高野街道不動坂口道を歩く 2 
     (橋本〜金剛峯寺まで
 歩行地図はこちら  地図
 橋本−学文路−刈萱堂−繁野−可根−千石橋−作水−黒岩−神谷−極楽橋−不動坂−女人堂−金剛峯寺正門  16.3(全体35.2) km

高野街道不動坂口道
  京、大阪から東高野、下高野、中高野、西高野街道の各コースを通って来た高野山参詣道は河内長野ですべて合流し、一本の高野街道となります。一本となった高野街道は、三日市から紀見峠の峠を越え、橋本を経て「高野女人堂」に向かいます。不動坂口道は橋本で紀ノ川を渡り、学文路を、苅萱堂、神谷、極楽橋を経て女人堂までですが、奥の院までを目指します。
 ルートは
「歴史の道調査報告書 高野街道」(大阪府教育委員会)
「大阪ウオーキングマップ 東高野街道」(大阪府都市整備部)
「西高野街道の里道標石をたずねて」(橋本市観光協会)によります。
 東高野街道  西高野街道  
 高野街道 1 橋本まで  高野街道 2 金剛峯寺まで  高野街道 3 奥の院まで

■橋本〜学文路
2011年9月25日 橋本駅着9時10分着
 早速橋本橋へ向い、紀ノ川にかかる●橋本橋を渡ります。●紀ノ川を見渡すと、台風12号の増水は収ったものの、泥水できれいな川の面影がなくなっている。
 橋本橋を渡って西に進み、ガソリンスタンドの所で、土手沿いに進み、すると左岸側の●三軒茶屋の常夜燈が立っている。渡船は真っ直ぐ渡るのではなく、下流へ流されるので、こちらの常夜燈は少し、下流側にあった。   9:25

 右手に西行法師ゆかりの●西行堂が建っている。西行法師が留まった所と伝えられ、また旅の安全を祈願する「第一の地蔵」が祀られている。これから先桜茶屋まで6つの地蔵堂が建てられて道しるべともなっている。
 ●清水の町並み
 江戸時代は高野山領で、街道筋に200軒余の民家が密集し、高野山へ物資を輸送する為の伝馬所が設けられていた。板塀の屋敷が残り、昔の雰囲気を残している所であったが、ここも人に出会うことがなかった。
 さらに西に進むと一旦国道に合流します。その合流した右手に●第二の地蔵」がある。    10:05

 国道を進み、学文路小学校のあたりで、左の小道に入り、突き当たりを右折し、少し行くと左に●学文路大師堂がある。むかし学文路は「香室」と書かれ、梅の名所であった。この里に「高師 四郎」という高徳の士が隠棲しており、特に学問の教導に力を注いだので、この地の人々で文字の読めない人は一人もおらず、当時としては非常に珍しいことであったので、「学文路」と呼ばれるようになったとか。
 その正面、民家の玄関先に●「三里石」があった。玄関先に文化財の様なものが立っているのは迷惑ではないだろうか。元は学文路小学校の北、土居橋の所にあったものが移されたようだ。この所の道は非常に細く、昔のままの幅だろうけど、八百屋さんがあったり、古い家があったり、で面白いと思った。
 道は国道を横断して、●川沿いの細い旧道に入ります。     10:20

学文路〜刈萱堂
 川沿いの道に入ると郵便局前に●興山寺領、御国領境界石が立っている。高野山領と紀州藩領の境界を示す、境界石だが、元はこの位置ではなく、移転されている。
 国道を渡る手前に●道標が一つ立っている。「右 慈尊院みち 一里 左 高野みち 女人堂 三里」と彫られている。
 国道を渡って●高野線の踏切を越えて、坂道が続いている所が登山口であろうと思われる。

  坂道を上がって行って、右手に●「石動丸物語玉屋宿跡」がある。この先の刈萱堂に伝わる「石堂丸物語」で、当時高野山が女人禁制だったため、石堂丸が高野山で父を捜している間、お母さんが学文路の旅籠、玉屋で逗留したと伝わるのが、ここである。勿論建物は無くなっている。石堂丸のお話は高野山霊宝館のHPに載っている。
 学文路は参詣道の入口にあたり、当地で泊る客も多く、玉屋などの大きな旅籠もあり賑わった所。又舟で紀ノ川により運ばれて来た、石材を陸揚して、山頂へ輸送した拠点でもあった。弘法大師や高野山に関係ある伝説なども多く伝わっている。中でも有名なのが「苅萱道心・石童丸物語」であって、物語の伝わる●「仁徳寺・刈萱堂」は坂を上がったところを左へ入って行った所にある。堂内に●石童丸坐像、苅萱道心坐像、千里ノ前坐像、玉屋主人像が安置されています。
 尚 高野山境内に石童丸が修行をしていた、同じ名前の「苅萱堂」がある。                10:30

