橋を渡ると木戸が設けられ、宿の入口を示していたという。橋の向こうに古民家が1軒見える。橋を渡って栃木宿に入るとしよう。     9:20
栃木宿
 栃木は皆川氏五代広照が天正19年(1591)南端の城内町に栃木城を築いて城下町を形成したのに始まる。皆川氏没落と共に廃城となるが、巴波川の河川交通を利用した市場町として、また、例幣使道の宿駅として発展した。明治維新後、一時は宇都宮・栃木ともに県庁が置かれたが、宇都宮に県庁が移り、栃木は県名に残るだけになった。本陣1 旅籠7

 ■開明橋~定願寺
 ●室町交差点を右折する。右折した●県道11号が栃木宿のメインストリートである。古い建物がちらほらと目に入り、これから巡るのが楽しみな感じ。右折後、さっそく向った所は右手に少し入った●定願寺。天正年間(1573~1591)に川連村より当地に移された寺だが、江戸末期の元治元年(1864)攘夷を掲げた天狗党の本陣となっている。 栃木宿は天狗党の分派、田中派により焼き討ちされ全焼している。境内の、●不動堂の彫刻扉が素晴らしい。僧文覚が熊野の那智の滝で荒行する場面を彫ったということだが、よくよく見てもよくわからなかった。   9:30

 ■定願寺~倭町交差点
 県道に戻って北上して行く。栃木宿は巴波川の 舟運によって栄え、豪商達が建てた土蔵が今でも残り、登録文化財だらけでゆっくり見て回ると1日かかるくらい見所が多い。しかしそうゆっくりもしていられないので街道際をサッサと見ておくことにとどめたい。 右手に古民家、重厚な蔵造りの家が数軒並んでいる。一番手前が●三枡屋本店。嘉永元年(1848)創業の人形店。1軒置いた見世蔵は●毛塚紙店。江戸中期より紙商を営んだ老舗。
 その先の倭町交差点を左に曲がると、左手に塚田歴史伝説館があるが、入って見る時間はないなと思い、入らずにすませる。その先の幸来橋の上に立つと、●船運の中心、巴波川と塚田歴史伝説館を眺めることができる。塚田家は江戸時代後期に木材回漕問屋を営んでいた豪商であった。
 倭町交差点に戻る途中、左手に少し入ると●長谷川本陣跡の建物がある。建物はもちろん新しくなっている。案内板も立っていない。 9:55

 ■倭町交差点周辺~常磐橋
 倭町交差点を左に曲がり先に進む。荒物屋の見世蔵が2軒並んでいる。右が●井岡荒物屋、左が五十畑荒物店。どちらも登録文化財で建物は明治中期に建てられたもの。
 その先肥料の大きな看板が出ているが、●漬物屋の本澤屋商店。漬物店なのに看板が肥料店のまんまとはこれいかに?
 その先の見世蔵は●蔵の街観光会館。もと「八百金」の名で知られた荒物・麻苧問屋田村家の店舗で明治37年の建築。奥の土蔵群は食事処と土産品販売所で、蔵の街の観光拠点となっている。  10:00

  観光会館脇の道を右手に入った突き当たりは栃木の総鎮守である●神明宮。創建は応仁10年(1403)と云われているが、天正17年(1589)に皆川広照によって現在地に移された。栃木の地名の発祥伝説がある。本殿は伊勢神宮に倣い、神明造りである。 神社の北側に近龍寺があり、墓地内に「路傍の石」等で有名な作家の●山本有三の墓がある。墓石には文学碑が据えられている。山本有三は呉服商の子として地元栃木市に生まれている。
 観光会館の隣のバルコニ-を持った洋館は●好古(こうこ)壱番館で見かけとは大違いのそば屋さんであった。   10:16

  その手前は●あだち好古館。建物は文久3年建設 の土蔵倉庫で、江戸末期から呉服問屋を営んでいた安達幸七が蒐集した浮世絵や書画、彫刻、古美術品などが展示されている。
 ●山本有三ふるさと記念館は山本有三の資料館。あだち好古館の対面が山車会館で、隣が蔵の町美術館で、このあたりまことに目まぐるしく見所が沢山あり、見て回れない。いずれゆっくり再訪しようと思う。
 常磐橋を渡った巴波川沿いには豪商の蔵が沢山並んでいたが、右岸に見えるのは●横山郷土館。麻問屋と銀行を営んでいた豪商横山家の建物。巴波川の両端の歩道の様な部分は「綱手道」といって、江戸からの帰り舟は流れの速い巴波川を上れないので麻綱で舟を引いたのだが、その曳く道のことをいう。  10:21

