下仁田街道を歩く1
        (本庄-吉井)
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 本庄分岐-七本木-三町-長浜-神流川-藤岡-四丁目-緑町-大塚-小串-西谷-吉井駅  20.13km
 

  下仁田街道
 中山道の脇往還として設置された街道で、難所の碓氷峠を避けたり、厳しい関所を避けたりができた為、女性が比較的通り易い事から「姫街道」などとも呼ばれました。大名行列に使用されず、その分物資の往来は盛んで、活気ある街道でした。。中山道の本庄宿から分岐し、富岡、下仁田などを通り、再び中山道の借宿に合流します。 約70km。
 参考資料

  「再発見シリーズ第2弾 中山道の脇往還 藤岡道の再発見 本庄市」
 「歴史の道調査報告書 下仁田街道
 群馬県 」
  「歴史の道調査報告書 女街道     長野県 」


 2024年2月18日  * 写真をクリックすると拡大します
■本庄駅~下仁田街道分岐
 今日は下仁田街道を歩くため、●本庄駅にやってきました。中山道「本庄宿」の最寄り駅ですが、2007年6月以来になります。
本庄宿再訪が目的ではないので、まっすぐ下仁田街道分岐である、「千代田3丁目交差点」に向かいました。・・とは言っても、角にある●金鑚神社には寄りました。創立は欽明天皇の2年(541)。武蔵七党のひとつである児玉党の氏神にして、本庄城主歴代の崇信も厚かったと言われます。ついでに隣の●仏母寺にも寄りました。金鑚神社の別当寺であった、白蓮寺が神仏分離で廃寺になったのを、明治18年に再興した寺で、境内は広い。ちなみに、金鑚神社境内に "白蓮寺の大門" が遺構として残っています。 9:15

 ■下仁田街道分岐~七本木
 ●千代田3丁目交差点。ここは、中山道と下仁田道の追分にあたる。まっすぐが下仁田街道。左右に中山道。ここに"新しい道標"があって、「左 新町宿 」「前面 中山道本庄宿」「右 深谷宿」と刻まれているので、下仁田側から見た方向と思います。また左手に●石灯籠と案内石標が建っている。本庄宿を記念したもので、神流川に建てられた常夜燈を模している。 下仁田道に入って、すぐJR高崎線を跨線橋で越えるが、越えないで、まっすぐ進むと、線路脇に"如意輪観音像 "が一基立っていました。 線路を越えて右斜めに「セレモニーホール」前を通り、●七本木付近を通過。 9:30

 ■七本木~本郷
 「古新田」に入り、左手「杉山寝具店」の前、駐車場に"氏神様"が祀られて、駐車にじゃまだと思うけど、面白い。 すぐ向側が●広い空き地になっているが、以前は二階建ての古民家が建っていて、寝具店の本家筋に当たる家だという。医院を営んでいたらしいが、静岡の方に移転して、空き家だったが、取り壊されたようです。ストリートビューの昔の様子は "こんな感じ"。 関越自動車道の高架下をくぐる。右手の「カリモク家具」の店前に●道祖神などが整備されて祀られています。 上越新幹線の高架下をくぐる。「本郷バス停」先、左手の●斉藤養鶏場の母屋は養蚕の姿を残し、蔵も見事です。 10:02

 ■本郷~七本木神社
 やがて右手に広い畑地の奥に、●高窓の家が見えてくるが、金井家の屋敷で、養蚕をやっていたころの名残をとどめている。昭和2年に建て替えたそうだ。金井家の祖先は、新田一族の金井筑前守政綱。戦国時代に金窪城主斉藤摂津守定盛の娘と結婚して七本木に移り住み、この辺りを開発したという。これから行く、●●七本木神社も元は金井家の屋敷内で、このあたりの「七本木小学校」や、法泉寺隣の公園をはじめ、北は新幹線の高架がある辺りまで、金井家の所有地が広がっていたという。七本木神社のほか、近くにある法泉寺、休安寺、西福寺も、敷地内で天正~寛永年間(1573~1644)に金井筑前守が建てた寺と伝えられている。「七本木神社」、元は八幡神社で、明治42年に境内社を合祀して「七本木神社」になった。 "由緒書" 。また、鳥居を入ってすぐ右手には、本郷の愛宕塚から移転した"庚申塚群"がある。98基の庚申塔が建てられており、最も古い庚申塔は、享保十六年(1731)の青面金剛像である・・というのだが、よくわからなかった。  10:10

