本坂通り(姫街道)を歩く 1
                                (浜松~西気賀
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 浜松駅-連尺交差点-犀ガ崖-小豆餅-追分-三方原-一里山-気賀-呉石-引佐峠入口-小引佐-西気賀  18.93km 
 

 本坂通(姫街道)
 浜名湖の北側を通って、東海道見附宿、又は浜松宿と御油宿を結ぶ街道で、本坂峠を経由したことから本坂通とか、又女性が浜名湖の渡しをきらったり、新居関所を嫌った女性が多く通ったことにより姫街道とも呼ばれた(諸説あり)。江戸時代初期には見附から安間、市野宿を経て気賀に至る経路をとっていたが、後期以後浜松宿のからの経路が主流になっていった。宿駅は気賀、三ヶ日、嵩山(すせ)の各駅が置かれ、浜松から約50km 見附からは約60km。
 ここを浜松-御油間(2泊3日)と見附-浜松追分間(1日)と分けて歩いた。
 資料 歴史の道調査報告書(姫街道 静岡県教育委員会)

1 浜松~西気賀   2-1 西気賀~本坂  2-2 本坂~豊川   3 豊川~御油追分  4 見附~三方原追分

2017年10月13日
■浜松駅~連尺交差点
  朝8時30分浜松駅到着。本日浜松の追分から距離を考えて西気賀まで行くことにします。気賀に適当なホテルがなく、西気賀から浜名湖鉄道で2駅先の佐久米まで行って泊まります。
 駅前におかしな●「家康くん」というゆるキャラごとき物があった。浜松近辺は大河ドラマ「おんな城主 直虎」でかしましく、おかげで泊まろうと思った気賀の国民宿舎は満員でありました。
 駅から伝馬町の交差点へ向かい、交差点を右に折れて北に向かいます。連尺交差点が姫街道との追分にあたりますが、その前に左手へ入いると五社公園、復興記念館、●五社神社・諏訪神社などがあります。家康が秀忠の産土神として崇敬したことから豪華な社殿となり、旧社殿は国宝にしていされていたが、戦災で焼失しまっている。境内に●光海霊神碑というのがあって、賀茂真渕大人が幼少の頃、 師と仰いだ五社神社神主 森暉昌大人の功績を記した顕彰碑 です。
 ●連尺町交差点が姫街道のきてんとなり、昔は浜松城追手門前の高札場脇とされた場所。その為少し離れた谷島書店脇に●高札場跡と書かれた石碑があります。    9:05

■連尺交差点~
  ●ひくま坂を上って行きます。街道から離れ、左手奥の方の●菩提寺に立ち寄りました。近世では「殿様寺」と云われ、武家以外の檀家を持たなかったとか。本堂の右手に●「人体解剖発祥の地」と書かれた標柱があった。人体解剖発祥というと・・・杉田玄白の「蘭学事始」が思い浮かぶので・・・これは何だろうと思った。 が、 浜松での始めて・・ということらしい。(ちなみに日本における人体解剖の初めは1754年山脇東洋の京都六角獄舎における処刑された罪人を解剖したことによる)
 高町の交差点を右折して行きます。すると右手に●浜松城が見えてきました。このあたり侍屋敷だった所らしい。道は緩やかに左に曲がり、坂を下って行く。その下った所が「鹿谷緑地公園で」名残番所跡であろうと思われます。
 その先静岡銀行の先を右手に入っていた急な下り坂が●真向坂という。 天林寺山下に通じる坂で、「抹香坂」という説もあるが由緒は不明と・・「報告書」に記載されているが、どういう意味があるのかよくわからない不思議な坂。 9:45

~浜松北髙東
 佐鳴予備校前にあるのが●三社神社。延暦14年(795)坂上田村麻呂の勅を受けたという由緒ある神社で、三方原合戦では兵火にあい全焼している。代々城主の祈願所として今日に至っている。神社の横が庄内道の起点になっている。市街地に珍しく大きな高い松が何本もある。
 ●浜松北髙東交差点の先、国道の左脇を通っているのが旧道らしいが、国道右隣が重要な史跡の犀が崖なので国道を進みました。
 10:00                                     

