赤山街道を歩く 2 
   (赤山陣屋跡~越谷道)
 歩行地図はこちら  地図
 赤山城記念碑-西福寺-二ツ橋-辰ノ口-旧日光道-久伊豆神社-花田-古利根川-松伏-旧杉浦陣屋跡        16.30km

  越谷道
 
越谷道の起点は絵図に描かれている「越谷口」の所。ここから松伏町大川戸の「杉浦陣屋」及び吉川の町場までの道筋が越谷道と考えられる道である。

1 大宮道は赤山陣屋からさいたま市方向に向かい、西区の永田陣屋まで
2 越谷道は越谷市を通り、松伏町杉浦陣屋まで。
3 千住道は足立区へ向かい、綾瀬小菅御殿までである。
 
 ここでは赤山陣屋跡から。松伏町杉浦陣屋までを歩く。
 参考資料
「赤山街道調査報告書1~3」 川口市教育委員会
2016年11月6日  ※ 写真をクリックすると拡大します
■赤山城記念碑~外環道
 今回は大宮道に続いて越谷道を歩く。越谷道は松伏町の杉浦陣屋跡へ向う道筋である。途中越谷市役所先で元荒川に沿って埼玉県吉川市へと向う道筋と分岐します。ここは次回歩くことにします。
  越谷道の起点は調査報告書によると・・・・越谷道の起点は陣屋絵図に描かれている「越谷口」である。現在の赤山駐在所から西の方向80mのT字路付近と考えられるとある・・・とあるが、赤山駐在所そのものがなくなっているし、「越谷口」もわからなくなっているので、今回もまた●赤山城記念碑から始めざるをえない。  9:35
 記念碑から真っ直ぐ東へ向かうと、●南堀跡や●東堀跡が再現されている。実際はもっと深いのだろうと思う。その先に●日枝神社がある。陣屋絵図では山王社と記載され、空堀掘削時の廃土を盛って築いたと伝えられている築山に乗っかっている。  9:40

■外環道~西福寺
 県道に出て左折し、赤山幼稚園、保育園のおとぎの国のような建物を眺めつつ、外環自動車道をくぐる。すぐ左に折れ西福寺の方向へ向かう。  途中の●分岐の所の正面に●西立野道標がある。 正面に「百堂母 道 是より二丁」、右側面に「こしケ谷道(越谷)道」、左側面に「いしがみ道」と彫られるが読みにくい。
 道標通り200m程先に● 西福寺百観音堂が建つ。 弘仁年間に空海創建したと伝えられる。観音堂には西国、板東、秩父札所の100体の観音像が安置され、この一堂に参詣すれば100ケ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳があるとされる。境内の●三重塔は家光の長女千代姫が奉建したもので、高さ23mあり県下では一番高い木造の建造物である。   10:05

■西福寺~二ツ橋
 先ほどの道標の所を左折して行くと県道に出る。「花山下東」交差点の先で●細い旧道の方へ入って行く。ここは300m程で突き当たり左へ折れ、県道へ出るがその先に●天満宮がある。 ここでは安行藤八の獅子舞というのが行われる。
 ●県道161号を進む。歩道に花壇があったりする所もあって歩きやすい。●二つ橋バス停の手前から県道を離れ右折して大きく東方向に迂回することになる。昔新栄団地付近が大沼と呼ばれる沼地があって、迂回せざるをえないからという。  10:50

■二ツ橋~辰の口橋
 ●一ノ橋を渡り、橋上から●綾瀬川を眺めた。現在、越谷市と草加市の市境になっている。 県道に出るが、先に進む前に少し北方の武蔵野中学の隣にある●大沼大明神へ寄り道してみた。 大沼の東側のほとりに位置する場所にあり、武主大名神、兵(もののふ)神社ともいう。ここには二つの伝説があって、その一つは戦国時代に戦に敗れ落ち延びた戸塚の城主がこのあたりで没した。里人はこれを憐れんで武主大名神として祀った。 二つ目は戦国時代に築城の荷物を積んだ船が大沼を渡る際に大風で難破し沼底に沈んだ。武士が大勢死に、里人は哀れんで兵神社を勧請し供養したという
 県道に戻って進むと●辰ノ口橋交差点に来る。ここでは岩槻道が交差している。交差点付近は暗渠になっているが下を「末田用水」が流れている。辰ノ口といういわくのありそうな名前なので調べてみると、ここも二つの伝説があった。 一つ目は・・・・橋の下に用水取出の為に人工的に作られた大きな穴があり、用水が入ると瀧のようにこの穴から流れ落ち込んでいて、それが辰(竜) の口のようだったと言われるたから・・・・・二つ目は川底の下をくぐっている大きな穴は龍が川底の地中から、 激しく水を巻き上げ、空に舞い上がったときにくぐってできた穴の跡であるという・・・・       11:30

