高野街道不動坂口道を歩く 1 
     (河内長野~橋本まで
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 河内長野-三日市町-石仏-出会の辻-紀見峠-慶賀野-御幸辻-小原田-橋本    18.7(全体35.2)km

高野街道不動坂口道
  京、大阪から東高野、下高野、中高野、西高野街道の各コースを通って来た高野山参詣道は河内長野ですべて合流し、一本の高野街道となります。一本となった高野街道は、三日市から紀見峠の峠を越え、橋本を経て「高野女人堂」に向かいます。不動坂口道は橋本で紀ノ川を渡り、学文路、苅萱堂、神谷、極楽橋を経て女人堂までですが、奥の院を目指します。
 ルートは
「歴史の道調査報告書 高野街道」(大阪府教育委員会)
「大阪ウオーキングマップ 東高野街道」(大阪府都市整備部)
「西高野街道の里道標石をたずねて」(橋本市観光協会)によります。
 東高野街道  西高野街道  
 高野不動坂口道 1 橋本まで  高野不動坂口道 2 金剛峯寺まで  高野不動坂口道 3 奥の院まで

■河内長野~長野神社 ※ 写真をクリックすると拡大します
 
2011.09.11 南海線 河内長野駅 8時30分着
  ここから京、大阪から来た4本の東・西・中・下高野街道がまとまって1本の「高野街道」となって、紀見峠へ向うことになる。
 コンビニで食料を仕入れようと思い、当りを見回したけど、何もなし。大きい駅なのでてっきり1.2軒あると思ったけど残念。途中でありそうなので ま、安心だけど。早速駅の南側の旧道へ入った。
 旧道の入口に大きな●高野街道の道標が立つ。平成22年に河内長野商工会が設置したもで、古墳時代の銅鐸と梵鐘をイメージして造られた。 後ろに見える旧家は河内鋳物師の流れを汲む「吹屋吉年家」である。●吉年家のくすのきは市の天然記念物に指定されている。続いて●長野神社がある。本殿は重要文化財に指定され、天文12年(1543)前後の造営といわれる。境内は狭いが、古木が多い。1月10頃の長野戎(えべっさん)では大変な混雑になるそうな。      8:50

■長野神社~鳥帽子形八幡神社 
 旧道は神社を少し戻って、右へ入る細い坂を下りて行く。旧道沿いに市内唯一の酒蔵「西条蔵」(「西条合資会社)が建つ。創業享保3年(1718)。道の両側に店と酒倉が並んでいる。●「サカミセ」と呼ばれる店舗は間口11間、幕末から明治の建物で、国の登録文化財。 急坂を上がり国道371号線を横切って、●鳥帽子形山の東山麓を通ります。山頂には楠木正成が築いた城の一つといわれる「烏帽子形城」があった。中腹には●鳥帽子形神社がある。本殿は文明12年(1480)の建立で国の重要文化財となっている。    9:10

 ■鳥帽子形八幡神社~三日市町
  神社を過ぎて、道なりに進むと、国道を越える。突き当たりを右に曲ると、最も旧街道の名残を残すと言われる●三日市町の宿場町に入ります。至る所に「いにしえのみち高野街道 三日市宿 を再生しましょう」の看板が架かり、宿場の再生、保存の努力をされている。 途中左手に●だんじりが置いてあって、祭の準備みたいだった。だんじりというと「岸和田」のだんじり祭しか知らなかったけど、ここでも10月に行われるようである。
 三日市宿は高野街道の宿駅で、この地から紀見峠に入るため宿場として賑い、往時は旅籠、諸問屋、遊郭などが軒を連ねたという。所々虫籠窓を備えた建物が残っている。途中「旧三日市交番」という案内板が立っていたが、当の建物がどこだか見回してもわからず、となりに改築中のシートで覆われて中が全く見えない建物がそうかな・・など思ったりした。
。右手に●本陣・油屋跡がある。元々菜種油を絞っていた油屋だったが、いつ頃が不明だが、本陣を務めた。文久3年(1863)には天誅組の一団が奈良・五条代官所を襲撃する前に、油屋で一泊した後、観心寺へ向い、成功を祈願して五條へ向かったそうです。     9:30

■三日市町~高野橋
 古い町並みを進んで行くと、●八木家住宅があります。かっては木綿問屋、その後造り酒屋を営む。木造の平屋建で、町屋の伝統的な外観を留めている。 やがて左へカーブして行き、「三日市町駅」を越え、現代の「高野街道」の●常夜燈が立つ細い街道が続き、石見川の手前に●八里石が立っている。    10:00

