赤山街道を歩く1 大宮道  
  (赤山陣屋跡~永田陣屋跡)
  歩行地図はこちら  地図
 赤山陣屋跡-石神-木曽呂-通船堀-芝原-与野駅-与野本町-円阿弥-三橋-水判土-馬宮      19.6km

 赤山街道
 江戸時代、関東郡代として関東地方の開発にあたった伊奈氏が、土木工事を推進する中で、拠点とした赤山陣屋(現川口市赤山)と現地との連絡や物資の輸送を目的として設けた道をいう
 大宮道、越谷道、千住道の3つの道筋がある。

1大宮道は赤山陣屋からさいたま市方向に向かい、西区の永田陣屋まで
2、越谷道は越谷市を通り、松伏町杉浦陣屋まで。
3 千住道は足立区へ向かい、綾瀬小菅御殿までである。
 
 ここでは与野駅を通過して指扇駅手前までの大宮道を歩く。
 参考資料
「赤山街道調査報告書1~3」 川口市教育委員会
 2016年10月23日   ※ 写真をクリックすると拡大します
■赤山城址~外環下
 今回は赤山街道の大宮道を歩く。埼玉高速鉄道新井宿駅を降りて、県道をしばらく北上、「曲輪バス停」の先を左へ折れて行くと、日枝神社があって、その先に銅板製の赤山陣屋についての説明板が並び、東空堀が再現されていたりする。その先に●赤山城址の記念碑が立っている。 陣屋から3本の連絡道が出ており、今日はその内の大宮道を歩く。ゴールは指扇手前の馬宮コミュニティセンターとなる。 約20km。
さて、大宮道は陣屋の新町口門から出て行くことになっているが、現在その門がどこにあったかわからないので、記念碑から出発することにした。8:50
 記念碑から真っ直ぐ南下してすぐ右に折れ、またすぐ左に折れると、●西へ向かう少し広い道がある。このあたりが新町口門のあった所と考えて、ここを道なりに進む。進むと外環状道路下の●石神南交差点に出た。     9:03 

■外環下~石神
 外環状道路の下を通っているのが国道298で、渡った先に続くのは●旧御成街道の県道105号である。 すぐ先右手に●真乗院がある。入口左手に小さな ●道標を兼ねた地蔵菩薩像がある。元文2年(1737)のもので、文字はほとんど読めないが、案内板では、台座正面に「南 江戸本郷道」、右側面に、「東 江戸あさ草道」、左側面に「北 いわつき道」 とある。
 その先右手にこんもりと●御嶽塚というのがある。頂上に三体の石像が並ぶが、真ん中は珍しいことに●石造の神像と思われ、こういうのは初めて見る感じで石神という地名と縁があるのだろうか。  9:16

■石神~木曽呂
 その先、●特に目印の無い所で左に折れる。最初通り過ぎてしまった。 まあその先の新町の所で左へ曲がってもいいのだけど、そこはこだわりで。 ●歩道橋で東北自動車道を越えると ●県道103号の「吉場安行東京線」に合流する。
 合流して10分位歩くと右手に●木曽呂阿弥陀堂がある。木曽呂第二町会会館という看板が出ている。右手に●猿田彦大神道標がある。 正面に「北 大門江二十八丁 岩つき江三里 秋葉江六里」など、「西 かねさきふしへ壱丁 浦和江ニり 大宮江三リ」 、「東 新町江八丁 草加江ニ里 こしかや江ニ里 千住江四里 」、さらに左右側面にもごちゃごちゃと彫られている。こんな沢山の地名が彫られているのはあまり見たことがないものだった。   9:45

 ■木曽呂~附島橋
 その先で通称オリンピック道路と交差し、そのまま進み弓状に通過する。右手の高台に●木曽呂富士塚というのがある。樹木が茂って形がよくわからないのだが、こんもりとした良くある富士塚で、・・・寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者蓮見知重の発願によって、見沼代用水と通船堀の連結点の縁に築造されたもの。 高さ5.44m、直径20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には火口を見立てた穴がありお鉢巡りができ、中腹にはお鉢巡りができるよう火口が掘ってあり、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている・・・と案内にある。
 富士塚の脇を流れるのが見沼代用水東縁で、隣に●稲荷神社がある。境内に不動明王塔道標があるというがよくわからなかった。
 芝川を八丁橋で越えるが、ここの道は●江戸時代の八丁堤の上を通っている。伊奈忠治は寛永6年(1629)に附島と木曽呂間の八町間に堤を造り、灌漑用水である見沼溜井作った。しかしその後不都合により享保12年(1727)見沼干拓が行われ、見沼代用水が掘られ、通船堀による船運が行われるようになった。 八丁橋手前に●水神社がある。通船堀開通後の享保17年(1732)の創建になる。  10:10