 ■辰の口橋~日光旧道
 七左町交差点手前で昼食休憩を取った後●武蔵野線ガードをくぐる。左手に●三ツ谷地蔵というのがある。 伝えによると谷中村三ツ谷集落(現在の谷中1丁目)西川家の覚心法師が諸国を遊行中、元文2年(1737)に悪人に襲われ死去した。西川家では供養塔墓石を屋敷内に建立したが、以来不幸が重なったため当地へ移したという。 地元ではこれを「三ツ谷地蔵」と呼び、娘が嫁ぐ時、赤子が生まれた時、子どもの帯解祝いには必ず参拝をしたという。
 東武伊勢崎線をくぐる。 左手の「越ケ谷小学校」の先、特徴ある黒板塀のお屋敷が見えてくる。地元では名家の●有瀧家の黒塀で、その先で●旧日光街道にぶつかる。   12:35

 ■日光旧道~吉川道との分岐点
 日光旧道を越し、県道(足立越谷線)も越すと左手に●正観音菩薩の石柱が立って、奥に●観世音堂がある 。境内の左手に●道標を兼ねた馬頭観音塔(左・文化10年(1813))と徳本供養塔(右・文政5年(1822))が立っている。観音塔の右側面に「大さがミ道」、左側面に「のだ せうない道」とある。かつては突当たりの分岐点に立っていたのだろうと思われる。
 ●お堂の先の四つ角で左は杉浦陣屋への道、右は吉川町場への道と分かれる。吉川へは次回歩くことにするので今日は左折して松伏へ向かう。 12:42

 ■吉川道との分岐点~久伊豆神社
 左折して「新橋」、「宮前橋」と渡って行くのだが、元荒川の手前一帯は「御殿町」という地名である。家康によって慶長9年(1604)に設けられた御殿があった所。建物に関する詳細はわからないが、その広さは現在の御殿町全域と推定されている。  当初この地は越谷の開発にあたった会田出羽の陣屋があった場所だったが、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれている。その後、御殿は明暦の大火によって江戸城が消失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移された。記念碑があるので見に行く途中、●慶長元年板碑というのがある。鎌倉時代の建長元年(1249)のもので市内で最古。
 その先の逆川(葛西用水)が元荒川を伏越でくぐった所に●越ヶ谷御殿跡記念碑が立っている。 少し戻って「宮前橋」を渡って、橋上から●元荒川の流れを見た。言うまでも無く現在の荒川は熊谷で流れを変えられたが、元荒川はその以前の荒川の流れる姿であり、吉川で中川に合流している。 橋を渡ると●久伊豆神社の参道入口にぶつかる。    12:58

★天嶽寺・久伊豆神社
 久伊豆神社の隣に●天嶽寺がある。専阿源照が文明10年(1478)開山し、当時は小田原北条氏の城砦に用いられ、北条氏により寺領の寄進を受けていたと伝わる。家康より寺領十五石の朱印状が交付され、秀忠、家光は狩猟のついでにこの寺にたちよっているという。 入口脇に●庚申塚と呼ばれた塚があり、多くの庚申塔などがある。中でも●猿田彦大神塔には「南こしかや 北のじまいわつき」などと刻まれ、●宝暦8年(1758)の六十六部廻国塔には「かハしも二ごう半、川かみかすかべ」などと刻まれているのが目に付く。 次に●久伊豆神社の第一鳥居をくぐって参道へ入る。街道は神社に沿った東隣の道と思うが、ここは参道を行くべきでしょう。  13:05

■久伊豆神社~花田1丁目
 ●第三鳥居の奥が拝殿・本殿になる。鳥居の左脇に●庚申塔道標がある。寛政12年(1800)のもの。左側 「はしの方江戸 みや乃方さしま 川かみ かすかべ 川しも 二がうはん」と彫られ、「ニがうはん」は「二郷半」で吉川市のこと。
 鳥居をくぐった右側に●敷石供養塔道標(寛政9年(1797)が立つ。 右側 「是より野田道」などとある。 その奥が久伊豆神社拝殿・」本殿になる。越谷有数の神社で徳川氏の崇敬も厚かったという。国学者平田篤胤奉納の絵馬や越谷吾山句碑があり、境内の藤は見事なもので5月には非常な人出で賑わう。 神社を通り抜け●県道19号(越谷野田線)へ出た。  13:35