  常磐橋を渡って●県庁堀へ向かう。堀の先の洋館は元栃木県庁があった場所に建てられた●栃木市役所別館。旧栃木町役場として大正10年に建てられたもので、国登録有形文化財である。
 別館及び市役所を囲むように設けられている堀が「県庁堀」と呼ばれる。明治6年に栃木県庁を置いた際設けられた。栃木県庁は明治17年に宇都宮市に移されてしまった。
 県道に戻って先に進む。右手の●とちぎ歌麿館は「古久磯提灯店見世蔵」を活かして造られた資料館で、歌麿とその時代の関連資料を展示している。歌麿は京都に生まれだが、近江商人「釜屋」を頼って 母とともに幼くして栃木にやってきた。その後浮世絵師とし成功を治めた。  10:31

 ■常磐橋~万町
 その先●下野新聞栃木支局社はもと肥料豪商の毛塚惣八が文久元年(1861)に建設した見世蔵で、黒漆喰塗とする重厚な土蔵造。と、歩いて来て、そろそろ栃木宿も終わりのころになってきた。宿場は●万町交番前の十字路で終わる。右手角の●万町交番はさすが「蔵の町」という感じで、蔵造りなのであった。万町交番前十字路を左へ曲がる。  10:35

■万町~嘉右衛門町(重要伝統的建造物保存地区) 
 十字路を左に曲がり、すぐ右手に入って行くが、その先は●嘉右衛門町と呼ばれている。新田開発に尽くした岡田嘉右衛門に由来する名前である。十字路左角に案内板が置かれていて、平成24年7月9日、国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 
 保存地区の説明は説明板に依りたい。日光例幣使道に沿って、平柳新地、嘉右衛門新田村など、近世初期に開発された村々が発展してできた町並みで、天正期(1573~1592)に足利から移り住んだ岡田嘉右衛門によって開発されたと伝わる。嘉右衛門新田村には畠山藩の陣屋も置かれた。
 入ってすぐの左手の建物は●舘野家の住宅店舗。昭和7年の建築で国登録の有形文化財。その先右手に●岡田記念館がある。岡田家は26代続く栃木きっての旧家で、その屋敷は畠山氏の陣屋となっていた。屋敷前に●畠山氏の陣屋跡の石碑が建っている。
 10:50

■嘉右衛門町~大町
 先に進むと、三叉路の中央に●道標を兼ねた庚申塔が建てられている。「右 おざく道 日光道 左 三日月道」と刻まれている。その先左手に味噌蔵の●油伝味噌がある。創業は天明年間。建物は明治時代の土蔵他5棟が国の登録有形文化財の指定を受けている。店の中で味噌田楽を食することができるみたいだったが、開店前の様で通り過ぎた。
 見藤32号「例幣使通り交差点」を渡った先右手●大島肥料店の見世蔵も明治15年建築で、国登録有形文化財になっている。しかし奥の蔵は壁がはがれ、荒れ始めている印象である。
 その先●二股があり●日光例幣使街道の新しい石標が立つ。右に行くのが「日光道」。左に行くのは「足尾道」で、道標に従い右へ行く。 11:02

■大町~都賀町合戦場
  その先で栃木環状線を横切るのだが、信号がないので左右注意してサッと渡る。その先、●県道3号に合流して、東武日光線を階段で跨ぐ。この先金崎宿を過ぎるまで県道を進んで行く。日曜日で車が少なくて良い。
 やがて合戦場信号へ着いた。●合戦場宿である。合戦場という地名は、その字のとおり合戦が行われた場所。大永3年(1523)10月、宇都宮忠綱と栃木城主皆川宗成の軍が戦い、皆川方についた小山、結城、壬生の諸氏が宇都宮軍を敗走させた川原田合戦の戦場がここである。宿は500mほど続くが特に宿らしき痕跡は残っていない。
 左手合戦場郵便局の先、右手に●小平浪平生誕地碑がある。日立製作所の創業者小平浪平は、明治7年1月15日にこの地で生まれた。日立の創業者の由来地が日立市ではなくこことは意外だった。  11:40
合戦場宿
 戦国時代の大永3年(1523)宇都宮忠綱と皆川宗成が合戦した川原田合戦に由来する。飯盛女で有名であってそれなりに賑わった宿場であったが、宿場時代が終わると他の宿場と同様に静かな町並み に変わってしまった。本陣1 脇本陣1 旅籠25

