赤山街道を歩く 3 
       (赤山陣屋跡~千住道)
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 赤山城記念碑-慈林-福寿院-本郷-蓮沼-舎人二ツ橋-古千谷橋-竹の塚-増田橋-梅島-千住-小菅 (西側道筋)   13.5km

  千住道

 陣屋から小菅陣屋へ向かう道を千住道と云うが、道筋は二つ。

 陣屋を出て西へ向かって慈林村へ伸びる道を赤山街道(西側道筋)と伝えられて、絵図面で描かれている四ツ門の一つの「鳩ヶ谷口」に対応する道と考えられる。また陣屋を出て領家村へ伸びる道筋を(江戸道又は東側道筋)と伝えられて、「安行口」に対応する道と考えられる。
 この二つの道は足立区の「二ツ橋」付近で合流し、一本の道となって葛飾区小菅の「小菅御殿」まで続く道となる。
   ここでは赤山陣屋跡から。小菅御殿までを歩く。  

   参考資料 「赤山街道調査報告書1~3」 川口市教育委員会
2016年12月4日  (西側道筋) ※ 写真をクリックすると拡大します
■赤山城記念碑~門下町
 赤山街道3回目は千住道を行く。千住道は2本あって、まずは西側道筋から始めたい。 起点は前回と同様に●赤山城記念碑から。東へ向かい県道に出たら右折して行く。「鳩ヶ谷口」は高速の手前50m位の所にあったと云われる。
 「赤山信号」で●首都高速川口線と交差する。 正面に見える一帯は昔、伊奈一族の菩提寺である源長寺の境内地であった。「門下町バス停」を過ぎた、●西友とゲオ店の間の道を行くのが旧道らしい。   10:05

■門下町~安行慈林・宝厳院
 地形の凹凸がある所であるが道なりに行き、突き当たって右に折れると●分岐に出た。旧道は左を行くが、右へ行くと宝蔵院という大きな寺があるので、寄って行く。 慈林薬師手前左手に●貞享2年の銘のある庚申塔が立っている。
 その先に慈林寺 がある。真言宗智山派の寺で三勅山慈林寺宝厳院と号し、地元では慈林薬師の名で親しまれている。武蔵国新四国八十八所霊場の最終札所である。
 道を挟んで右側に● 慈林寺薬師堂。銅製の薬師如来像立像が本尊。左側が本堂でコンクリー製の建物。左手奥に●仁王門がある。 文政9年(1826)再建の八脚門で、正面には仁王像が立っているが、背面には●風神、雷神像があるのが珍しかった。このあたりの地名が「慈林」、「赤井」でいずれも寺にちなむので昔は相当大きな寺であったろうと思う。   10:20

■宝厳院~赤井・福寿院
 元の二叉に戻って左手の道を行く。すると右手の高台に●慈林神社がある。由来書などなにもないのでわからないが、慈林寺の守神にあたるのであろう。県道を過ぎると宝厳院墓地があり、その墓地内に小さく●供養塔道標がある。享和3年(1803)で 右側面に「北 岩槻道 東 草加道」、左側面に「南 千住道 西 鳩ヶ谷道」 とあるらしいが、読みにくく「調査書」による。元は墓地手前の十字路にあったと思われるとのこと。
 坂を上って行くと●川口養護学校の所に出た。旧道は左折するのだが、真っ直ぐ坂を下って●福寿院へ行く。境内がコンクリート舗装で面白くないが、本堂脇に●庚申塔道標が立っている。手前は文政3年(1820)で、右側面に「是よりいわつき美ち四里」、左側面に「是よりはとがや美ち三丁」。左は天保13年(1842)で、右側面に「右 せんじ三里」、左側面に「左 草加宿一里半」とある。元は川口養護学校前の路傍にあったもの。 11:05