 ■花田1丁目~野鳥の森
 県道は変わり映えしないので淡々と進み。定使野橋(じょうつかいのはし)から●新方川を眺めた。この変わった橋の名前の由来はわからなかった。新方川千間堀とも呼ばれ、中川水系の一支流。対岸には●キャンベルタウン野鳥の森がある。
 野鳥の森の対面、県道を一本右に入った●水路(掛樋堀?)と交差する脇の道を挟んで左側に●小さな常夜燈らしきもの、右側に●道標を兼ねた庚申塔と青面金剛像が並んでいる。庚申塔の二基は元は県道寄りの南側角にあったというもの。道標に「左 ふどうみち 右 のだみち」と刻まれ、県道を北に進む と野田、南に進む大相模の不動尊に通じていることを示している。越谷市郷土研究会の資料を参照しました) 13:55

 ■野鳥の森~堂面橋
  新方橋南バス停の左手に●前波水神宮があり、境内の●普門品供養塔は道標を兼ね、右側 「ひがし こやすくわんをんミち」 左側 「みなみこしがや 江戸 きた のだ さしま みち」と彫られる。
 その先寿橋の下を大落古利根川が流れ、橋の全面に●古利根堰が架かっている。この川こそが江戸時代以前は利根川本流であり、東京湾へ注いでいたわけ、現在は中川に合流している。川を越すと松伏町に入る。
 町役場の先の「田中第五公園」には何故か●恐竜像がある。なんであるのかわからぬ。水面に近いのでネッシーのつもりかも。 堂面橋の上から●大落古利根川を眺めた。利根本流らしく雄大な感じがする。「大落」とは農業排水を落とす排水路の意味がある。    14:30

 ■堂面橋~みどりの丘公園
 橋の先●かがり火公園から左の県道10号へ行く。公園には道標があったらしいが見落とした。 左手に●大広戸神明社。由来などな全くわからず。 その先右手一帯は●みどりの丘公園。里山、広場、水辺からなる原風景を創出し、樹林や野鳥、草花、昆虫などのふれあいを通じ、公園利用者が心も体も元気になることを目指して計画した公園ということで作られた。   15:05

 ■みどりの丘公園~杉浦陣屋跡(カインズホーム)
 公園の西縁を北上して行くと、ポツリと立っているのが●道標を兼ねた石塔。 正面に「むかふ かすかへ」、右側面に「むかふ こしがや」、左側面に「むかふ ほう志花」と彫られ、それぞれ 春日部、越谷、宝珠花、の方向を目指す。
 石塔から西へ行くと●八幡神社がある。大きなイチョウが数本立っているのが目に付く。 旧道は神社の右隣を真っ直ぐ進むのだと思うが、途中で水田になってしまい、左折して県道へ迂回した先に● カインズホームがある。 ここがなんと杉浦陣屋の敷地だったという。ここまで変わってしまったのは珍しいと思う。 この陣屋は慶長5年に上杉氏討伐のため小山まで出陣していた家康が、江戸に引き返す途中でこの地に寄り、この場所に築くように指示したものといわれる。これを伊奈氏家臣の杉浦定政が拝領したというものだと伝わっている。県道に面した建物の所に●説明板が立っていた。
 これで赤山街道越谷道は終わり、バスでせんげん台駅へ出た。    次は吉川道へ進みます。    15:25

赤山街道を歩く 2の2 
         (越谷道分岐~吉川町場)
歩行地図はこちら 地図
 越谷道分岐-瓦曽根-不動橋-大聖寺-大相模-東埼玉道路-吉川橋-延命院-交番前     5.44km

 2016年11月13日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■越谷道との分岐~瓦曽根
 越谷道を杉浦陣屋跡まで歩き終わって、調査書に載っている吉川道を歩いてみることにした。越谷道を市役所先で分かれて吉川へ向かうが、その理由は二郷半領(吉川市のこと)の人々と赤山陣屋の結びつきが深く、吉川への道筋も赤山街道と呼んでいた・・・と調査書では説明している。 ●分岐点から右折して●越谷市市役所脇を通って元荒川の土手沿いの方へ向かう。右手に●観音堂があるが、説明板もないので詳しい事はわからない。  10:20開始      10:27

 ■瓦曽根~谷古田用水取水口
 ●土手沿いの道を進む訳だが,しばらく元荒川の自然堤防の上を歩くことになる。左手の川は「逆川」でこのあたりではせき止められて「瓦曽根溜井」と呼ばれている。その左側に元荒川が流れる。右手に●稲荷神社がある。創建年代は不詳で、この地には武田勝頼の子千徳丸と共に落ち延びたという元沼津城主中村彦左衛門一栄が土着し、その家の屋敷神として祀られたともいう。
  神社の奥まった所に●照蓮院がある。天正19年(1591)家康より寺領5石の御朱印状を拝領したという、越谷では由緒のある大寺。 旧道に戻って先に進むと、右手に●庚申塔道標が「越谷市郷土研究会」による立派な案内板と共に立っている。 案内板によれば・・・ 右側面に「これより上、じおんじ 三里半」、左側面に「これより左、吉川へ壱里 大さがみ内 これより右、市川まで五里」・・・とある。 「じおんじ」は岩槻の慈恩寺を指し、玄奘の遺骨を納める寺で有名で、江戸川区から続く慈恩寺道の一つであろう。  10:45