 ■高野橋~石仏 
 旧道は国道371号へ出る。新町橋を渡って、しばらくしてから国道を外れて●右の坂道に入っていきます。
 歩道橋を渡るが、下を走っているのは同じ番号が2本ある国道371号線の広い方で、●歩道橋の上からの風景がとても良く、パノラマで撮ってみた。前方は紀見峠方面です。 旧道は石仏集落の中を抜けて行きます。石仏寺というお寺があるというので注意してみていたけど、見落してしまったようで、資料をよく見ると、集落の出口あたりにあったらしい。     10:25

 ■石仏~千早口
 集落の終るあたりは急坂になっていて、国道に出る。この先旧道が全く無くなっていて、旧道は国道下まで急坂を下り、再び国道へ向って上がり坂になっていたという。
 石仏南交差点からまた●国道を歩きますが、、歩道の整備されていない区間が多く、又通行量も多く、非常な危険を感じた。
大阪ウオーキングマップでは国道の下を通る道をお薦めといっているが、それだと7里石を通過してしまうので、我慢して国道を通ることにした。 国道を1500m程歩いたら、左国道下にある●天見簡易郵便局の角から左折して集落に入ります。天見川を渡って、右へカーブして、最初の辻を「御所の辻」という。角に●御堂があって高さ190cmの大きな地蔵尊が祀られている。昔この辻で火事があって、一体が焼け野原となっても、この地蔵だけが焼けなかったという。また地蔵の前の線香立てには、菊と桐の紋様と、「御堂」という文字が刻まれている。    11:10

 ■千早口~出会の辻
 御堂の先の分岐点には●大神宮燈籠と道標がある。道標は「右へ高野 左へ金剛山」を示している、ここは道標に従い、右へ道を取った。 右へ入って●千早口への集落へ入ります。 昔茅葺だったであろう家は二軒並んでいた。人気がなく静かな集落を進むと、右手に●「松明屋」というお堂がある。弘法大師が旅の途中、この地で夜を明かすことになり、松明に火をつけて突立てた。後にこの松明から根が生えて大木になったという言伝えがある。又大師が旅の途中、土地の人が粽を差上げたところ、大変喜んで念力を入れられた。その後ここのおどうの粽をいただくと万病が治る信じられたという。    11:20

  松明屋を過ぎて小さな橋を渡ると、また国道371号に合流します。歩道もなく、交通量が多いので立ち止って、車をよけた所がいくつもあった。200m程の先の右手の電柱のそばにひっそりと●七里石が立っています。
 左手に、天見温泉郷など見ながら進むと、●「出合ノ辻」と呼ばれている辻に来た。楠木方と北朝軍と戦った古戦場だったという所。 国道を渡って少し行って、右へ入る細道が●旧街道です。旧道に沿った集落が形成され、右手に石垣と土塀が続き、雰囲気を良く留めている。島の谷で再び国道と合流し、紀見峠へ向います。

■出会の辻~紀見峠
 やがて「紀見峠トンネル」の手前の●旧国道の分岐点に到着した。左奥にトンネルが口を開けている。南海線も、車もトンネルに入っていくが、旧道は全くトンネルの為消滅してしまっている。なんでも旧道は天見川に沿って、谷の一番低い所から、紀見峠まで一直線に上がっていったという。旧道は80cm程で残っているらしいが、草木が生茂って進むことは困難というので、安全に旧国道を進むことにした。トンネルができる以前の●旧国道をたどって行きます。  軽自動車が1台下りてきた。舗装路を右に左へと行くと、●紀見峠頂上へ着いた。 ここは大阪と和歌山の県境にあたります。峠の名前は「よく紀の国を見える」ということから、由来している。紀伊藩が慶安元年(1648)に伝馬所をもうけてから、大坂屋、虎屋といった旅籠や茶店が軒を連ねて、1日に300人もの旅人が宿泊させていたという。しかし、大正4年、南海高野線が開通すると宿場の役割を終えるようになっていった。
 頂上では●道は二手に分れ、左手を登って行く道が旧道として残っている。    12:45

■紀見峠~沓掛
 紀見峠を左手に登った所に●六里石がひっそりと立っています。またここには数学者の「岡潔生誕の地」という石碑が立っている。1901年に(手元の電子辞書マイペディアでは大阪市生れ、広持苑では和歌山の人とだけ)この地で生れたらしい。多変数複素関数論の研究で世界的な業績を残した人ということになっている。
  ●旧紀見峠宿
  往時、300人も泊れたという紀見峠宿。現在では虎屋(北村家)がその面影を残しているというが、どこだかわかんなかった。人が住んでいるかもわからないようなひっそりとしたもの。
 紀見峠宿を過ぎると、旧国道を横断し、急勾配の下り道を下りて行きます。途中の踊場のような所に、●地蔵の小さな祠があった。この辺を「沓掛」というようだ。その先をどんどん下ると「光陽台」に出て、このあたりは新興住宅が沢山建っている。さらに下ると紀見トンネルを出て来た新しい国道371と合流します。    13:15