■赤井・福寿院~本郷2丁目
 ●草加道分岐で赤山街道は右へ曲がる。分岐手前にあったという不動尊塔道標は現在(東本郷2-5-10)へ移動しているという。(後で該当の住所の所を通ったので探してみた。石の置き場になっていて、該当の道標らしきものがあったがこれだろうか。正面 成田山 十七里 { }三里 とあるはず 半分欠けてわからない)
 赤井台を過ぎると●●赤井氷川神社がある。創建は鎌倉時代領主赤井氏が氏神の春日神社、飛鳥権現社、白山社の三社を祀ったのが始まりと伝わる。 神社前の広い道を越すと右手に先ほどの道標の埋まっている置き場がある。その先●東本郷2丁目の半円状の坂を下って行く。左手に首都高速川口線が見えてきた。ただ下りきる手前を左折して高速道を高架橋で越し、傑伝寺へ寄っておく。 
 11:35

 ■本郷2丁目~蓮沼
 高架橋を越えた所に●傑伝寺がある。 江戸の初め、幕府の重鎮であった酒井忠勝を弔うため建立された。曹洞宗のお寺で当時は広大な敷地を有した上、永平寺直末であり、酒井家の香華寺であることから繁栄したという。又高台に位置し、かつては太田道灌の谷古田城跡(本郷城)の地だったと云われる。境内に●「武州川口七福神」の一つ恵比寿を祀るお堂がある。
 ● 傑伝寺から坂を下る。かなりの高台であり、城を配置するには好都合であることがわかる。やがて●見沼代用水東縁の脇に出て、少し用水に沿って進む。    11:50

 ■蓮沼~砂小橋
 蓮沼橋を右折し、用水から離れ南下して行く。右手に●普門寺がある。伊奈家の家臣で、江戸川開削に尽力した小嶋庄右衛門正重の墓がある。県道を越えたら再び用水の方へ寄って行き、●本郷橋の三叉路へ来る。ここに道標があったが、近くの「新郷高畑公園」に移されていた。公園脇に●庚申塔道標がある。文政11年(1828)のもので、右手に「 南部道 本郷村高畑講中」 左手に「右 せん志ゅ 左 はとがや」と彫られる。
 その先に●砂小橋がある。ここは代用水と毛長川が合流する地点であり、その昔は見沼代用水が下の毛長川を懸樋で越えていた。現在では様相が大部違い、懸樋は無くなり、用水の方はすべて毛長川の方に落とされている感じがする。しかし用水はまだこの先に流れているのでサイホン式に毛長川の下をくぐっているのではないかと思うのだがどうだろう?・・・・(後日調べたところ・・・用水の一部は中央の金網で取水し、地下施設で浄化され、神領堀へ流され、その先見沼親水公園へ繫がっているらしいことがわかった)   12:30

 ■砂小橋~舎人二ツ橋
 砂小橋から●毛長川を見る。この辺は雑草というか灌木というかが茂ってきたない感じ。埼玉と東京の境を流れる。かってはきたない川で有名だったが、下水道の普及とかでかなり水質は改善したということだ。
 代用水の方は砂小橋から先、神領堀という名前になり、道はその●堀に沿って続いている。そして舎人ライナー●見沼代親水公園駅付近で東から来る江戸道と合流して1本になり小菅へ向かうことになる。 これで西側道筋は終了。先に進む前に東側道筋へ戻って始めたい。 12:40

2016年11月26日 東側道筋
■曲輪バス停~安行吉岡
 西側道筋を歩く前に東側道筋だけ歩いておいた。調査書では・・東側道筋は「曲輪バス停」あたりから南へ80m、東へ100m、南へ右折後50m、東へ左折後250mで赤山道へ合流と書いてある。そのような経路を地図で見ると、それらしい変形L字型の様な道が存在しているので、これだろうと見当を付けた。●曲輪バス停の所の住宅の脇を入って行き、左折、右折しながら住宅や緑の濃い中を進むと●東本郷赤山通へ出る。その間500m程。 右折して又500m程進み再度右折して行くと、右手に金剛寺の長い参道に出会った。突き当たりの●茅葺きの山門が美しい。金剛寺は曹洞宗の寺で、明応五年(1496)に中田安斎入道安行が開基したと伝えられ、安行の地名もこの人物に由来しているという。
 寺を出て先に進むと●二分岐の所に来るのでここは左の坂道を下りる。