 ■七本木神社~三町
 道に戻って、金井家の向かい側には、●大林医院の蔵が乗っている門がある。見たことのない形です。大林家は13代続く医者の家系で、江戸時代には松平家の御典医を務め、主家の国替えに絡んでこの地に住みついたという。三つ葉葵の紋と「三河国 松平」と書かれた木札が残っているそうだ。門は薬医門で、普段は左隅の小さな扉から出入りしているそうです。
 しばらく行くと、右手に上里三町郵便局があるので、右折して進むと、三町公民館があり、その奥に●「ぱさり村」という看板が立って、レストランになっている。ラベンダー畑もあり、自然派食材を使うという。 道に戻って先に進み、右手に●屋根の付いた井戸のある家がある。この形の井戸は数件見たので、武蔵野台地に井戸は重要だし、使えれば災害に役立つでしょう。 10:31

 ■三町~三町西
 三町交差点を過ぎて、すぐ脇道を右へ入っていくと、突き当たりに●諏訪神社があります。境内の塚の上に●御嶽山三柱大神石碑群が祀られている。珍しいそうなので、寄って見たのだけど、特に案内板らしきものもなく、よくわかりません。御嶽山三柱というのは、国常立尊、大己貴命、 少彦名命、の3柱を指すらしい。 このあたりの三町とは、江戸時代、下仁田道沿いにつくられた安保町、長浜町、横町の三つの町場が、明治9年に合併して三町村由来する。本庄から次の藤岡宿まで距離が長いので、真ん中あたりで「立場」が必要と思っていたが、三町がその「立場」として作られた。七本木も江戸時代初期に安保町、長浜町と連担して宿場を形成していたといいます。引き続き、●県道23号(下仁田街道)を西進しています。  11:05

 ■三町西~長浜
 三町西信号からしばらく進んで、右手に入っていくと、左手に●諏訪神社がある。草むらの先に石橋が架かっており、参道のようだ。 このあたりの田を潤す用水路として重要な役割を果たしてきたのが、神流川支流の「楠川」で、あちこちに流れ、それを用水として利用している。その楠川に石橋が架かっている形になっている。"由緒書"  神社の辺りは、字関邸(せきやしき)といい、もとは楠川の堰を守る屋敷があったといわれているそうだ。 道路の向い側に、"「御陣場川起点」の石碑"がある。神社から右側(下流)から楠川は、●御陣場川と名前を変え、一級河川となって、利根川まで流れている。 神社の左側には●真福寺がある。諏訪神社の別当だった所。上里町指定文化財(五輪塔)の標柱が立っているが、どこだかわからず、墓の中探し回るのも失礼かと思い、そのまま旧道へ戻りました。 尚、諏訪神社の北方にある「福昌寺」は、木曽義仲の父、源義賢が頼朝の兄「源義平」に討ち取られたとされている所といわれ、墓もあるという。 嵐山町、大蔵館跡地の方は「供養塔」らしいです。遠いので行かなかった。 11:15

 ■長浜~藤武橋
 群馬県境の神流川に近づいてきて、「長浜北」信号を渡ると、右手に●宝形造りのお堂がある。名前はよくわからない。境内に石碑や二十二夜塔などの石塔が並んでいる。 すぐ先で、神流川の堤防に突き当たります。堤防上の道を右に折れると、河川敷に●水天宮の石碑が見える。その先を横切っていたのが昔の下仁田道(藤岡道)で、渡船場があった。ここの渡船は、川の両側に大きな杭を立て、綱をはり、それを手繰って船を渡す「綱繰り船」といわれるものだった。歩行渡船と馬渡船がそれぞれ1艘ずつあり、運賃は一人につき5文、馬は一頭につき10文だったという。川の向側は灌木で全く見えません。現在では土手を迂回して、●藤武橋を渡るしかありません。 橋に至るまでの県道は歩道が付いておらず、危険を感じ、土手の少し内側を歩きました。11:55 