■沓掛~慶賀野 
 371を真っすぐに下って、●慶賀野交差点で左折して旧街道に入ります。入口の左手に●不動堂がある。お堂の中には不動明王と、きれいな金色の観音像が祀られている。古い石垣などが旧道の面影を残しているが、高台で展望が素晴らしい。。国道に沿って●大規模なマンションが建って、開発が激しい。     13:45

 ■慶賀野~御幸辻 
 水田の中を歩き、「大福寺」の所の急階段を下りると国道に出て、国道を斜めに横断し、「橋谷」に入る。ここはすぐ国道へ合流してしまい、そのまま国道を少し歩けば右手に●「五里石」があります。元はここから300mほど南に建てられていたものが国道工事のためにここに移された。 「橋谷大橋」ガードの手前で右に曲り、旧道に入る。高低のある旧道で、石垣を備えた家が結構目に付く。細い道をうねうねと行くと●御幸辻に来た。角に●道標がある。道標は摩滅して、ほとんど読めない。
 右へ行くのが古い高野街道で、菖蒲谷、神野々を経て磁尊院をから高野山へ上がる道であり、「御幸道」と呼ばれる。左へ行くのが「不動坂口」道で、別名「京・大阪」道とも呼ばれている。ここは当然左手に道を取る。   14:30

 ■御幸辻~小原田
 このあたりも高台で、ここから見えるのは●橋本市ニュータウン、しらさぎ台の新興住宅地など、橋本駅までもう3kmもない。
途中右手に●牛頭天王社がある。坂を下りて一旦国道へ出ます。   14:40

  国道がせまく歩道もないので、●「辻原橋バス停」の先の信号で左に折れてみた。信号右手に常夜燈が立っている。国道東側の●集落を進んだ。ここも細い道で結構味わいのある建物が並んでいる。
 ●京奈和道路の高架の手前で左の旧国道へ入ります。国道に比べて急に交通量が少なくなった。     15:12

 ■小原田~紀ノ川渡船場跡
 橋本川に沿って進み、南海線のガードをくぐり、続いて●JR和歌山線のガードをくぐります。JRのガードの方に「高野街道」の看板が架かり、化粧板が張ってあったりで、風格が感じられた。「歴史の道調査報告書 和歌山県」の説明では、この先「南門橋」南の三差路を右に入り、 小原田の集落を南に向い、南海線の西側を通って、JR和歌山線の北側で合流する。とある。もちろんこんな道は今ではもうない。 ガ-ドをくぐった最初の信号の所が●高野街道と伊勢街道(大和街道)が交差する交通の要所であった場所である。紀伊徳川家も参勤交代で通ったとか。すぐ先、左手に道標が立って、「左 京・大坂道」 「右 かうや」とある。道標に沿い、斜め左に入ります。 国道24号を横断すると突き当たりは紀の川。ここが●紀ノ川渡船場があった所である。   15:45

  左手に●「四里石」が倒れかかり、右手に文化11年(1814)の●東家大常夜燈が建っている。天正13年(1585)応其上人が130間の橋を架けたが、3年後には洪水で流出してしまったという。その後は橋が架かることはなく、渡船によるようになった。現在では当然●橋本橋を渡ることになる。実は台風12号により、9月の初め紀伊半島では大きな被害が出た。今日は9月12日でいくらか落着いてきたようで、紀ノ川の水量もそんなに多くはない。しかし南海線の橋梁が曲ってしまい、橋本、紀伊清水間が不通で、バス代行運転になっている。    15:50

 ■紀ノ川渡船場跡~橋本駅
 本日はここまでで終ろうと思い、橋本駅に向ったが、途中●応其寺へ寄った。応其は秀吉の時代の僧で、秀吉が高野山を攻めようとする際、交渉をまとめ、高野山は比叡山焼討ちの二の舞にならずにすんでいる。また秀吉の信頼を得て、高野山の復興に力を尽したり、紀ノ川に橋を架けたり、宿の整備に務めたりして橋本の町の発展に大いに寄与した。
 最後に●橋本駅から帰宅した、紀伊清水駅までの代行マイクロバスが停まっている。 歩行時間、7時間。距離21.km 
残暑厳しく30℃を越えていた。暑かったね           16:10    

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