                  石童丸物語・・・・・(高野山霊宝館よもやま記より)   

■刈萱堂〜繁野 
 苅萱堂を過ぎて、坂を上がって行くが、不動口道は山道とはいいながら、いわゆる山道ではなくて、全編舗装路であり、極楽橋駅までは車も時々通って来る。●カーブミラーが立つ分岐は右へ上がって、集落の中へ入っていきます。
 次の●女人堂まで九拾町の道標が立つ分岐は左へと進みます。上がって行った繁野の集落に第三の地蔵が祀られていることをうっかり忘れて通過してしまった。大失敗・・・・。
 そのうち広い道を横断して、右を見るとトンネルが口を開けていて、●「ゆめさきトンネル」というのであった。   11:15

  トンネルを過ぎて、細い道を上がって行く。。右手に●大師の硯水というのがある。弘法大師が硯の水を求めたところ、遠くまで汲みに行ったので、その不便を察し、ここに杖を刺したところ清水が湧出したという。
 この先は下り坂で、●広い分岐点は左へ進み、集落が少しある細い坂を下って行く、途中の右手に●第四の地蔵があった。

 ■繁野〜可根
 さて、第四の地蔵からは●急激な坂道で、足をふんばって、ゆっくり下りないと、滑ってしまうような下り坂である。逆にこれを登るのはえらく難儀なことではないかと思う。
 山道を下って行くと眼下に河根の集落が見えて来た。途中の左手に●河根丹生神社がある。丹生都比売神などを祀る。隣は日輪寺。応永26年(1419)の銘がある石造狛犬は県下最古のもので県有形文化財とか。
 県道を渡って宿場だった●河根の集落に入って行きます。     11:35

■可根〜千石橋
 ●河根の町並
 河根は高野街道の宿場町だった所で、室町時代にはすでに開けていた。本陣、旅籠、茶店などが建並び、何十挺という山駕籠が客待ちをしていたという。右手には●元本陣の中屋旅館。門を修理中だった。
  集落を真っ直ぐ進むと、丹生川に架かる赤い欄干の●千石橋があり、その手前に「二里石」が建っています。  11:40

■千石橋〜作水
 ●千石橋から見る丹生川の清流。あまり台風の痕跡は残っていなかった。橋を渡ると「高野町」。ここから先は三大急坂の一つの●作水坂」にかかります。さすがにかなりの急坂で、昔、尻を押してもらって坂を上がったというほど。
 上がりきった左手に●第五の地蔵が祀られている。    11:55

■作水〜黒岩
 尾細を過ぎ、桜茶屋に高野六地蔵堂の最後の●「第六の地蔵」が左手にある。途中に●薪が沢山積んである民家もあった。 左手に大きな岩(黒石という)があるあたりが●日本最後の仇討ちがあったという所
 文久2年(1862)に、赤穂藩森家の家老、森主税と村上真輔が、尊王攘夷をさけぶ一派によって殺される事件がおこり、子どもたち4兄弟と助太刀3人の7名が、高野山中のここで待ち伏せしして、本懐を遂げたという。明治4年(1871)2月のことである。この仇討ち行為がきっかけとなり、明治6年(1873)に仇討ち禁止令が出され、日本最後の仇討ちとなった。しかしここでも赤穂藩の名前が出てきて、勿論忠臣蔵の赤穂藩とは藩主が違うけど、よくよく仇討に縁がある藩であることと思う。 12:35

 ■黒岩〜神谷
  仇討の場所より500m位の所に●仇を討たれた7名の墓がある。
 墓を過ぎると、「神谷」の集落が建ち始めて、右手の●「一里石」と他の道標石がまとめられて置かれている。
左から2本目が「一里石」である。    12:00

