鎌倉街道中道を歩く5
      (千駄ヶ谷~川口)
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 千駄ヶ谷-新宿御苑-西向神社-戸山台-面影橋-鬼子母神-池袋-明治通り-滝野川-十条-岩淵-川口   16.2km

 1 鶴岡八幡宮~東戸塚  2 東戸塚~中山駅  3 中山駅~二子玉川  4 二子玉川~千駄ヶ谷駅  5 千駄ヶ谷駅~川口駅

2014年6月1日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■新宿御苑~西向天神社
 前回の鳩宮神社から北方は旧道は残っていない。新宿2丁目角から旧道が残っているようだが、そこまで新宿御苑が横たわるのみ。そこで新宿御苑を突っ切っていくしかない。千駄ケ谷駅を下りて、御苑に沿って行くと「千駄ケ谷門」がある。そこから入って新宿門から出るまで●御苑を散策しながら進んだ。コースは適当。但し原則月曜日が休園日なので、迂回するとかなりの遠回りになる。新宿御苑は徳川家康が江戸入府の時に内藤家が敷地を拝領したといわれている。
 新宿門を出て、右折して少し進んで、新宿二丁目の角から北上して行く。すぐ左手に太宗寺がある。太宗寺は内藤家の菩提寺で、●江戸六地蔵のひとつである銅造地蔵菩薩や都内最大の閻魔大王の像、奪衣婆像などが境内に鎮座している。甲州街道を歩いた時にも来ているので、参拝するのは3度目くらい。 その後靖国通りを越えて、●東京電力のビル横の道に入る。今は暗渠になった蟹川という川を渡るために緩やかに下って行く。

■西向天神社~厳島神社
 新宿中学校の先右手崖上に緑地があり、●西向天神がある。境内に小さいが富士塚が残っている。富士塚は先の鳩宮神社にもあったし、この先の十条にも大きなのがある。隣の大聖院駐車場の中に、●紅皿の墓というのがある。太田道灌の山吹の里伝説に出てくる女性の墓と伝わる中世板碑と灯籠、水鉢、花立とで構成される。大聖院は紅皿が晩年出家隠棲した草庵であるといわれているそうだ。
 緑地を出て台地に上がる坂を行くと、都道302号へ出て、右手抜弁天交差点の角に、●厳島(抜弁天)神社がある。昔源義家が奥州征伐の途中、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、安芸の厳島神社に戦勝祈願をしたという。その帰路ここに神社を建てたという。

■厳島神社~早稲田穴八幡神社
 旧道は厳島神社のあたりで消滅している。この先は新宿七丁目を北上し、戸山ケ原を通って諏訪通りに至っていたものと思われる(北倉庄一説)という。という訳でこの先は適当に歩いた。
 新宿7丁目の中はごちゃごちゃして真っ直ぐ進めない。適当に曲がったりして進み、7丁目界隈を抜けると戸山ハイツのある戸山ケ原台地の中に入って逝行く。戸山ケ原は終戦まで軍関係の施設があった所で、現在は住宅団地や国立医療センターなどになっている。その中の戸山公園の南側に●箱根山という(標高44.6m)まあ 山には違いないこんもりした所がある。登れば四方の眺望は極めて良いとは云うのだけど、周囲が樹木に覆われ、全く視界がきかない。樹木も少しは切っとけば良いとは思うのだが・・・・・
 戸山公園の東側の「箱根山通り」を上がって行くと、諏訪通りの交差点に出る。右へ行くと「早稲田大学」、左へ行くと学習院女子大がある。旧道は左へ行かないといけないが、右へ曲がって穴八幡へ寄ってみた。右折した馬場下町交差点の左手角に穴八幡神社がある。今を去る40数年前このあたりの学生であったので懐かしい場所だけど、神社もえらく立派に変身したものだと感心させられた。まず参道の石段左手に馬の銅像が立っている。何かと思ったら流鏑馬の像だった。由緒よれば、康平5年(1062)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。武家の神であり、歴代将軍が度々流鏑馬を奉納したというので造られたのだろう。石段を上がると朱も鮮やかな●隨神門。これも昔はなかった。参道奥に●社殿が建つ。 

■早稲田穴八幡神社~水稲荷神社
  諏訪通りを学習院女子大の方へ進んで行く。●北門前の細い道が旧道で、入ると裏道のような感じの坂道が続いている。300mも行くと早稲田通りの巣鴨信金の前に出る。
 信金のすぐ横の道に入って1本目の四つ角を右に曲がって真っ直ぐ行くと、茶屋町通りの標柱が立っていて、このあたりの長方形の一帯が江戸時代に●高田馬場があった所と云われる。今はマンションが建つだけで何も残っていない。高田の馬場仁ついての説明板が立っている。 馬場は寛永13年(1636)に旗本の馬術の練習場として造られた。有名な堀部安兵衛の仇討ち話の舞台でもあった。 旧道へ戻る途中●水稲荷神社へ寄った。太田道灌の山吹の里はこのあたりを云うのだという。道灌の駒繋ぎの松というのがある。堀部安兵衛助太刀の場所の碑があるというので探してみたのだけど見つけられなかった。