 ★通船堀界隈
 水神社の北側に一条の水路が東西に通っている。これを●見沼通船堀という。見沼代用水●東縁(ひがしべり)と真ん中の●芝川を夾んで、代用水●西縁(にしべり)とを結ぶ閘門式(パナマ運河と同じ方式で水門により水面を上下し船を通す)運河である。 享保16年(1731)に勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永によって作られた。 明治まで芝川を利用した水運で重要な役割を果たしたが、現在は使用されておらず、国の史跡に指定されている。 通船堀には自転車で何回か来ており、写真は今日撮ったものでないのが何枚か混じっている。
  通船のしくみ
 代用水と芝川の水位は3m程の高低差があり、その間4ヶ所の●●閘門により水位を調節して船を通すしくみだった。これにより代用水の舟運により運ばれた年貢米などの荷物が真ん中の芝川に運ばれ江戸へと廻送されていった訳である。
 街道に戻り先に進む。右手に●鈴木家住宅がある。鈴木家は髙田家と共に見沼干拓事業に参加し、完成と同時に通船業務を司った家であった。その先は●附島氷川女体神社。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領20石分の替地が、寛永6年(1629)以降附島村内に与えられたことから、その頃の創建とみられる。   10:32

■附島橋~清泰寺
 女体神社の先は「東浦和駅」になる。旧道は武蔵野線の上を通過してすぐ右斜めに進んでいるようであるが、ビルなどが建ち、斜めの道は消えている。そこでひとつ先の交差点を右折して、●見沼台通りへ入って行く。
 右手参道の先は●大間木氷川神社。参道入口左に赤山街道説明板が立っている。 ●社殿は修理して新しいが、寛文7年(1667)武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したものといい、さいたま市指定文化財となっている。
 その先に清泰寺がある。墓地の北側縁に● 武田信玄の娘、見性院の墓がある。 見性院は穴山梅雪(武田武将)の妻で、梅雪の死後、家康の知遇を得、武州安達郡大牧村千石を采地として与えら清泰寺に葬られた。尚、見性院は保科正之の養育者でもあった。 
 11:05

■清泰寺~国道463・芝原
 清泰寺の先は東和病院の所で左に曲がり、保育園の前を右に曲がって行くと、国道463号を越える。●このあたりの道は尾根筋を進んでいるような感じで、左手は一段下がっている。 会梅自治会館前あたりに●庚申塔が2基あり、文政5年の銘がある。
 その先右手奥に立派な屋敷門が立っていて●大熊家表門という。旧中山道浦和宿本陣星野家の表門であったという。旧浦和本陣は明治天皇の行幸にも使われたが、こちらの家に移築された。
 その先右手に●高野家離座敷という茅葺きの小規模な建物が残っている。茶室建築の手法を取り入れた「数奇屋造り」と考えられ、幕末、 高野長英をかくまったという所でもある。    11:50

 ■国道463・芝原~大東北公園
 道は左へ折れていき、国道463のバイパスを越える。越えて行くと右手に● 三室南宿庚申塔が立っている。案内板が摩滅して読みにくいのが惜しいのだが、さるまん塚と呼ばれる塚の上に高さ2.5mもある庚申塔が立っていて、青面金剛像、四夜叉、台座に三猿とすべてそろい、おまけに道標も兼ね、右面に「東 赤山道」、左面に「西 大宮道」などと彫られている。西から来る人の為の道標で東方向が赤山道となっている。
  その先はしばらく何もなく、20分程歩くだけ。 第二産業道路を過ぎた先、左手に「大東北公園」があるが、その前が●二叉になっており、分岐点に●小さな馬頭観音道標がある。ここも西から来る人達の為の道標で、右面に「右 江戸 はとがや 左 大宮与野」などとあるが、はなはだ読みにくい。 公園の中に●富士塚があった。   12:30

 ■大東北公園~与野駅東口
 公園の先は又特に何ともなく20分ばかり進むと、県道35号へ出て、●吉野屋の所を左に入る。●赤山通商店街へ入るわけだが、商店街という風情は感じられず、商店もまばらにあって、ぱっとしない。 ●街路灯は商店街らしいの立っているが、本当は赤山通商店会の旗や浦和レッズの旗がはためいていなければならないと思うが、何も架けられていない。10分程で●与野駅東口に出た。   13:02

 ■与野駅東口~与野東中北
 駅前はどうせ駅で分断されているだろうから、どう行っても同じと思い、駅前の●大原地下道で駅を越えた。資料では駅に沿って北上し高架橋を越える道を紹介している。駅を越え線路に沿って坂を上がり、●新都心南交差点を越えて行く。左隣は「スーパービバホーム」のビルがある。 進んで赤山通り」に入る訳だが、ちょっと迷う所で、一つ先の信号の●手前の住宅の間を左へ入って行かないと行けない。 この先の●下落合小と与野東中の間に入れば正解である。   13:25