 ★合戦場宿
 街道を左に入った線路沿いの一角は昭和33年まで遊郭だった地で当時の建物が残っているというので、それらしき辺りを歩き回ってみたが、痕跡は全く無い。もう50年以上の事なのでそれはそうだろう。それで線路向こうの●磐根神社に行ってみた。昔は磐根神社付近から沼一帯が標茅ケ原(しめじがはら)という沼だったそうだ。今では沼の面影すら見えない。
 街道に戻って、左手の●若林氏宅が脇本陣跡。反対側に●本陣跡の秋田氏宅がある。案内板がなく予備知識がないとわからないだろう。 12:05


 ■都賀町合戦場~升塚
 合戦場宿から金崎宿まで1里30町、約7km史跡が少なく、一路県道を真っ直ぐ進む。
 宿場を出た先の民家の庭に●●六基子育地蔵尊という立派なお堂が建っている。由来が長いので案内掲示を読んで下さい。
 その先の案内板に従って右へ入ると小山があるが、ここは●升塚と呼ばれる戦死者を弔った塚である。合戦場の由来になった川原田の合戦で両方の戦死者を集めて葬った塚である。脇に小さな地蔵堂が建てられている。
 升塚の先で●旧道に入って行く。合流直前に地蔵堂があるのだが、祭りがあるらしく、地元の人が忙しく出入りしているので、おじゃまできなかった。12:21

 ■升塚~金崎
 北関東自動車道を過ぎた左手に●猿田彦神社があったのでちょっと休憩。猿田彦大神は天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。、道案内したことで旅の安全の神」として信仰を集めているという。
 境内の一角に立派な●宝筺印塔が建てられている。標柱に「 史蹟 良仙院跡(宝筺印塔) 」と記されているので、かつてはここに寺院があったのだろう。廃仏毀釈で無くなったかもしれない。
 神社の先、左手に●石仏が沢山置いたある所があった。十九夜塔が多い。 又30分もひたすら歩き続け●「金崎宿の町並に入る。合戦宿と同様特に変わった雰囲気もなく、静かな町並みが続く。   14:15

■金崎~小倉橋
 東武金崎駅入口を過ぎた左手に●立派な屋敷門が見える。門だけが見えるが後ろの方はどうなっているのかっわからない。 その先右側の●古民家も立派な造りで本陣を思わせるような門を持つ。
 少し先、左手の大きな屋敷が●本陣の古澤氏宅である。建物は新しいが門と板塀が雰囲気を残している。金崎宿の本陣は古澤家が務めていた。(吉澤家と書いていましたが古澤家が正しい)  宿場はこの先の二叉で終わり、例幣使道ははこの先で●県道と分かれ旧道へ入る
金崎宿
 例幣使道最後の宿場。ごく平凡な宿であった。 本陣1 旅籠12

小倉橋~磐裂神社
  ●思川に架かる小倉橋で対岸へ渡り、すぐの土手の上を左へ入って行く。鹿沼市に入った。その先は国道293号に合流して、楡木追分まで国道を歩くことになる。
 国道を数分歩くと●磐裂根裂神社がある。例幣使一行が参拝したという記録が残っているのだとか。神社の裏に●女人講十九夜塔が5体並んでいる。右側4体の塔は古そうだが一番左の塔はま新しく平成の作である。平成の世の中でも十九夜信仰が続いているようで感心した。  14:45

■磐裂神社~楡木追分
 途中に磯山神社の案内があったので、壬生街道の時に行った気もしたが寄って見た。樹木がうっそうと茂った、幽玄な雰囲気の中に●磯山神社が鎮座している。一条天皇の永延2年(988)の創建と伝えられる古社である。本殿は県有形文化財に指定されている。 街道に戻り、北自動車道の高架下を過ぎると、右手に日光壬生道が見えてきた。逆に壬生道を歩いた時、左手に例幣使道が見えてきたのを思い出す。やがて●例幣使街道と日光西街道の合流点に到着。真ん中に●追分道標立っている。摩滅して文字が読みづらいが、 「左 江戸道 右 中山道」 と読むようである。例幣使一行はここから●日光西街道(壬生道)を通って今市宿に入り、今市から日光へ入り東照宮に幣帛を奉納したのであった。
 楡木から先の行程は壬生街道遍を参照して下さい。   15:40    以上で例幣使道終了です。

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