★犀ケ崖古戦場
 国道右手は犀ヶ崖公園。ここは徳川家康唯一の負け戦といわれる三方原合戦において、家康が一矢報いたといわれる犀ヶ崖の戦いの史跡となっています。園内の●犀ヶ崖資料館に資料が展示されている。
 この崖のあたりに野営していた武田勢を家康が急襲、あわてた地理不案内な武田勢がこの崖から転落し、人馬とも多数の犠牲を出した所とされる。園内に●「三方原古戦場犀が崖」と刻まれた石碑●武田勢が転落したという崖の跡。●大島蓼太の「岩角にかふとくたけて椿かな」という句碑がある。●常夜燈などがあります。  10:05

■浜松北髙東~小豆餅
 その先左手さいががけバス停の前に●「夏目次郎左衛門吉信旌忠(せいちゅう)碑」がある。  夏目吉信は三方原合戦のとき、家康の身代わりとなって討ち死したという。
 その先●城北交差点のあたりは右下の天林寺から通じてきている「引馬坂」との接点になる。右手の小学校も「追分小学校」という。
 その先、左手には静岡大学浜松キャンパスが広がっていいます。その先はしばらく何もなく、左手奥は「航空自衛隊浜松航空基地」。時折ヘリや戦闘機の爆音が聞こえた。
 右手、浜松葵郵便局の先、●「小豆餅銭取本舗」というお菓子屋さんの壁に「葵」の家紋が架けてある。ここにおもしろい伝説が残っているらしく、・・・・三方原合戦のとき、空腹に耐えかねた家康が飛び込んだ茶店で老婆が売っていた餅をほおばっていたところ、敵が近づいたので銭も払わず逃げ出した。 何も知らない老婆は食い逃げされてなるものかと家康の後を2km余り追っかけて、家康から銭を取ったという・・・。たしかに店から2kmほど戻った所に「銭取」というバス停があります。   11:10

■三方原追分
 その先は●三方原追分になります。右方向から見附から来る姫街道とここで合流します。見附からの姫街道は後日改めて歩いて来ようと思います。
 まっすぐ進むのが金指街道で、分岐点に●大きな道標と小さな道標とが置いてある。大きな方は明治37年に建立されたもので「奥山半僧坊大権現三里」と書かれている。●小さな道標は慶応4年の建立で、高さ45cm 「右みやこだ 中かなさし 左きが道」と彫られています。    11:25

■三方原追分~三方原神社
 追分を左折すると、常夜燈の形をした●「姫街道の松並木」の案内が置いてあり、その先に●松並木が続いています。松並木は江戸時代には追分を中心に3方向に続いていたと云われる。現在は気賀方向の西側のみで、約3kmが史跡に指定されています。
 東名高速を越え、萩野原橋を渡った先、右手に行くと、,●三方原神社があります。浜松城内に祀られていた「東照宮」を大正時代に移した神社で祭神は家康。
 社殿●右手の祠の中にある●不動尊は光背部分に「右はま松道 、左いけだ道」と彫られている。いけだ道とは天竜川に通じる道のことなので追分の所付近にあった物だろうと思います。    12:00

■三方原神社~一里山
 葵町交差点の先、左手に●権七店」と書いてある案内板が立っている場所があります。 江戸時代には追分からこのあたりまで松並木が続くだけで、ほとんど家がない寂しい所だったという。 権七店は近隣の人々の寄り合いの場でもあり、店先の山桃の木があって、馬方は牛馬をつなぎ、休憩したという。 現在でも●ごんひちというお店があるけど、それがその権七店を指すのかはわからない。
 その先、「一里山」バス停の所に●東大山一里塚があります。左右とも残っているのは姫街道ではここだけだそうなので、パノラマに撮っておきました。日本橋より67里(268km)に位置している。    12:33