 ■神谷〜極楽橋駅
 一里石を過ぎ、「神谷」に入って来た。道標が立っていて、女人堂まで4400mとあり、裏に御成婚記念道程標と彫ってあり、いつの話かと思ったら、大正3年に昭和天皇のご成婚を記念して建立されたというものなのであった。
 右手にある大きめの木造の建物は
●高野町立白藤小学校。「神谷」も高野街道の宿場であった。大正末期における記録では、旅館などが16軒もあり、750人以上が宿泊できたし、さらに芝居小屋やまんじゅう屋、豆腐屋、などが軒を連ねていたという。しかし高野山まで電車とケーブルカーが開通すると神谷地区は一気にさびれてしまい、往時の繁栄は見る影もなくなってしまったそうだ。
 やがて林道と交差する
●4差路の所は奥の細い道を左へ向う。●石垣の上に廃屋があって、橋の様なものが架かっていたが、なんだろうと思ったが、わからなかった。ここをくぐって進みます。    13:50

  右下に●南海高野線が通っているのが見える。●新極楽橋の手前を左に入ります。●「極楽橋駅」が見える。
 極楽橋まで南海線が開通したのが昭和4年2月のことで、極楽橋から高野山までのケーブルカーが開通したのが昭和5年6月のこと。ケーブルカーの開通により、沿道の宿場は寂れることになってしまったわけである。  14:00

 ■極楽橋駅〜不動坂
 駅を左に見ながら、●朱塗りの極楽橋を渡ります。この橋は高野の聖域と俗界を区切る結界だといわれている。橋の両側に地蔵が祀られている。この橋は不動橋ともいわれ、ここから●不動坂の始まりです。
 女人堂まで約2.5km。大正4年(1915)の高野山開創千百年記念大法会に合わせて「新高野街道」の一部として大改修が施され、難所だった四十七曲り(いろは坂)」は通らず随分と緩やかな坂道になったという。ただ「ダンダラ坂」になってしまった。と昔の登山者には評判が悪いらしいと、霊宝館のよもやま記に載っている。
 ●ケーブルカーのガードの下をくぐって行く。     14:06

 ■不動坂〜花折坂
 
本格的に●不動坂を登っていきます。傾斜はそんなでもないものの、上り一方で起伏がなく、学文路から歩いて疲れてきた足には響いてきて、50歩、歩いては、立ち止って、一息、というような感じで進むしかなかった。上から下りてくる人には何人か出会ったが、下から上がるのは自分一人のみ。
 左手は「万丈転」という深い谷となっているそうだけど、草木が繁茂してよくわからず。
 やがて●清不動堂(きよめのふどうどう)に着いた。大正9年(1920)、大阪の枡谷清吉、寅吉親子によって、現在の位置に移転改築されたものであるという。建物は改修されている。
 しばらく上がると、●花折坂に着く。参詣客が奥の院へお花を供えるために花をとったという所。宝筐印塔や不動明王の石像などが置かれている。    14:53

 ■花折坂〜女人堂 
 花折坂を過ぎて、ほどなくバス専用道路へ出て、左へ少し行くと●女人堂に到着した。不動坂口はここがゴールとなる。やれやれ・・・という感じ。
 高野山は明治5年まで、女人禁制で女性は高野山境内に入れなかった。その為高野山七口といわれる入口すべてに、女人堂が建っており、女性はここで奥の院の御廟を拝むしか方法がなかったわけである。現在では女人堂はここ不動口に唯一残っているばかり。 ここまで極楽橋から48分。小休止の連続で少し時間がかかった。
 ●堂内には本尊の大日如来、外に弁財天などが祀られている。 女人堂の向いにある大きな地蔵は●お竹地蔵といって、案内によると・・・・安政年間(1854〜)江戸飯田町の横山竹さんが大地震でなくなられた人々のため、又自分の父母の菩提のために自分の身を仏様に捧げて30年の年期奉公して蓄えた私財で建てられたお地蔵様です。・・・・・・      15:05

 ■女人堂〜金剛峯寺 
 女人堂がゴールで、ここで帰っても良いのだけど、せっかくなので金剛峯寺まで行こうと思った。●不動口入口から境内に入って行った。まず右手に見えるのが●金輪塔。二間半四面の多宝塔。11世紀頃の明算検校という人の創建だが、天保5年(1834)の再建になる。
 次に左手に●浪切不動尊本堂。空海が唐から帰国の際、荒波を鎮めたという浪切不動明王を祀る。    15:20 

  最後に金剛峯寺に参拝した。●正門●本堂。今日は外観を見るだけで終りにして、次回ゆっくり拝観することにして、帰ることとした。千手院橋バス停から高野山口駅へ戻り南海線で帰宅した。次回は高野山大門から奥の院へ向います。15:40 

     高野街道TOP  不動道 1  不動道 3