 ■藤武橋~小林
 ●藤武橋から神流川。低木や灌木で覆われ、水が流れている所はごくわずかしかありません。神流川は埼玉県から群馬県への県境でもあります。「藤岡市」に入り、ローソンの角を右折して進むと、●「東京コンクリート」の入口が見え、ここが渡船で神流川を渡って来た旧道がここへつながっている。会社で旧道が分断されてしまった訳だ。広い道路の西側の●つながった先で、旧道が復活します。12:08

 ■小林~八高線踏切
 西へ進み、すぐ先、反対方向の二股になっており、その真ん中に"道標"があった。正面はよくわからないが、右側は「左 藤岡町ヘ拾五丁」、左側面には「小林青年會」などと刻まれている。水路を越え●小林の住宅街を進みます。北方には「笹川」が東西に流れ、その北方の畑地の中には「伊勢山古墳群」が点在して、興味を引いたが、少々時間を取るのでやめときました。 県道23号に突き当たって、右折。「笹川」に架かる沢田橋を渡ります。その先で●JR八高線の「藤岡街道踏切」を渡る。名前に下仁田街道の別名、「藤岡街道」とありました。 踏切を渡って、すぐ左手に、●大きな道祖神、寛政9年(1797)が建ち、その横に道標がある。正面に「 右埼玉縣ニ至 左新町鬼石通」、左側面に「←群馬藤岡駅ニ至」、右側面に「第二十二区独立記念 昭和二十年四月天川町」と刻まれている。 12:26

 ■八高線踏切~藤岡諏訪神
 後方に●「藤岡市指定史跡霊符殿古墳」というのが ある。JR八高線の敷設で一部切断されている。石段を上がって行くと、墳頂部に霊符殿という神社が祀られている。街道を進む前に、南方にある「諏訪神社」に寄ろうと思い、少々の寄り道。
 すぐ西側に●天龍寺があり、脇の細い参道を入って行く。鎌倉街道上道を歩いた時、来たことがある。境内を抜けて、南下していくと●諏訪神社があります。 前方後円墳の諏訪古墳上に社殿が建っていて、諏訪大社の上社・下社を勧請して、古くから「お諏訪様」と呼ばれ、氏子九ヶ町の氏神として信仰されているという。境内に"「高山長五郎功徳碑」"と、"町田菊次郎頌徳碑" が建っている。「長五郎碑」は養蚕改良高山社を創始した高山長五郎の生前の功徳を伝えるために明治24年に建てられたものであり、「町田碑」は長五郎亡き後、養蚕改良高山社の二代目社長として高山社の名声を高めた町田菊次郎の功労をたたえたもの。"説明板 " 尚神社の「常夜燈」は天保2年、三井越後屋から奉納されたもので、三井の紋が入っているそうだ。 12:37

 ★増信寺
 街道に戻る途中の「1丁目」信号、手前を左に曲がると●増信寺があります。ここには「1丁目」丁字路の東南角にあった●道標が寺の入口左手にに移設されている。全長2m、天保3年(1832)の建立。 正面に「左江戸 本庄 八幡山」、右側面に「右秩父 渡瀬 鬼石」、左側面に「左妙義 榛名 高崎 吉井」と刻まれている。裏面に建立の由来も記してある。"説明板"
 また本堂、左手に●「応永の塔」(市指定文化財)と呼ばれる応永11年(1404)建立の宝篋印塔があり、塔身に仏像が彫刻された貴重なものであるという。 12:47

 ■一丁目
 ●「一丁目」手前に戻りました。この丁字路から右に折れ、まっすぐに北に向かい、下仁田街道「藤岡宿」に入ります。●藤岡宿の町並み。藤岡宿は下仁田街道と中山道の新町宿と信州佐久地方を結ぶ十石街道が交差する交通の要衝で、宿には本陣と脇本陣が2軒、3軒の旅籠があったという。本陣は星野家が勤めた。 2丁目を左に曲がった、「市民ホール」の入り口に●関孝和算聖碑というのが建っている。"説明板" 関孝和は日本ではそう有名ではないが、ニュートン、ライプニッツと並んで、世界3大数学者とも言われている。寛永14年(1637)藤岡の生まれといわれている。 また「地域づくりセンター」敷地内に、"「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所の碑」"というのがある。1985年御巣鷹山に日航機が墜落し、ここの体育館などが遺体の安置場所などで使われたそうだ。 12:56

