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2024年3月17日 画面をクリックすると拡大します ■吉井駅~大沢川 下仁田街道2日目は●吉井駅から。8時04分到着。吉井の町には17世紀後半、吉井藩1万石が置かれ、延宝2年松平信平がここに封され、藩の陣屋が置かれた。吉井宿は現在の国道沿いで、大沢川までの700mほど。駅から国道へ向かっていくと、右手に●茅葺屋根にカラートタンが掛けてある家があるが、陣屋内にあった武士の居宅跡だそうだ。 更に行くと●吉井藩陣屋の表門がある。"説明板" 。この表門は、吉井藩陣屋が宝暦2年(1752)に矢田から吉井に移った後に建てられ、建造年月日は不明だがほぼ200年を経ている。陣屋の解体後、昭和48年この地に移築復元された。奥に「吉井郷土資料館」があるが、時間前で入れず、玄関脇に"庚申塔と馬頭観世音"が置かれ、道標を兼ねている。庚申塔は、吉井町の川上医院前にあったもので、表に「庚申塔」、左右に「左ちちぶ道」、「右ミやうき・一の宮道」と彫られている。 馬頭観世音は、吉見の南東、多比良の向平の三叉路にあったもので、正面、「馬頭観世音」、「右ちちぶ道」、「左ひらい道」、「西吉井道明和九年三月」、「東秩父道」と彫られている。 8:20 |
「吉井小学校」南東にある石垣は●吉井陣屋跡にあたります。明治の廃藩地検後、陣屋など多くが取り壊され、石垣の上に春日社もありました。 国道の右手、●群馬銀行が吉井宿問屋秋山家跡です。 国道に出て西へ進むとすぐ右手に●玄太寺があり、境内には、"阿弥陀三尊坐像"がある。 鎌倉時代作の石造で、阿弥陀如来像は高さ83㎝、(後背欠損)、両側に脇侍と推察される観音・勢至菩薩坐像(上部欠損)がある。また、境内に"庚申塔、巳待塔、二十二夜塔等の石塔"が並んでいます。 8:30 |
■長根~天引川 信号から左へ曲がって、坂を上がっていくと、●長根城本丸跡の看板が立って、その奥の"畑地"が跡地らしい。 "説明板"。 「長根」から「権現堂」に入り、右手に「●権現堂」への旧道があるので、右斜めに入って行きます。幅4mほどで、旧道の面影をよく残します。「報告書」によれば、権現堂は江戸時代に旅籠のあった集落で、北の村はずれに道祖神があるそうだが、見当たりません。 国道254号に合流して、●天引川を金井橋で渡ります。 土手沿いに桜が植わってますね。渡ると金井地区になります。9:18 |
■天引川~福島東 金井信号の先、三途川の手前に●「姥子(うばこ)堂」がある。"案内板" お堂には奪衣婆が祀られている。奪衣婆といえば恐ろしい顔をしている場合が多いが、ここのは "かわいい顔"をしている。 川を渡った先、左手に●「甘楽菓子工房こまつや」という店がありました。創業明治36年というが、店構えはケーキ屋さんらしく、かわいらしい。特に買わずに取り過ぎた。 白倉川を「尾野瀨橋」で渡ります。 左手に●鳥居があり、「白倉神社」の扁額が架かる。天狗のモニュメントがあって、珍しい。本宮と里宮があって、本宮は天狗山に鎮座、地域の天狗信仰と習合してして、奈良時代の創建。祭礼などは麓の里宮で行われているとのこと。9:42 |
■福島東~上州福島駅 ●城下町小幡入口交差点。下仁田街道、福島宿に入ります。福島宿は鏑川舟運で発達し、宿も小規模ながら、よくその機能を果たした。問屋も2軒あった。 街道の南側2.5kmの所には小幡城があって、織田信長の次男、信雄子の4男信良が小幡藩初代藩主として入封。以来8代、信浮(のぶちか)が出羽国高畠へ移封されるまで152年の支配が続いていた。 城下町がそのまま残っているそうだが、遠くて行かれません。 交差点を右に曲がると、突き当たりが●上州福島駅。 駅南の「金田商店」南側の細い道に●庚申等外石塔群があって、その中に"六十六部供養塔"がある。 西側の「東学院」にも千部供養塔があるようだが、法事で人がワサワサしていたので寄らなかった。 10:05 |