 ■水稲荷神社~面影橋
 旧道へ戻り更に●細道を進む。台地を神田川へ下りて行くためか下り坂になっている。左手に享朝院がある。
 間もなく広い通りの新目白通りへ出た。目の前が●面影橋である。この通りには都内で唯一残った都電が通っていて、停留場に都電が止まるのを見たくて、少し待ってみたりした。
 これを渡る前に右折して●甘泉園立ち寄る。甘泉園はもと清水家の下屋敷だった所でヽこの名の由来は薗内に良質の水が湧く泉があることから付けられたという。現在は無料の公園になっている。

★面影橋界隈
 面影橋を渡る。下を流れるのは●神田川。橋の名前の名前の由来は諸説あるようだが、いずれにしても広重が「名所江戸百景」で太鼓橋に描き、江戸名所の一つとして賑わっていたようである。
 橋を渡った所の「オリジン電気工場」の前に●山吹の里の碑が立っている。太田道灌の山吹の故事にちなむ碑である。ちょっと先の左手に●氷川神社がある。祭神は素蓋鳴尊、稲田姫命、高田の総鎮守。創建は貞観年間で家光なども厚く参拝したという。

 ★南蔵院・金乗院
 道の反対側には●南蔵院。家光がしばしば訪れたといわれ、境内には、元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波やその外の墓がある。また圓朝作の「怪談 乳房榎」ゆかりの寺でもある。
 少し先の左手は金乗院・目白不動である。真言宗の寺で●山門を入ると、創建は天正年間ながら●本堂は先の戦災で焼けたので鉄筋コンクリート造りのもの。墓地には由井正雪と共に幕府の転覆を謀り、処刑された●丸橋忠弥の墓がある。 

■宿坂~目白通り
 ●目白不動堂の方は寺の右手側にあって石段で上がるようになっている。以前、文京区関口にあったのだが昭和20年5月の戦災により焼失したため、本尊の不動明王像を金乗院に移して合併したものである。不動堂は元和4年(1618)に小池坊秀算によって建立され、東豊山浄滝院新長谷寺と号した。本尊の●不動明王像は江戸守護のの五色不動(青、黄、黒、赤、白)随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624~1644)に三代将軍徳川家光の命によるといわれる。もっとも本尊自体は秘仏で、見ることはできない。 寺の前に続く坂は●宿坂といって、鎌倉時代には関所があったので宿坂と呼ばれたという。江戸時代には竹本が生い茂り、昼なも暗く、くらやみ坂と呼ぼれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わている。この坂はかなりの急坂で、上り切ったところが目白通りである。

■目白通り~鬼子母神
 目白通りへ出ると目の前は●鬼子母神表参道入口になる。旧道はこの先帝京平成大学あたりまで消えたしまっているようなので、まず通りを横切って参道を行くとする。都電の踏切と鬼子母神前駅がある。そこから●ケヤキ並木の参道となっている。鬼子母神は元々インドの残虐な神だったのが仏教では安産、子育ての神として信仰を集めてきた。この●鬼子母神堂の本尊の鬼子母神像は室町時代に永禄4年(1561)雑司ケ谷あたりの地から掘り出した像を祀ったものという。

■鬼子母神~ 東池袋交差点
 鬼子母神を出て右手の道を北へ行くと、なにやら寺の境内を通過し、法明寺の山門にぶつかってしまうが、左手に●墓地に沿った細い道が続いているのでそこを通ることにした。「雑司ヶ谷寺町散歩道」という案内銘板が立っている。
 散歩道を抜けると●広い真っ直ぐな道路になった。正面にサンシャインビルが見える。左手に本立寺など寺院が多数集まっている。やがて●東池袋の交差点に出た。

 ■東池袋交差点~明治通り
 ●サンシャインビルの前を通り、東池袋公園を過ぎると国道254号に出る。この通りを渡り●帝京平成大学脇の道に入る。大学の敷地は区立時習小学校jがあった所で、入口脇に●跡地の記念碑が造ってある。この通りが旧道といわれ●上池袋2丁目で明治通りに合流するまで細い道が続いている。

