例幣使道歩き旅 2
     (境町~太田まで)
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 境駅-境東世良田-女塚-三ツ木-新田小江田町-木崎町-宝町-西本町-太田駅     12.87km  
 

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 2015年5月4日
■境駅~瑳珂比神社
 ●境駅到着。今日は徳川氏の由来地である世良田に寄って行くので、太田宿まで行こうかなと思う。本線の距離は15km程である。
 駅を出て前回の終了地点まで行く。途中左手に●赤レンガ倉庫が見られる。大正8年に建てられた繭の乾燥に使われた倉庫だそうで、昔のレンガ造りの建物は皆風格があって良い。
   駅前交差点を通過して行くと●瑳珂比(さかい)神社に突き当たる。昔は石剣(いするぎ)稲荷大明神といった町の鎮守で、明治40年に7社を合祀そ現在の名称に改称した。境内に市神があって、例幣使道と六斎市の説明板がある。神社の東側の長光寺の境内に●芭蕉句碑がある。
                     春も漸 けしき調う 月とむめ  芭蕉翁                                 9:20

 
■瑳珂比神社~境東
 元の駅前交差点に戻って先に進む。群馬銀行駐車場の辺りが●高札場跡で看板が立てられている。町内の建物では昔の税金の関係だろうか間口の狭く、奥行きの長い建物が多いと思った。今井本では井上スーパーが旅籠屋の跡と云うが、スーパー自体が無くなっている。
 古い町屋風な建物と合体した●板倉屋薬局の看板建築が珍しい。洋館の方は昭和8年の建築だそうだ。●境東交差点の手前が宿の出口である下丁切付近。右手に●「ここより例幣使道境宿」と書かれた標柱が立っている。                             9:35

 ■境東~稲荷神社
 すぐ右手に●水戸屋という和菓子屋がある。創業1895年創業の老舗。店前に●日光例幣使街道 かりやど宿と書かれた真新しい石標が店の前にある。かりやど宿とは間宿の意味で、境宿は長いこと間の宿で宿駅となったのは文久3年(1863)のこと。
 街道はこの先で枡形道となっているのがちょっと複雑で、●大竹鉄工所手前で右に入りコの字型に左に曲って行く。枡形道の途中に●東町の道しるべと書かれた標柱があるが、隣の石碑は天明7年(1787建立の道標で、西面 「右江戸 なかせ 左日光きさき道」。東面 「此方世良田 たてはやし道」などと刻まれているそうだ。 このまま東に進む道が徳川家康の先祖という得河家が新田氏の子孫として住みついた世良田への方向をしめしたものであるという。最後に左に曲がると元の国道354にぶつかるが、その向こうに●稲荷神社が見える。                  9:43

 
   寄り道 ■稲荷神社~世良田上町
 稲荷神社からの例幣使道を一旦終わって、道標の示す世良田に向かい、徳川氏由来の地を訪ねてみることにした。太田市西部地域は源義国(源義家の子)を父とする義重が開発した荘園の新田荘があった地であるという。神社から東へ1.5km位で徳川氏由来の長楽寺や世良田東照宮がある。又その南東に徳川町があり、縁切り寺で有名だった満徳寺などがあるのだが、そちらは時間がなく行けなかった。
 国道を東に10分程行くと右手に●総持寺がある。新田氏の祖である新田義重の館跡といわれた所で、境内に●館跡碑が立っている。詳しくは案内板を見て下さい。ちなみに新田義貞は義重の八代目にあたる。
 総持寺から300mほど進み、左へ入った奥にあるのが●清泉寺。無住の感じのする寺だが、こには「悪源太」と呼ばれる●源義平の墓がある。義平は、源義朝の長男で、15歳のとき叔父義賢(木曽義仲の父)を武蔵大蔵館で討ったという剛勇で知られたが、平治の乱に敗れ、京に潜入して清盛を狙ったが捕らえられ、六条河原で斬首された。義平の妻は新田義重の娘で、夫の首をひそかに持ち帰ってこの地に埋葬したという。義賢の館跡を鎌倉街道上道を歩いた時訪れたが、義賢を討った義平の墓がこんな所にあったとは初めて知った。    10:15

 
 ★世良田・長楽寺
 清泉寺から国道を夾んで南側にあるのが徳川氏発祥の地というべきか、長楽寺や東照宮などがあって、全体が歴史公園になっている。
   (徳川氏の出自について)
 義重は四男義季に新田庄のうち徳河他五ヶ村を分与、義季は得川を名乗りこのあたりに館を設けた。八世親氏は世良田を出て、三河国松平郷に到り土着して松平氏となり、家康に到ったという。しかし徳川氏の出自については大体が明らかではなく、天下を取った家康としてはその先祖を源氏に発した新田氏の出と称して箔を付けたかったのだろうといわれる。以前何かの本を読んだ限りでは、14世紀に徳阿弥という時宗の放浪僧が松平郷に流れ着き、時の松平家当主に見込まれて婿になり、松平親氏と名乗った。この子孫が家康に繋がるのだということだった。徳川氏のルーツは松平親氏であり、親氏は新田氏の子孫である。というような系図を作ったというのが本当のところではないかと思う。そのあたりを念頭に置いて見て回りたいと思う。
 長楽寺は義季を開基とし、臨済宗の開祖・栄西の高弟である栄朝を開山として承久3年(1221)に創建された。栄朝は名僧の誉れ高く、興隆を極めたが、戦国時代には衰退した。家康が関東に入ると、徳川氏祖先の寺として長楽寺を重視し、天海大僧正を住職に任じ、天海は天台宗に改宗し、その復興にあたらせ、末寺700余ヶ寺を擁する大寺院となったという。
  県道側からは入らず、途中の●本堂山門から入る。境内が広く、●新田氏累代の墓所がある。中央に前方後円墳があって、後円部が●義季公累代の墓所になっている。●太鼓門は県重要文化財。又勅使門、三仏堂も重文となっている。         10:40