 ■谷古田用水取水口
 左手を見ると●逆川の下流部で時期的に水が少ない。夏期の灌漑期には堰止められ灌漑用水の溜井として機能して「瓦曽根溜井」と呼ばれている。 江戸時代に瓦曽根堰が元荒川に設置され溜井ができた。現在では西部の一部が埋め立てられ、越谷市役所などの建設用地となって、用水としての機能を減らしているようだ。溜井から葛西用水、谷古田用水、八条用水が分水しており、谷古田用水の説明板が近くに設置されていた。
 奥に見えるアーチ橋は●しらこばと橋という。斜めに張ったケーブルで端を支える市内初の斜張橋で、越谷周辺に生息するシラコバトにちなむ。橋の上から●元荒川を見た。橋の先で●溜井である逆川と元荒川が合わさり、吉川で中川へ合流している。
  11:05

■谷古田用水取水口~大聖寺
 ●元荒川の土手脇の道を歩く。左側の一段高い土手は後になってからのもので、ここが元々の自然堤防上の道と思われる。●不動橋が見えてきた。旧道はここを右手に折れる。その手前で土手を降りて行くと、大相模大聖寺のハデな●東門へ出る。   11:23

 ★大聖寺
 大聖寺は越谷市最古の寺院である。天平勝宝2年(750)開基したといわれ、中世には不動院と称して岩槻城主太田資正や北条氏繁らの尊信を受けていたという。天正19年(1591)家康が当寺に投宿、寺領60石の御朱印状を拝領し大聖寺と改号した。●山門は江戸時代の正徳5年(1715)の茅葺きであったが、文化元年に瓦葺きとなり、その後明治に銅葺きとなっている。● 山額の「真大山」は松平定信の筆という。 山門の突き当たりが●本堂。境内はかなり俗っぽく大相模ぴんころ地蔵尊なんてのもあったりする。
 ●茶店 「虹だんご」があり、メディアにも出る人気。だんごは1本130円。やわらかくておいしい。東門へ続く右手に●庚申塔があって、元は本堂裏手の元荒川の土手上にあったという。    

 ■大聖寺~大相模
 旧道は東門から続いていて、右斜めに進んでバス通へ出るのだが、元荒川沿いに神社が並んでいるので、そっちへ回ってみた。
 まず左手奥に●西方日枝神社がある。元荒川をひかえた奥州街道に面した古社の一つである。もとは山王社と称され、東光院、利生院、神王院、安楽寺、薬王寺、観音寺の六寺院を配下におさめていた大きな社であった。
 その東隣に●大相模久伊豆神社がある。 当地は元荒川をひかえた奥州旧街道の道筋にあたり、早くから開けたところで、武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高が本拠とした地と伝えられている。
 又その東隣に●八坂神社がある。大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社である。 裏手脇にはかつて沼があり、そこに●内池辨天が祀られていた。この沼は天明6年(1786)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を”オイテケ堀”と名付けたという。   12:15

 ■大相模~東埼玉道路
 ●越谷-吉川線バス通へ出て、吉川へ向かう。「大相模小入口」交差点を右に入って、●ぐるっと左折した先の生垣の下に小さな●塞神塔道標、享和3年(1803)があり、 右側面に「野道」、左側面に「吉川道」と彫られている。
  その先で●東埼玉道路を横断した。この道路は東北自動車道や常磐自動車道などの幹線道路を補完する役割を持ち、自動車専用部と一般部が併設する構造となっている。 専用部分は未着手である。  12:40

 ■東埼玉道路~吉川交番前交差点
 吉川橋手前まで来たが、橋が架け替え工事中で、工事用地に取られたせいか空き地が多くなっている。右手にお堂があるのだが、調査書では「旧宝性院堂舎」となっているのが、現在新しくなって、●「東漸院 南百墓苑」に変わっている。その中のお堂がそれにあたるのではないかと思われる。 そうだとすると堂舎の脇にある左から2番目のが●庚申塔道標(万延3年 1863)であり、右側面に「江戸みち こしがや道」、左側面に「よしかわ成田十五里」と彫られているはずだが、摩滅しているので全く読めない。
 橋を渡った先左手に●延命寺がある。ここへは下妻街道の時にも来ているので2回目。山門前に●石仏が並んでいて、その一つの青面金剛道標に  右側面 「右松ぶし ほうし花道」、左側面 「左こしがや 江戸道」とある。
 調査書の街道はこの先の●吉川交番前交差点の所で終わっている。  13:20  この先に続くのは下妻街道。 寄り道込みで9km程度 右へ曲がって吉川駅から帰宅した。

      1 大宮道   3 千住道