■安行吉岡~原坂上
 下りると回りは新しい住宅街で、●三叉路の角●道標を兼ねた青面金剛庚申塔が立っている。正面右に「右 草加 越ヶ谷道」、左測面 「左 薬師 鳩ヶ谷道」と刻む。道は三叉路の右手を進む。
 県道を渡るとすぐ左手に県道に沿うような細い道があるのでそこを進むと、東本郷赤山通と合流する角に●成田山不動明王道標がある。文久3年(1863)のもので、台座の摩滅がひどく読めたものではないが、正面 「成田山十七里 草加江一里 大さかみ江 二り 奈加れ山江 四り」、右面 「此方 新町江 一り いわつき江 四り」、左面 「此方 江戸道 西新井江 二り」、 裏面 「じりん薬師江 五丁 吉岡金剛寺江三丁 鳩ヶ谷江 十三丁」と刻まれているらしい。しかし金剛寺三丁(327m)とは近すぎるので、元の位置はここではないように思う。
 東本郷赤山通を南下して行く。すぐ左手に●石仏群がある。その先右手に「安行原の蛇造り」という看板が立っていた。毎年5月行われる祭りで、五穀豊穣・天下太平・無病息災などを祈願するため、●藁を持ち寄り長さ10メートルの蛇を作るのだという。

 ■原坂上~東本郷五叉路
 蛇造りの先左手を入った所が新郷若宮公園で、●新郷貝塚がある。縄文時代後期の貝塚で、埼玉県指定史跡。写真だとわかりづらいが、東西約120m、南北約150mの規模があり、厚さは1m以上の堆積をしている。このあたりが台地上で回りは海だったことがわかる史跡である。発掘はされているだろうと思うが、結構白い貝殻が目に付いた。土の下は貝殻の堆積になっているのだろうか。
 その先「大竹バス停」手前で左手に入るのだが、道路工事中で入れず、かなり先で左に入った。その為慶応2年の不動尊道標がわからなかった。
細い住宅街を抜けると●東本郷氷川神社がある。元々東本郷の南方にある本郷谷下に鎮座していたが、大風が吹き、北の本郷の水田に飛ばされて現在地に鎮まったとされる。かなり大きな立派な風格を持った神社である。
 県道34号を過ぎた先、●五叉路になっており、右手に●庚申塔群と右脇に●道標がある。嘉永6年(1853)のもので、正面右 「西 川口へ 一里半 東 そうかへ 一里」、左 「北 南 江戸道 北 赤山へ一里」と彫られる。

 ■東本郷五叉路~舎人二ツ橋
 五叉路の先は真っ直ぐ進み、新郷スポーツセンター通を越える。突き当たって右に曲がると●県道58号の広い通りへ合流する。正面は「ホームズ」というショッピングセンター。
 合流して南下すると直ぐに舎人二つ橋に達した。●舎人二つ橋から毛長川を見る。このあたりは雑草も生えておらず、護岸が整備されている。 以前は見沼代用水に架かる橋と毛長川に架かる橋が二つ続いていたので二つ橋と呼ばれていた。現在は毛長川の改修と代用水の親水公園化で橋は一つになり、舎人二つ橋の名前を残したという。 直ぐ先に●舎人ライナーの見沼代親水公園駅がある。このあたりで●西側道筋と合流している。
 これで東側道筋が終わる。距離は約5km程。 1時間半位 

12月4日の続き 合流後
■舎人二ツ橋~舎人1丁目
  合流後、舎人ライナー線高架の下(尾久橋通)を南下して行く。右手から奥へ参道が続いて●舎人氷川神社がある。かなり由緒のある神社で、正治2年(1200)に大宮氷川神社を勧請して創建したと伝えられる。なんと言ってもここの最大の特徴は社殿一面に施された彫刻にある。昇龍や八岐の大蛇退治、天の岩戸開きなが浮彫にされていることなど複雑な浮き彫りが社殿4面に施されている。その昔自転車で来たときは普通に見られたと記憶しているのだが、現在は保護の為4面金網が張られ良く見えないのが残念。又 舎人は江戸時代には赤山街道の宿場として栄えた所・・・と案内板にある。  その先●150m程の所を右へ入って行く。 ●天神社がある。舎人宿の外れに位置しており、舎人のみならず近隣の信仰を集めていたといわれる。又昭和の初め頃までは神楽が奉納され、神殿の前には観音堂があり境内を囲むように掘割がめぐっていたと伝えられている。
 ●舎人1丁目信号で尾久街道を越え、竹の塚方向へ向かう。この通りには赤山街道の名前が付き、「是より舎人宿」という標柱も立っている。 赤山街道の唯一の宿場だったといわれる。     13:05

