11 白河宿から奥州街道追分   歩行地図
 天神町-中町-本町-田町-女石     3.1km
11 白河宿
 五街道の一つとしての奥州街道(道中)はここ白河が最終の宿駅であり、ここまでが道中奉行の管轄下にあった。白河の歴史は古く、5世紀には古代の白河の関が置かれ、蝦夷に対する押えとされた。寛永4年(1627)には丹羽氏が初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立し、その後藩主は煩雑に入れ替ったが、特に有名な藩主だったのが松平定信である。
 本陣1 脇本陣2 旅籠35 

2010年10月1日   白坂宿からの続き
 ■天神町~鷹匠町
  ●天神町交差点を直角に右に曲がると、すぐ角に●「月よみの庭」という庭園がある。
 白河石が敷き詰められており、石英安山岩質の凝灰岩であるため、色が白く神社仏閣などでは珍重されているとされる。あんまり管理ができていないように感じた。   15:27

 右折すると●天神町の町並に入る。この先「勘定町」や「鷹匠町」、「大手町」、「金屋町」、「宰領町」、「年貢町」とか珍しい町名が続いている。道も何カ所か曲って進み、城下町らしい感じが残っている。
 右手に●今井醤油店。白河は麹醸造業が盛んだったといわれる。

  

■鷹匠町~中町
 鷹匠町と中町の間の交差点は●枡形となっている。交差点を左折し、すぐ右折する。
 枡形の所を右に入ると、●関川寺(かんせんじ)がある。中世、白川城主で一帯を支配した、結城宗廣が中興開山し、天正9年(1581年)に現在地に移ってきている。
 
このあたり、慶応4年5月1日の戦いで、最大の激戦地となり、東軍の戦死者は682人にのぼった。境内には戊辰戦争での東軍の戦死者供養塔がある。
また、赤穂四十七士の一人、●中村勧助の妻の墓もある。勘助の父が白河藩士であり、討入り前に家族を白河の親戚に預けた。長男の忠三郎は連座して遠島になったものの、後に赦免され、その後白河で僧になったといわれる。  15:40

 中町の中程の左側にJR東北本線の●白河駅が見える。昔は特急も停車した由緒ある駅だけど、残念ながら隣の新白河駅に主役を奪われて、無人駅になってしまった。駅から小峰城が見たりする。
 また街道の右手へ入った所に●白河ハリストス正教会聖堂が建っている。大正4年に建てられたビザンチン様式の漂う建築です。(この写真は翌日の2日に撮ったもの) 

 枡形の右奥に「皇徳寺」という寺がある。大同年中(806~10)の創建と伝わる古い寺で、
●戊辰戦争の際の東軍兵士11名の「戦死人供養塔」や戦死した新撰組隊士「菊池央墓」
 谷文晁高弟●「羅漢山人」の墓。傍らに会津磐梯山」で有名な●「小原庄助墓」などがある。説明板によると、山人に絵を習いにきた、会津漆器の塗り師、久五郎という物で、酒飲みで、安政5年に没す。墓石の形は猪口と徳利。
 時世の句が  「朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし」    というからすごい。

■中町~本町
 旧道に戻って、さらに進み、城下町特有の七曲りの様に右折、左折して●本町に入る。白河の宿場の中心であった所。
 街道右側に●本陣芳賀家跡がある。現在は「堀川印刷所」となっている。
 芳賀左衛門家が代々本陣を勤め、明治9年、明治天皇の東北巡幸の際に、ここで休憩されている。   15:45

 本陣跡の向い側の格子戸を開けて入った奥に●脇本陣栁屋旅館跡と明治天皇行在所跡という看板が立っている。天皇が泊った蔵座敷や御膳水跡が残り、また戊辰の役の際の新選組の宿営地でもあった。
 左側の古い建物が●「勧工場建物跡」というのだそうで、明治10年、東京上野で第1回内国博覧会が開催され、陳列所で売れ残った出品物を販売した。この陳列館が「勘工場(かんこうば)」と呼ばれ、ここは明治末に建てられた「小槌屋商会」跡で、白河における初めての百貨店の建物であった。一部改修されているが当時の原型を良く留めている。

■本町~田町
 この後300mほどで左折し、●横町に入る。JR東北本線のガードを潜り、田町に入る。田町大橋で●阿武隈川を渡る。
 田町大橋の手前に大木戸があって、白河宿はここで終っていたといわれる。
 旧道は尚この先、会津街道との追分に向っている。   16:08

■田町~女石
 田町大橋から850m程で「女石」に達する。ここも戊辰戦争で官軍と東軍とで激戦が展開された。その時に戦死した●仙台藩士150余名の供養碑が建っている。
 ここが奥州街道と会津街道との分岐点であるが、奥州街道の方へ少し行った、右手に●遊女志げ女の碑というのがある。
  越後三条生まれの志げ女は、幼少の頃白河の坂田屋で育てられ、性質が良く人に愛されていた。その後客を取る様になり、戊辰戦争の時、ある誤解から 会津藩士により殺害された。それを知った遊女屋の下男がここで会津藩士を殺害し、仇を討った。戦争の悲劇の一駒であった。     16:20

 ★女石の追分。幕府管轄の奥州街道の終点
 分岐の所へ戻って来たが、ここで会津街道は左へ入り、奥州街道は右へ向い、仙台・松前へと続いている。道中奉行管轄の奥州街道はこの分れ道が正式の終点となっていた。
 さて東海道日本橋から始った五街道の歩き旅はここで終了となった。4年と6ヶ月かかりました。 ・・・・・が、歩いて行ったからには、歩いて帰ってこねばならず、往復しないと意味はないという説もあって、それもそうだしと思い、 さてどうしたものやら、考え中というところである。ま、 一応、ここでひと区切りつけたいと思っています。
 
  16:30

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