■一里山~湖東西
 その先、大谷川に向かって下り先になって行き、●大谷川を渡ります。左手に●「曲がり松」というのがあります。江戸時代気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所と云われ、数百年を経た松があったという。初代の松は昭和48年に枯れ、現在は二代目。 又ここには明治10年代の引佐郡長松島十湖の「別るるは また 逢うはしよ 月の友」という句碑が建てられています。
 ●「湖東西」バス停の所で道は二股になっていて、旧道は左へ入って行きます。 すぐ先の交差点の角に●六地蔵がある。西側の竹薮が昔の刑場であり、刑死した者の霊を慰めるため正徳2年(1712)に建立したと伝えられます。    13:10  

■湖東西~長坂
 県道をはずれた道は車がほとんど通らず、静かで気持が良い。●文化8年建立の秋葉常夜燈の所で、右に折れます。ここには「老ヶ谷の秋葉山常夜灯」と書かれた大きな案内板があるが、所々文字が消えて、詠みにくい。
 その先左手に●千日堂があります。寛文11年(1671)気賀呉石の近藤家下屋敷にあった観音石像を移して祀られた。また堂内には気賀近藤家二代用治、三代用由の位牌が祀られているという。
 その先姫がの絵が描かれた給水タンクが見え、手前左手に●老ヶ谷の一里塚跡がある。江戸から68番目。●タンクの所は二叉になっており、旧道は左手を取ります。右手は自動車道。ここから下りていく道は長坂と呼ばれます。    13:35

■長坂~落合橋
 ●いきなり暗い何か出そうな山道のようで、一瞬たじろぎますが、入って行くとすぐ先に●服部小平太最期の地という案内板が立っている。傍らに石碑がある。この地の領主、服部小平太が天正年間に何者かに襲われ亡くなったと伝わる。
 長坂を下り、一度舗装路を越し、又T字路に突当るのでここを左折します。ここの右手に常夜燈があったのだが、本体がなくなり、鞘堂だけがのこっている。 旧道を進むと●宗安寺跡があります。服部小平太の霊を弔うため建てられたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、今は石段だけが残るだけ。
 県道を横断すると、左手一帯は刑部城跡です。現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っており、●二の丸跡には金山神社が建立されています。 刑部川を渡って左折し、川沿いに進んで落合橋へ進みます。      13:50

■落合橋~気賀町
 ●落合川を渡ります。右手から都田川、左手から井伊谷川が合流するので落合川と呼ばれます。 川の左手に渡船場がありました。
 落合橋の先は昔の●気賀宿。落合橋を渡って右の袂に小さい●宝生地蔵菩薩がある。光背に「右はままつへ三里半、左秋葉山道宮口へ二里 二俣へ四里」と刻まれている。  13:57

★気賀関所跡
 天竜浜名湖鉄道のガードをくぐった先の●気賀四ツ角交差点あたりが気賀関所入口で、東門があったと云われる。寛永初年から明治2年まで本坂通の取り締まりを行っていた。関所は大部分失われ、現在は●気賀関所址の石碑が残るのみ。又「史跡気賀関跡」の看板に従って右手に入って行くと●本番所の建物の屋根の切妻破風と狐格子が特徴的に残っている。
 その先右手の気賀小学校前に「気賀近藤陣屋遺木江戸椎」の説明板が立っているあたりが●気賀領主の旗本近藤家の屋敷跡で、陣屋と呼ばれて、関所の西にあった。       14:06

★再建された気賀関所
 気賀駅の南側に●復元された気賀関所があります。●建物は箱根関所と同様な感じで、人形なども置いてあり、当時の様子がわかる。 ただ今年だけだと思うけど気賀を含め、奥浜名湖がNHKの大河ドラマの舞台になっており、大河ドラマ館なども作られて、平日なのに人出が多かった。
 駅の北側、街道の南側に東西に真っ直ぐな堀が掘られ●要害堀という。関所の防備のために設けられた掘でしょう。   14:25