■福島駅~福島上町 ●●福島宿の町並み。左手にうだつの乗った家は風格がある。その先、左手に大きな●朱塗りの鳥居があり、「笹森稲荷神社」の扁額が架かる。神社は南方400mで遠いです。 10:15 |
■福島上町~富岡大橋 すぐ先、右手の派手な色の「スナック」の裏手に●秋葉常夜燈と馬頭観音、6基の庚申塔。いずれも巨大なもの。福島宿はこのあたりまでという。 甘楽町から「富岡市田篠」に入ります。右手に●大きな庚申塚が見えます。"庚申塔3基と馬頭尊2基、及び常夜燈" やがて●富岡大橋へ来ました。 10:30 |
■鏑川渡船跡 旧道が歩道橋の脇を下っており、●鏑川にぶつかり、対岸へは渡船で、冬の水量の少ない時は仮橋を架けて、上信電鉄鉄橋の方へ渡っていたそうだ。○印は明治6年昭憲皇太后、富岡製糸場行啓の時、休息所となった「石井家」。 鏑川を渡ってすぐ右折して、土手を下って行くと、旧道にぶつかる。●旧道は三叉路を左に曲がる。石井家はこの正面の高台にある。 三叉路をまっすぐ行くと、ガード脇に●「おのれの滝」という小さな滝があって、水が落ちていた。 脇の"石碑"は昭憲皇太后が滝を詠んだ歌碑で・・・作りなす滝にはあらで面白くおのれと落つる音の涼しさ」・・・と刻まれている。但し摩滅して読みにくい。10:35 |
■鏑川~曽木交差点 三叉路からの旧道は、上り坂で、「かねの坂」と呼ばれている。上がった先で、国道254号に合流する。 国道に合流した先、の右手の三叉路の角の松の木の下に、●馬頭観音があります。この三叉路を右手に入って行った所に、小さな"お堂"があり、「文字庚申塔など」もあります。 国道を先に進むと、右手に●「元文五年」(1740)の大きな「庚申供養塔」があり、その左横に2m余もある「釈迦嶽五鬼助 大峯歳参供養塔」と刻む緑泥片岩の石塔が立っている。文字の意味はちょっとわからない。文化2年(1805)の建立らしい。その外に如意輪観音などもあります。 その先、●「曽木」の分岐は左へ行くのだが、手前に小さな分岐があり、右手に"文字道祖神"がある。こちらの方が旧道かもしれません。 10:45 |
■小舟神社~仲町 まっすぐな道が続き、木造の古そうな家があったりしますが、右手に●土蔵造りの成田山不動堂があります。"前面"や、側面の彫刻が見事です。"説明板 "。 右手に富岡警察署を見て、●突き当りを左折、すぐ右折します。枡形の様な形です。右に曲がって先に進むと、右手に●赤煉瓦の本うだつを備える商屋が現れた。明治中期建築の豪商の家らしい。但し、改修されている。11:21 |
■上州富岡駅~龍光寺 街道に戻り、●上町駐車場信号。左へ曲がると「富岡製糸場」へ行ける。細い道だが、色々な店が建ち並び、参道の様な感じがします。一応「製糸工場」を1000円払って見学したのだけど、時間のこともあり、さっと見ただけ。改修工事もやっていました。元々工場なので、稼働していないと、実感が湧かないというか、あまりおもしろくはなかったです。 街道に戻って、右手に●龍光寺があります。長禄年間(1457~1460)奥平氏により宮崎村に創建され、江戸時代初期に移転してきた。 墓地内に●製糸場工女の墓があります。「ああ野麦峠」という小説の影響で、工女達の過酷な労働が強調されるのだが、ここはそんなことはなく、病院もあり、待遇は良かったようだ。"説明板" 12:26 |