     ~藤岡宿界隈
 宿内では、旧家風の家もいくらか見られるが、造り酒屋の「高井商店」は移転して、白壁の蔵を見ることができない。 左手の由緒ありそうな建物は●「柏屋旅館」。絹の取引きを行なう絹宿から始まり、創業300年。明治12年と25年の白壁の蔵を再生したという。「うなぎ屋」としても営業している。 ●「四丁目」交差点を左折しますが、その前に右折していくと、●成道寺があって、向側の墓地内に"菊川英山の墓"がある。 英山は天明6年(1786)生まれ、江戸一流の浮世絵師で、北斎の門に入り、歌川豊国との合作の錦絵も作ったりで、北斎と歌川との流れを取り入れた独特の画流を形成したという。慶応3年(1867)藤岡で没した。
13:05

 ■四丁目~七丁目
 四丁目交差点の左角は●「ポケットパーク」になっており、大きな「里程標」が立つ。(東向)に「里程標」、(西向)に「大正四年十一月十日御大典記念 群馬縣多野郡建設」、(南向)に「自藤岡町 至前橋市五里二十四町 外~」、(北向き)に「自藤岡町 至各町村 神流村十八町 新町一里四町 外~」等々と刻まれている。 左へ曲がって真っ直ぐ進む道は「動堂町通り」というようだが、右手に●蔵造りの建物があります。これなどが旧道らしいところ。 「七丁目」交差点すぐ先を右へ入って行くと、●龍源寺があります。曹洞宗のお寺。 13:21

 ■7丁目~緑町交差点
 左手の●木造の商屋風な建物は「米穀商 たけごし」。創業明治38年。その後ろは「松屋酒造」。創業は1951年らしいので、そんなに古くはない。 その先右手に●一行寺。 境内にある"観音堂"には、「動堂観世音」が安置されている。前を通る「動堂通り」の名前の由縁となっている。  道は左へカーブしていき、●緑町信号で二つに分かれます。旧道は右へ進み、分岐点に、電柱に隠れて"道標"が立っている。文化元年(1804)の建立で、「右 一ノ宮五里半 妙義八里 吉井二里半 富岡五里 下仁田八里」「左 平井 金井 日野道」と刻まれている。 13:40

 ■緑町交差点~上大塚
 県道13号と交差する「上大塚北」交差点を過ぎたすぐ先、群馬県「歴史の道調査報告書」添付の地図では、「中大塚バス停」あたりで、旧道が北へ弓状に点線で書かれ、説明文ではへの字上に北側畑中を通っているという。多分●バス停先あたりで旧道は民家の中に消えているのだろうと思います。 左手に「藤岡ボウル」があり、その先の左手に、何やら大きな記念碑が立った、左脇に●上部がとんがった「道祖神」と掘られた石碑があります。「寛政十年」(1798)の建立。 その先左手に、「川邊院大日菴相川家墓所」という所があって、入口左側に、●百堂巡禮供養塔、享保6年(1721)があります。立派な傘を乗せ、西国坂東秩父百観音の巡礼供養という。右隣は緑泥片岩で造られた、供養塔なのか「訓読般若塔」と彫られている。意味不明。そのほか珍しい供養塔などがいくつかあった。「大日菴に関する碑文並に古文書について」という案内板もあるのだが、摩滅して読みにくかったりで、よくわからなかった。14:05

 ■上大塚~鮎川
 旧道は「西中学校入口」信号を左折して、少し先を右に曲がる。●その入口"道標"らしいものがあったが、摩滅して読めない。ここは200m位で国道に合流します。 右手に●「飯玉神社」の鳥居があり、社殿は、はるか奥の方。 その先「上信越自動車道」をくぐることになるのだが、旧道は北へ迂回している。「うどん店」の先から"砂利道"へ入り、●工場の間を抜けると、自動車道土手にぶつかるので、左折して、元の国道へ戻ります。「多野橋」で「鮎川」を渡るが、昔はやや下流を渡っていたという。14:20