 ■与野東中北~与野本町
 ここの通りを「赤山通り」というようだ。左手の与野東中学校の正門脇に●高谷橋の石橋供養塔がひっそりとある。 宝暦6年(1756)の高沼導水路に架けた石橋が完成したことを記念して建てられたもの。
 東北新幹線、埼京線の高架の下は急激な坂になっている。●台の坂という。下った先、鴻沼川に架かる●赤山橋の袂には割と大きな石橋供養塔が立つ。享保11年(1726)の建立。
 橋の先右手に●大小二体の石造地蔵菩薩立像がある。左の大きい方は子育地蔵という。●右脇の甲子供養塔は道標を兼ね、正面に「引又二里」、「川越四里」、右側面に「南 浦和一里」、左側面に「 大宮十五丁、 原市三里、 一ノ宮鳥居前十丁、 岩槻三里」など細かい。 13:45

■与野本町~円阿弥~本町西
 この先の●与野上町交差点で右に曲がる。 曲がらず真っ直ぐ進むと御屋敷山があって、伊奈氏による「円阿弥陣屋跡」だというので寄ってみた。
真っ直ぐ進んで「新大宮バイパス」をくぐると、その先は「円阿弥」という地名になる。●淑徳与野高校の南側あたりに土塁と空堀が残っていたらしいのだが、住宅がびっしりと建ち並び、案内板、遺跡、旧跡の跡らしきものは何もなかった・・・・ということで全くの無駄足。 先ほどの上町交差点まで戻るが、途中、ドンキホーテの手前を左に曲がり「円阿弥通り」を北上、茶堂まで進む道も赤山街道と調査報告書に書いてある。こちらの方が近道らしいが一応、上町交差点まで戻り、今度は左折して北上して行く。
  右手の●上町氷川神社。創建は不肖ながら、社地が鳥居から本殿に向かって扇子を開いたような形をしていることから、古来「扇の宮」と呼ばれている。 その先左手に●正徳6年(1716)の青面金剛庚申供養塔が塀にめり込んで立っている。 
   14:45

 ■本町西~茶堂
 ●県道165を進み、バイパスをくぐり真っ直ぐ進むと突き当たりになる。右角に●正徳2年(1712)の庚申塔があり。道標を兼ねる。右側面「是より東 大ミヤ道」、左側面「是より南 与乃道」
 左に曲がり、老人憩いの家前に「川越道と散歩コース」という案内板が立っているが、これが摩滅して読みづらいことはなはだしい。後ろに小さい●道標があって、 右側面「西 川ごへ、南引又 大山道」、左側面「南 よの 江戸 東 大ミや いわつき道」 とある。 県道56号に入るとすぐ右手に● 茶堂があるが、お堂が壊れかけている。写真は広角でも上手く撮れなかった。堂内に千手観音像を祀るので正式には観音堂というが、家康がここで小休止した時に里人が茶をふるまったことから茶堂と名づけたという。 
  15:15

 ■茶堂~金山神社
 茶堂の先を右手に入り並木橋を渡る。左へグッと曲がると水判土(みずはた と読む)という所。 このあたりでちょっと時間が押してきているので急ぎ足になる。水判土交差点の所に●慈眼寺がある。 慈覚大師円仁が東淳和天皇の勅を受け、東国に布教した際に創建されたという。時間が無くちょっとかすっただけだけど結構な古刹なのはたしか。
 ●県道57号を行く。薄暗くなってきたので先を急ぐ。15分程先右手に●金山神社がある。一般的に金山神社は鍛冶職人や金物を扱う職人達により信仰される神社であり、県道沿いで検出された住居跡から鉄製品が出土しているのでこれらに関係する職人集団によって創建されたのではないかと云われる。   15:50

 ■金山神社~馬宮コミュニティセンター
 約600m程で「馬宮コミュニティセンター」に着く。この対面が●巨大な長屋門を持つ永田陣屋跡である。ここが本日のゴールになる。伊奈半左衛門忠次が荒川の河川改修の際に構築したものを、重臣の永田家が拝領した。土屋陣屋、伊奈陣屋とも呼び、 今でも●水堀が残っていて珍しい。子孫の永田氏は現在でも健在で、明治時代には大隈重信の改進党に属して地域の発展に尽くしたり、現在は医院を経営されている。 16:00
 ということで赤山街道大宮道はこれでおしまい。センター前からバスで大宮駅に向かった。 結構距離があり、寄り道込みで25km程度。

     2 越谷道   3 千住道