■龍光寺~富高前 龍光寺のすぐ先、●食い違い四つ角は七日市藩の木戸があった所。左手に昔からおさくさんというおばあさんが「おさく茶屋」をやっていて、「おさく茶屋」が通り名となっているそうだ。 ここから富岡市七日町に入ります。 2車線の真っ直ぐな道が続く。 ●富岡高校角交差点に来た。「食違い木戸」と呼ばれた木戸があった所という。街道は左へ曲がる。右に曲がると、右手に●稲部市五郎種昌の碑というのが立つ。文政11年(1828)、シーボルト事件に連座して、永牢の処分を受け、七日市藩に預けられ、天保十一年(1840)に病死。この人物の業績を後世に伝えようと、牢跡に建てられたもの。"説明板" 。 隣に建つ見事な"長屋門" は七日市藩家老保坂家の門で、現在は子孫の方の住まいの様。 12:46 |
■富高前~蛇宮神社 富岡高校の門前に「七日市藩邸跡」の看板が立ち、校内奥に●旧七日市陣屋藩邸が建っている。校内に入っていいか、微妙なので校門から撮影した。七日市藩は加賀前田藩の分家で、一万石の小藩だった。城などはなく、陣屋程度の建物があっただけ。富岡高校はその陣屋跡に建っている。 食い違い四つ角を左に曲がって、●旧陣屋跡らしい白壁の残る旧道へ入ります。右手に"「陣屋の黒門」"が残っています。 突き当ると●蛇宮(じゃきゅう)神社がある。境内を突っ切って右手へ出ます。 又境内には「龍の爪かき石」とか「球石(孕み石)」とか変なものがある。 12:58 |
■蛇宮神社~一宮 右手に「七日市藩家老南保坂の保坂正義の歌碑」があって、脇の●分岐を左に入るのが旧道です。その前に、右手の道を少しさき、高台の上に●前田家御寶塔というのが立っている。"説明板" 七日市藩の十代藩主前田利和は、初代藩主利孝の二百年忌にあたり、天保10年(1839)この地に元祖廟を建立した。この丘は古墳時代後期の円墳でもあります。右の道は新しい道で、左側の旧道は●鏑川の断崖の上の人が通れるだけの細い道で、富岡高校第二グランドが眼下に見えました。 道は段々狭くなり、草地になってきて、通り抜けられるか、不安になってくるが、"上信電鉄の" 踏切が現れ、渡って国道に合流しました。13:08 |
■一宮~ 「一ノ宮東」信号の先を、左手に入って行くと●太子堂塚古墳があり、墳上に"芭蕉句碑と雲裡房句碑"があります。"説明板"。 そのまま国道に出て、信号手前に旧道が続いているので、車の隙間を狙って、突っ切りました。坂を下って行くと、突き当たり正面に●大きな常夜燈が建っています。天保3年(1832)の建立。 この先、街道は二つに分かれます。「調査書の地図」によると、常夜燈の先を右折して、北側にある「一之宮貫前神社」の門前を通って、そのまま宮崎神社方向へ向かうコース。 もう一方は、そのまま西へ向かい、「一宮宿」の町並みを通過し、南に折れてから、もう一度西へ向かい、「宮崎宿」へ入るコース。 ここでは両方のいいとこ取りをしようと、「貫前神社」を参拝してから、石段を降り、「一宮宿」を通ってから、宮崎宿へ向かうコースをとりました。 こちらの方が庚申塔などが少し残っているようです。 常夜燈の所から少し先を右に曲がって細い坂道を上がります。●東参道というが、通称女郎坂、だるま坂と呼ばれていたそうです。 13:26 |
■貫前神社~宮崎 参道を下って、県道を右折。すぐ先の信号を左へ曲がり、●「一ノ宮ハッピーセンター縁北入口→」の看板の角を右折します。緩やかな上り坂を行くと、左手に"道祖神"がある。ここを過ぎると道は切り通しで、円弧状にグルっと回り、その上かなりの急坂になっている。上り切って進むと、十字路左角に"庚申塔"がある。元文五年(1740)という。この十字路右手奥にも"真っ赤に塗られた道祖神 "がある。赤く塗るのは魔除けの意味だろうか。 道なりに行くと、右手奥に●龍光寺があり、参道入り口に"石柱と「秩父西國坂東 百番供養塔」"というのが立っている。ちなみにこの龍光寺は先に立ち寄った「製糸工女の墓」のある、市内の龍光寺の本寺だそうだ。こちらの方が小さくて、末寺のような感じがします。 突き当たって、右から来る人達と合流して、左折、すぐ右折すると、真っ直ぐな道が続き、●宮崎宿に入って行きます。 14:00 |