 ■鮎川~吉良上野介陣屋跡
 「白石」交差点で県道173号を渡ります。その先「ペット店」の手前を左に曲がって行くのが旧道で、途中右手に●「正一位飯玉大明神」と書かれた扁額の架かる鳥居が立っています。社殿は国道を越えた北側奥。ここも国道に合流し、合流したら、「吉良上野介陣屋跡→」という案内板があったので右に曲がってみます。 すぐ先に●「吉良上野介陣屋跡井戸」の表柱と"案内板"があります。
 北側の広い農地が●「吉良氏陣屋址」にあたり、標識が立っていました。"案内板"  思いがけなく珍しい史跡にぶつかって良かったです。 14:48

 ■陣屋跡~小串
 街道に戻ってすぐ、コンビニの先から左斜めに少しだけ旧道があるので、曲がっていき、国道に合流する左手に●境塚古墳があります。半分墓石で埋まっています。 「高崎市黒熊」に入りました。 右手に「義民 堀越三右衛門 三木市右衛門之霊場」と書かれた大きな看板があり、奥に「光心寺」があります。本堂前に●「上毛の義民 堀越三右衛門 三木市右衛門遺徳顕彰碑」がある。寛文年間凶作が続いたにもかかわらず、地頭倉橋内匠の苛酷な重税を取り立てに対し、幕府に直訴して処刑された2人に対する顕彰碑です。"案内板" 。「吉井町小串」に入り、緩やかな下り坂を下りていく。"「いちごちゃん家入口はこちら」" の表示のある所右手に旧道があるので入って行く。道幅は2mほどで、昔のまま。昭和9年には県道だったというので、驚きます。 県道174号にぶつかり、左折しますが、左角に●凱旋馬頭尊というのがあり、明治40年、入野村有志によって日露戦争帰還を記念して造られた。15:18

 ■小串~西谷橋
「小串」信号から吉井駅前まで、調査書の地図ではかなりジグザグに曲がっているようだが、ほとんで消滅しているようで、国道254を真っ直ぐ行かねばならないでしょう。「土合橋」の北側60mに古橋が架かり、旧道が通っているというが、橋がなく通れない。「石神」の左手の旧道は通行不能という。唯一残っていそうな旧道は「矢田」信号を右折して、すぐ左折する道であり、左に曲がって真っ直ぐ行くと、途中で●矢田川にぶつかり、ガス管が通り、通行禁止になっている。国道へ戻って、通行禁止の対岸へ来て、国道の方へは200mほどで合流するが、左手に●元禄2年の庚申塔や道祖神などがあります。尚ここから北へ1.5km位の所に上州3碑の一つ「多湖碑」があるが、見に行けなかった。 国道に合流する角に●赤茶けた道祖神があり、安永5年(1776)のもの。
15:50

 ■西谷橋~
 国道に合流してすぐ、左手高台の民家の駐車場、金網の中に、"巳待塔と庚申塔"があります。 県道41号を越えた先、左手に●常夜燈が立っていて、「これより吉井宿」の表示があります。ここから吉井宿に入るようです。
 吉井宿は国道沿いに立地し、大沢川までの700mほど。延宝2年(1674)松平信平が封されて吉井氏が始まり、宝暦2年(1752)、3代藩主松平信有が吉井藩の藩庁となる吉井陣屋をここに移した。街道沿いには蔵や町屋建築もいくらか残り、陣屋の遺構である表門や、武家長屋の遺構なども残ります。 右手、群馬銀行が●吉井宿問屋秋山家跡に当たる。銀行の建物の西側面に"案内板"がありました。駅に向かうため、信号を右に曲がると、左手に●吉井藩陣屋の表門がありました。このあたりは次回再訪します。
16:16

     ~吉井駅
 さらに左手、吉井陣屋内にあった、●武士の居宅長屋が1棟残っています。当然茅葺き屋根のところ、トタンがかぶせてあった。
突き当たり●吉井駅へ到着。本日はここで終わり、1時間に1本の電車で帰宅しました。 16:15

    2 吉井-南蛇井駅