■町並みと細江神社
 ●気賀の町中の旧道を進みます。気賀宿は江戸時代前の天正15年(1587)に開設された。気賀関所を東の入口とし、西へ5町53間の宿場であった。上町が中心で本陣と問屋場が各1軒、旅籠8軒を含め民家111軒が町並みをつくっていた。
 右手奥の●細江神社は明応7年(1498)の大地震で浜名郡橋本にあった角避比古神社のご神体がこの地に流れ着き、これを永正8年(1511)から牛頭天王として祀るようになり、明治元年から細江神社と称した。この由緒から地震の厄除けの神様としても知られているとか。
 境内に根の部分に●大きな穴がある巨大な楠があり、ここでコウモリと、大蛇が三日三晩争ったという伝説があります。
 細江神社の北の方に●「犬くぐり道」という道があって、むしろが一枚垂れている不思議な門が立っています。気賀に関所が設けられて住民の通行が不便になったために領主が裏道を作り、道の途中にむしろ1枚を垂らしてその下をくぐりぬけさせたという。 要するに、犬が通る道で人間が通る訳ではないから関所破りではないよ・・という脱法的な道を作った訳。     14:40

■片町~呉石
 気賀駅北の交差点のすぐ先、右手に●気賀宿本陣中村家跡がある。本陣は代々中村家が勤めていた。 本陣跡のすぐ先、左手に本陣前公園がある。案内板の裏に幕末の界隈を説明した絵図が書かれていて、当時の様子がよくわかります。その向かいに●正明寺があります。山門は廃寺になった宗安寺の山門を移したという。本陣中村家の菩提寺として栄え、本陣危険時に御退場寺にもあてられていました。 裏手に先ほどの●犬くぐり道が通っています。     14:55   

■呉石~引佐峠入口
 正明寺の先に●枡形と秋葉常夜燈があります。ここは気賀宿の西の端で石垣が築かれ、門が設けられていた。常夜燈は安政4年(1857)地元の若者が願主となって建立したもの。 
 その先、●二股になり旧道は右斜めに行きます。  右手高台に全得寺、諏訪神社があり、「アマノ」の前を通過していくと、左手に●二宮神社があります。南北朝時代の後醍醐天皇の皇子宗良親王の妃「駿河姫」を祭神とする。 当時の歴史本を読むと、北畠親房と共に伊勢から陸奥へ渡る途中、流されて遠江に漂着したという親王だが、こんな場所に登場するとは思わなかった。井伊谷の豪族井伊道政娘駿河姫を妃とし一子をもうけたといわれる。 親王が京都に上ろうとした時、駿河姫も親王を見送るためこの地に来たが急病になって亡くなったので、この地に祀ったという。 歴史のある由緒だが、その割には小さな神社でした。
 その先、突き当たりを右に行く。その先を●左に上って行く山道が旧道で、最初引佐峠の入口かと思いましたが違ったようで、山田の集落へ行く農道の様でした。    15:30

■引佐峠入口~ダイダラポッチの足跡
 ●石畳道を上がって行きますが、この石畳は復元整備されたものでしょう。上り始めてすぐ右手に●山村修理の墓がある。堀川城落城したときの城将の一人、山村修理がここで切腹し、その霊を慰めるため建てられた。
 更に上がると右手に●山田の一里塚跡がある。江戸から69番目。塚は無くなり石碑が立つだけ。その先は下り坂になり、集落があって舗装路になった。右手に琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという伝説の巨人●「ダイダラポッチの足跡」と伝えられる池があります。15:35

■ダイダラポッチの足跡~西気賀
 ゆるく上がって行くと道は●二股に分かれ、姫街道の矢印に従い左へ下りて行くようになります。眼前に●浜名湖のパノラマが広がり、昔も旅人は大喜びをしたことでしょう。下り始めの所に「小引佐(こいなさ)」の案内板があります。
 その先の下り坂はミカン畑の中を進み、平になったら所は昼なお暗いという感じの石畳でした。このあたりの石畳は完全に復元された道できれい。●民家の所へ出てきて、旧道は尚真っ直ぐ進む訳だけど、左に200mも行けば西気賀駅であるので、本日はここまでとし、駅へ向かった。このあたりレイクタウン西気賀という住宅街が広がっている。宿泊は西気賀駅から二つ目の「佐久米駅」の近くの「グリーンプラザ浜名湖」。でした。    2-1 西気賀~本坂宿へ続く    15:50

 2-1 西気賀~本坂