■宮崎~宮崎公園 「調査書」では宮崎宿は今も宿の家並みを昔のままにとどめているというが、あまりそのようには感じられない。軒うだつを備えた家が1軒ありました。昔はすべての業種の商家が軒を連ねて、この宿内で買えない日用品はなかったという。 今はお店もほとんどなく、その面影はありません。 三叉路に突き当たり、右手に「宮崎西公会堂」と火の見櫓がある。 ●「宮崎西公会堂」がある所で宿は終わり、左へ曲がって行く。正面、こんもりとした所に廃屋があり、上州三分限者の一人鈴木家の居宅であると思われます。今は荒れるにまかされている。 ここを左折し、右折すると●「西中学校」への案内柱のある十字路に来て、ここを再び左折します。 案内柱の脇に"道標" がある。摩滅しているが、大正11宮崎青年共鳴会が建立したもので、「左 一の宮、富岡、向左 神農原、神成、南蛇井、下仁田道」と刻まれ、当時は三差路だったという。 左折すると、下り坂となり、左右に曲がりながら下って行くと、●宮崎公園入口になります。その入口に"赤く塗られた道祖神"がありました。 14:10 |
■宮崎公園~宇芸神社 坂を下った●三叉路の右手、民家の庭先に"道祖神" が置いてある。 この先●平坦で右手に山が迫る道を道なりに進みます。南に「上信電鉄」が通り、国道も通っているので、南下する道が何本もあります。 しばらく進んだ右手、岩山の中腹"「青面尊」"が祀られる。右側に球形の石が火袋に乗り、左側に仏像が置いてある。 「西中学校→」の案内柱の立つ所に"道祖神2基を添えた弁財天の石碑"が建っている。弁財天は少し南の方に以前あった池に祀られていたものという。 右手、墓地の下に"大きな庚申塔"がある。 その先、右手奥、石段を上がった先、●宇芸(うげ)神社があります。疲れてきておっくうだけど行ってみました。石段を上がった先、又石段が続き、やれやれである。"案内板" 。式内社で上野国十二社の一つで、なかなか風格ある社殿です。"彫刻"も素晴らしい。 14:30 |
■宇芸神社~中沢 参道を通り過ぎての先、右側の家は一段高い所にあり、左側の家は道路より低い所にある。これは山を削って平らにして作った道だからだろうと思います。 正面に●吉田池という四角の用水池があり、周囲に"十基ほどの庚申塔"が立っているが、すべて破損している。 池を過ぎると道は狭くなり、両側に家が立ち並んできた。 三差路の正面に山小屋風な平屋建ての家がある所を左折して、用水の様な蚊沼川を島田橋で渡り、すぐ右折します。 ●蚊沼川に沿って、川沿いの道を進むと、●三差路に突き当たり、右手にかかる橋は同じ名前の「島田橋」というようです。右手、橋の脇に"道標"がある。「一の宮 富岡道」、「南蛇井 下仁田道」、「丹生 妙義道」などとある。 14:51 |
■中沢~南蛇井駅 三叉路を左折して突き当りを右折。道なりに行き、上信越自動車道の高架をくぐります。 くぐって「中沢川」に架かる「中里橋」を渡り、民家の中を抜けると●県道48号に突き当たります。その右角に"道標"が立っています。「右一ノ宮 三十丁 松井田三里」「嘉永七寅年十二月吉辰」(1854)と刻まれている。左側は摩滅して見えず、右側に「右一ノ宮 三十丁 松井田三里」「嘉永七寅年十二月吉辰」(1854)と刻まれている。 ここを左折すると、すぐ右側に神社があって、●鳥総(とりふさ)神社といいます。あまり聞かない神社だが、「俵藤太秀郷」が射った鏑矢を神宝として納め、神号を鏑神社飛房大明神と称し祀られているそうです。社殿は立派なものでした。 県道を南下し、上信電鉄の踏切の手前、吉田公民館の角を右折して進み、左手踏切の見える所で、本日の歩きを終了しました。 15:18終了。 踏切を進み●南蛇井駅から、高崎経由で帰宅しました。 タッチの差で15:19発に乗れず、16:08まで駅でのんびりしました。 |
1 本庄-吉井 | 3 南蛇井-初鳥屋 |