 ■明治通り~滝野川3丁目
   しばらく行くと北区との境には以前谷端川が流れていて、鎌倉橋が架かっていたが、川が暗渠になり橋もなくなった。川筋が北区との境界線として残っている。その先に●千川上水分水堰跡の碑が立っている。千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水でこのあたり堰があり王子方面の分水路が設置されていた。
 さてこれから先はほとんど旧道は消滅している。西巣鴨交差点手前から左斜めに通り、石神井川に向かって進み、自衛隊の十条基地を通過して自衛隊の先で旧道が復活しているという。現在ではほとんどたどれなくなってしまっているので、それらしい所をたどるしかない。 ●西巣鴨交差点を渡り首都高速の高架を左斜めにくぐり、●交差点の角から細く入る道へ入って行く。●滝野川3丁目の団地の並ぶ通りを進む。右側の王子総合高校の建つ敷地は旧陸軍造幣廠滝野川工場跡地という。
 

 ■滝野川3丁目~紅葉橋
 右手に●四本木稲荷がある。稲荷を先を真っ直ぐ行くと●石神井川に出た。音無もみじ緑地という公園になっている。石神井川は洪水防止などのため護岸工事で風情は全く失われているのだが、遊歩道を東へ歩いて行く。松橋弁財天洞窟跡という看板があった。この地は江戸名所図会にも描かれ、石神井川流れに臨み、白然の山水あり・・・・・眺めの良い一等地であった。また松橋が架かり、茶店なども開かれ行楽客が楽しんでいたという。源頼朝の勢揃い地という古い伝承があるそうだ。石神井川に架かる●紅葉橋を渡る。

 ■紅葉橋~中十条2丁目
 紅葉橋を渡ると左側には●中央図書館や自衛隊駐屯地の塀が見える通りになり、旧道は自衛隊の中に消えている。都税事務所の角を左折し、一つ目の信号の所で道を横断して細い道に入る。ここから旧御成街道まで250mくらいの区間が旧道であるという。
 やがて交通量のやや多い●都道460号、旧御成街道に合流していく。御成街道は将軍が日光参詣の際利用した道筋なのでそう呼ばれてきたのだが、岩槻街道とも呼ばれている。ここはすでに一度通っている道である。御成街道は大部分鎌倉街道中道と重なり、また室町時代には太田道産が利用した軍事道路でもあったという。やがて左手に●富士神社が見えてくる。富士塚があり、ここのはかなり大きく立派。

 ■中十条2丁目~赤羽1丁目
 その先環状7号線を越えると道は下り坂になる●清水坂という。下りきって埼京線のガードををくぐり、少し行くと左手奥に普門院がある。この山門は中国風な変わって形をしている。
 段々赤羽駅に近づき、スーパなどが立ち並んで賑やかになって来るが、左手奥を眺めると石段が続く所がある。●太田道濯が築いた稲付城があった高台で、石段を登り切ると静勝寺がある。 もとの道に戻るとすぐ赤羽駅西口。駅のすぐ北の高架下をくぐり、左折して●高架沿いの道を行くと、T字路に突き当たる。

 ■赤羽1丁目~新荒川大橋
 突き当たり角にあるのが●宝憧院。入口に●道標があり、「東 川口善光寺道 日光岩付道  西 西国富士道 板橋道 南 江戸道」と刻まれている。道標のいう南とは今たどってきた道であり、東はこれから歩く道で、御成街道である鎌倉中道、西の板橋道とはこの突き当たりを左に行く道で中山道へ通じている。
 右折して行くと、北本通りの交差点。荒川土手に差し掛かり、右手に23区内唯一の酒蔵である「小山酒造」がある。その先に●岩渕問屋場跡という表示板が立っている。岩淵宿は御成街道の宿場だった所。
 新荒川大橋を渡って●荒川を越える。向こう岸の土手の敷地には中学校と小学校が建っているのは珍しい。学校の隣には宝憧院の道標にあった善光寺が建てられている。以前は河原敷にあったのだが、火災に遭ってから移転したらしい。御成街道は大橋の少し上流を渡船で渡っていた。

 ■新荒川大橋~川口市本町1丁目
 大橋から左折して土手の上を川口側の渡船乗り場あたりまで行って、土手から下りてこようと思ったのだが、学校の敷地名になっていて下りられず、善光寺脇の土手下に続く道路を入ったら工事のフェンスで通せんぼされ、脇のすき間を通り抜け土手下に下りた。●下りて左折した道が御成街道かと思って行ったら、違っていたことに後でGPSデータを見て気がついた。御成街道は1本東側の道だった。道理で「鎌倉橋の碑」がないなと思った次第。
 道の中程に●永瀬家の古い家がある。永瀬家は川口宿本陣を勤めた旧家であり、このあたり永瀬家一族の屋敷が固まっている。●県道89号に合流して今日は終了とした。左折して行くとJR川口駅がある。鎌倉街道中道はこの後御成街道と同様な道を進み、幸手から日光街道、奥州街道と結んで行く。御成街道も日光街道も既に歩き終わっているので、新鮮味もないしで一応川口で中道の旅を終了としたいと思います。次は下道、上道を歩きます。

     4 二子玉川~千駄ヶ谷駅