 ■舎人1丁目~増田橋
 左手奥に●西門寺がある。 南北朝の永和3年(1377)の創建で、荒綾八十八ヶ所霊場23番札所という。荒綾とは初耳。
 その先古千谷橋右手に●古千谷氷川神社がある。古千谷橋交差点は五叉路、その先はんの木橋も変形五叉路と複雑になっているが、古千谷橋付近まで代用水が流れてきて、ここから本木堀、西新井堀、千住堀、竹の塚堀、保木間堀などに別れ、用水の終点といわれていたからという。 ●東武スカイツリーライン竹の塚駅交差点を渡る。ここは死者を出す事故があったので、高架工事の最中だった。そして●増田橋交差点へ来た。14:05

 ■増田橋~梅島駅
 ●増田橋交差点は旧日光街道と合流する地点で、千住と草加宿の中間地点にあたり立場として賑わったと云われた所でもある。赤山道はここを右折してしばらく千住宿まで日光街道と同じ道を進む。ここには用水から別れた千住堀と竹の塚堀が流れ、石橋が架かっていたという。写真右手の植え込みに●「北へ旧日光街道 西へ旧赤山街道」の石柱が立つ
 千住方向へしばらく行くと●「為 嶋根旧跡 千住堀顕彰建之」という標柱が立っている。千住掘と竹の塚堀は増田橋で曲がり、●日光街道の西側(写真の右側)を千住堀が流れ。竹の塚堀は日光街道を横断し一部はそのまま東に、残りは街道の東側(左側)を南に下る。もちろん現在はそんな面影はこれっぽちもない訳だが。  環七道路を越し、●東武線梅島駅のガードをくぐる。 
 14:30


 ■梅島駅~千住5丁目・水戸街道分岐
 梅島駅の先で●分岐に出会う。旧日光街道は右へ(直進に近く)進み、左へ進むのは東武鉄道が昔通っていた線路跡である。その●石碑が正面に立っている。 ●荒川土手に突き当たった。現在の荒川は以前「荒川放水路」といって、明治44 年から昭和5年にかけて開削された人工河川であるので、当然ながら江戸時代にはないわけだ。旧日光街道はここから正面の千住新橋袂まで斜めに進んでいたようだ。 千住新橋を渡って橋を潜り、旧道に合流して行くと●千住宿手前で左に折れる。折れた先は旧水戸街道で、●標柱が立っている。これは新しい標柱で昔の本物は郷土博物館に収められている。  15:07

 ■水戸街道分岐~荒川土手
 ●旧水戸街道に入る。ここは水戸街道編で一度通っている所。左手に●清亮寺がある。元和5年(1619)の創建。明治初期本医学発展のために解剖された囚人の解剖人塚がある。また「槍掛松」でも有名な寺でもある。  
 寺をでるとすぐ、●荒川土手にぶつかり、水戸街道はこの荒川で遮られてしまう。この荒川も「荒川放水路」なので、日光街道と同じく昔は存在していない。そんなわけで千住新橋か、堀切橋へ迂回しないといけない。今回は千住新橋から回って行った。2km弱ある。     15:40

 ■荒川土手~東京拘置所
  千住道のゴールは小菅御殿であり、現在の●東京拘置所跡になる。敷地の周りには御殿に関する案内板やらが色々置いてあり、それによると・・・江戸の初期寛永年間に関東郡代伊奈忠冶の1万8千余坪にのぼる広大な下屋敷が与えられた。その後元文元年(1736)8代将軍吉宗の命によりその屋敷内に御殿が造営され葛西方面の鷹狩の際の休憩所とされた。御殿の廃止後は江戸町会所籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となり、更に現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれていく・・・・
 史跡というような物はあまり残っていないが、正面入り口の左脇に●石灯籠と庭石と手水鉢が残る。又面会所口の所に●小菅稲荷神社があり、小菅御殿の鎮守として御殿の敷地内に祀られていたと伝わる。     以上で赤山街道千住道が終了。東武線小菅駅から帰宅した。   16:00

      1 大宮道  2 越谷道