 
 ★世良田東照宮
  長楽寺の南隣にあるのが世良田東照宮。江戸時代までは長楽寺と一体になっていたのだろうと思う。家康は元和2年(1616)駿府城で75歳の生涯を閉じた。遺体は一旦久能山に葬られたが、翌年日光に改葬された。3代将軍家光は日光東照宮の大改築を行い、旧社殿の一部を天海に命じて、長楽寺境内に移し東照宮を勧請した。
 まず●黒門から入ると、●鳥居と拝殿がある。写真が上手く撮れなかったのだけど、拝殿は家光が日光東照宮を改築した際に、当時の東照宮をここに移築したもので重要文化財。●本殿、唐門を拝観するには300円の拝観料が必要である。拝殿前の●鉄燈籠は元和4年(1618)秋元長朝の寄進になるもの。その外に●各藩主の奉納した石燈籠があちこちに立ててあった。       10:55


 ■稲荷神社~東武線踏切
 さて世良田見物が終わり、又1.5km歩いて稲荷神社まで戻って来た。ここの境内にも●芭蕉句碑がある。
                       時鳥 招くや麦の むら尾花    翁
 旧道は稲荷神社の左側を通っていくのだが、今は道が無く通行不能。そこで宿場方向に少し戻ると● 「旧例幣使街道木崎宿方面」と書かれた標柱が立てられているのでここを右に入って行く〈但し宿場方面からだと左側)。この先公園の所を右へと曲って行く。公園の辺りに首切り地蔵があるというが、わからなかった。
 県道312号にぶつかり左折する。その先女塚会館脇に●女塚薬師道道標が法楽寺から移設されている。天明8年(1788)に建てられて道標を兼ねており、「右 薬師湯泉道」、「左 太田 日光」と刻まれる。東南500mの所に頼朝が入浴したという「薬師の湯」という鉱泉があったらしい。
 道標から北へ5分ほど歩き、東武線の踏切り手前を左に入った小さな寺●法楽寺。かつては七堂伽藍の整った大寺院だったそうだが、その面影はない
    11:45

 
 ■東武線踏切~小石田橋
 街道は東武線の踏切りを渡って県道沿いに右に左に曲がって行くのだが、途中に●子育て地蔵は願いが書かれた赤いタスキでぐるぐる巻きにされている。やがて●早川を三ツ木橋で渡るが、その手前に国定忠治の子分だった「三ツ木文蔵」の生家があって、「文蔵屋敷跡」の標識があるというので、随分注意しながらゆっくり進んで行ったのだが、結局わからなかった。
 やがて国道17号の高架下をくぐり、小角田交差点手前で左斜めに農道を進んで行くと、小石田橋で●国道354号の土手で遮断されて通れなくなってしまった。しかたなく手前を右に迂回し、土手下の小さな水路を跳び越え、石田川土手に這い上がり、土手を川沿いに進み、国道を越えた。12:20

 ■小石田橋~新田中江田町
 小石田橋から●国道の1本北側の細道が旧道のようだ。新田中江田町の交差点の先を左に曲がると奥の方に●矢抜神社の赤い鳥居が見える。 参道が長い。中江田町は新田義貞の家臣、江田行義の所領の地であり、行義の信仰が厚かった神社であった。社殿は古墳時代前期の前方後円墳の上に立っているのだそうだ。
 神社の先隣は来迎寺がある。鎌倉時代の仏頭が保存されているそうだが、いつもの様に見ることはできない。来迎寺から10分程歩いた先、右手に●三本辻地蔵堂がある。ここは利根川中瀬の渡しに通じる道があった三叉路で、明治の耕作整理で失われた。●地蔵は住民の椎名長兵衛が西国・坂東・秩父の百ヵ所の観音札所を参詣した記念として、正徳5年(1715)に建立したもの。   13:05

■新田中江田町~新田木崎町
  やがて左手に●医王寺があり、医王寺から木崎の宿に入る。医王寺は無住の感じがするひっそりとした寺だが、特徴は本堂参道に聳える2本の大イチョウ。「一隅を照らす」・・・・・・などという4本ろうそくのモニュメント。
 ●木崎宿の町並みとなるが、宿になったのは明和3年(1766)というが、例幣使道が成立した頃には本格的な宿として活動していたという。度重なる火災で古い町並みは失われている。
 左手にある造り酒屋は●明治8年創業の「山崎酒造」。規模がかなり大きそうで表からだけでも古い醸造蔵が見え、造り酒屋の雰囲気をたっぷり感じる。店の隣の古そうな屋敷は当主のものかと思われる。
 その先の新田木崎町交差点に●木崎宿碑が建てられている。交差点は左右の道が微妙にずれる筋違い道になっていて、江戸初期に発見された足尾の銅を江戸に運ぶために開かれた銅(あかがね)街道が交差している。       13:17
 木崎宿
 宿になったのは明和3年(1766であるが、例幣使道が成立した頃には本格的な宿として活動していた。昔からあった貴先神社の名をとって宿名としたと伝わる。飯盛り女が沢山いたことで有名で大変賑わったが、度重なる火災で古い町並みは失われた。
 本陣1 旅籠34

■ 新田木崎町~木崎下町
 交差点すぐ先右手の●さいとう接骨院が松の木斉藤と呼ばれた下の問屋場跡であとうと思う。裏手が空き地になっており茂木本陣跡地らしいが、石祠が確認できなくてわからなかった。
 さらに300m位先の交差点を右に入った奥に●木崎宿の総鎮守、貴先神社がある。元々大国主命の后である須勢理毘売命を祀り、その名前から貴先神社となり、それが木崎の地名になったと云われている。さらにすぐ先左奥に長命寺があり、入口前に●萱葺きの小さなお堂がある。ここに●色地蔵と呼ばれている地蔵が祀られている。木崎宿には多くの飯盛り女がいたことはが、彼女たちは年季奉公で遠出が 制限されていたため、宿外れのこの地蔵に参詣し心の安らぎを得ていたという。 こうして多くの色街の女が訪れたことからいつしか「色地蔵」と呼ばれるようになったのだとか。 13:37

 
 ■木崎下町~宝町
 街道はやがて●木崎宿の石碑が置かれた三叉路から左に入り、しばし県道と別れて進む。脇道は●水田の中に1本道で、「弁天沼川 高寺川防災調整池」と書かれた調整池(尤も水がなくて草ボウボウ)にぶつかり、右折して県道とと合流する。少し県道を進んだら、●左手常楽寺への参道の先の二股を右斜めに入って行く。
 また県道をを横切ると、●ずっと細い道が続くようになった。この道も少しだけで再び県道に合流した。少し先は団地が並んでいるせいか、賑やかな通りになって、左手にファッションセンターやスーパ-が並んでいるので、スーパでコーヒーなど飲んで小休止。
 宝泉小入口信号の所を右へ行く道は古例幣使道といわれる。南東には高山彦九郎生家跡があるそうだがいささか遠く、行く元気がなくパス。14:15

 
 ■宝町~西本町交差点
 県道が右に曲がる角に●●群馬泉醸造元島岡酒造がある。150年続く蔵元で建物がいかにもという風格を備えて歴史を感じる造りである。
島岡酒造からすぐ先、左手の威光寺は新田義興菩提寺である。 新田義興は新田義貞の次男で、鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清2より多摩川の矢口渡で謀殺された。本堂の裏手にある●法篋印塔が新田義興の墓といわれる。
 その後30分も歩くと、●県道2号と合流する。      15:36

■ 西本町交差点~永森橋
 東武線のガードをくぐり、●太田の町に入った。さすがに大都市の様な感じ。宿場の入口はまだ少し先。●永森橋●八瀬川を渡っる。橋の右手に●旧日光例幣使道と刻まれた石碑が建てられている。この辺りに宿入口の戸があり、ここから太田宿となる。 今井本にいうお休所松の屋跡や芭蕉屋という旅籠屋などは全くわからない。  15:52
 太田宿
 太田という地名は推古天皇の時拓かれた新田が非常に大きかったまら名付けられたという。そして新田義重の子孫と称した家康が大光院を建立、それに伴って次第に発展したということである。宿場となったのは生保2年(1645)。宿内は拡幅工事が行われたため昔の面影は あまり残っていない。
 本陣2 旅籠10

■永森橋~太田駅
 長念寺の先の●東光寺にも新田義興の墓があるらしいので寄って見た。先ほどの威光寺にもあったが、この関係はどうか?。まあ有名人の墓というのはあちこちにあるものだけど、案内がなくてわかりにくいが、墓地の一番奥、岡家墓所にある●無縫塔がそれらしい。
 少し先●太田行政センターの前に、大きな●本陣跡の石碑が置いてある。太田宿本陣は、代々金左衛門を名乗り、太田草分け13家の筆頭だった。元和3年(1617)の日光東照宮完成に伴う宝令使一行も同家に泊まっており、太田が宿駅となるに先立つ元和8年に本陣となっている。 センターの裏手に市重要文化財の旧金山図書館があった。
 その先●東本町十字路は昔の高札場跡。 直ぐ先右手が東武太田駅なので、本日はここまでとした。   16:25

 
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