高野街道不動坂口道を歩く 3 
     (高野山大門~奥之院まで
 
 大門-壇上伽藍-金剛峯寺-千手院橋-刈萱堂-一の橋-中の橋-御廟橋-奥の院前     3.9km

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 2011年10月2日 ※ 写真をクリックすると拡大します
 高野山西の入口大門へ、南海高野線、ケーブルカー、バスを乗継いで到着。今日は5km程度なので、ゆっくりと着いた。
■大門~壇上伽藍
  西の入口●大門。朱塗の5間3戸の堂々たる二重門。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建された。6間3戸の二重門で、高さは25.1m。左右には運長作の金剛力士像が安置されている。
 大門をくぐると●6町石が立っている。町石というのは高野山上の根本大塔をから麓の慈尊院までの約20kmの参道に、昔の表参道に道しるべとして、1町(109m)毎に180基立てられた標石のこと。平安時代に木製の卒塔婆が立てられ、腐朽が甚だしくなったため、鎌倉時代に20年の歳月をかけて高さ約3mの五輪卒塔婆形の石柱に立て替えられた。今尚150基が残っている。、
 大門から境内を歩き始め、まず右手に塔頭の一つで、宿坊を兼ねる●別格本山 西南院が建っている。高野山には寺院が117ヵ所建っており、宿坊を兼ねるのが53ヵ所ある。黄色に塗られた山門が目立つ。弘法大師の高弟真然大徳による開基されたお寺で、西南の方位が古来より裏鬼門になるが為、裏鬼門の鎮護の寺であるという。

 壇上伽藍
 境内を進むと左手に広がる森の様に樹木が広がる場所が●壇上伽藍という。弘法大師が高野山を開いたとき、真っ先に整備した場所といわれ、高野山の中心となる聖地であって、主な伽藍が並んでいる所である。壇場伽藍は、胎蔵曼荼羅の世界を表しているといわれているとか。 門から入ると真っ先に見えるのが●六角経蔵。鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。現在の建物は昭和9年再建されたもの。
 ●御社(山王院本殿三社)への鳥居。壇上伽藍の西端に鎮座する。御社の創建は、弘法大師が高野山を開らいた際に真言密教の守り神として、丹生明神、高野明神を勧請されたことにはじまる。堂々と神仏習合の形を残している。

  ●西塔
 高さ27m程の堂々とした高欄付多宝塔で、何度か焼失を繰返し、現在のものは天保5年(1834)に再建された。本尊の金剛界大日如来と胎蔵界四仏が祀られる。
 ●孔雀堂孔雀明王像
  正治元年(1199)、東寺長者の延杲(えんごう)僧正が、後鳥羽法王の御願によって、京都、神泉苑にて雨ごいの祈祷を行い、見事大雨が降ったという功績により、翌年に創建された。その後焼失を繰返し、昭和58年には弘法大師御入定1150御遠忌記念事業として再建された。本尊の孔雀明王像はレプリカで、本物は快慶作であり、重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められている。 ●金堂
  高野山御開創当時は講堂と呼ばれていた。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たし、現在の建物は7度目の再建で、昭和7年に完成したもの。耐震を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造である。 

 ●根本大塔
 真言密教の根本思想を表すシンボルとして構想され、空海の時代では実現されず、第二世真然大徳(804~891)の代に落慶したと伝えられる。
 多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、これも焼失を繰返し、昭和12年に鉄骨・鉄筋コンクリート造りとし、外装のみ木材朱塗りの建物として完成した。高さ約48.5m。内部を参拝することはできたのだけど、撮影禁止で、撮れなかったが、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されているという相当派手な姿であった。
 ●鐘楼
 空海が鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられている。。これも度々鐘楼が焼失し、梵鐘自体3度ほど改鋳された。 現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12m大鐘で、日本で4番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになったとか。
 金堂裏手に●奥1町石が立っている。高野山境内には金堂から奥の院まで1町毎に36本の町石が立つ。

  ●不動堂(国宝)
 創建は鎌倉時代の建久8年(1197)、鳥羽上皇の皇女である八條女院内親王発願により、行勝上人によって建立された。
お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。
 ●西行櫻
 西行法師は大会堂の建築奉行に従事していた際に植えられていたとされる桜。以前の桜は、文化年間に枯れてしまったといわれ、現在の桜は後世のものという。少し小さい感じ。
  ●東塔
 大治2年(1127)、白河院の御願によって創建さた。尊勝仏頂尊が本尊として祀られ、不動明王、降三世明王の二体を脇侍としている。天保14年(1843)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年を経て昭和59年ようやく再建された。

 壇上伽藍~金剛峯寺
 
●伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道は両側を植木で凹凸をつけているところから●「蛇腹路」と呼ばれ、空海が竹ぼうきで蛇を払ったという伝承が残る。 壇上伽藍を出ると、すぐ左手が●金剛峯寺正門となる。 

 ■金剛峯寺~不動堂
 ●金剛峯寺本堂と主玄関
 正門の石段を上がると、檜皮葺の本堂大きく広がる。金剛峯寺とは空海の命名で、もとは高野山一山の総称であったが、明治以降山内寺院の本坊として、この寺を指すようになった。
 文禄2年(1593)に秀吉が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人に命じて建立された、青厳寺が金剛峯寺へ改名されたもの。ちなみに、このお寺の住職が高野山真言宗管長に就任することになっている。
 ●奥5町石
 如意輪寺の脇に立つ奥5町石
●別格本山、金剛三昧院・多宝塔
  境内を進み、中央案内所の先を右手、奥に入った所にある、金剛三昧院の中に立つ。国宝多宝塔
 茅葺で、白壁も剥落ちて、痛々しいが、さすがに風格を感じさせる国宝である。貞応2年(1223)建立、檜皮葺、高さ14.9mで、石山寺塔に次ぎ日本で2番目に古い多宝塔という。

 ■不動堂~一の橋
  元の境内に戻って、右手にあるのが●刈萱堂
 苅萱道心と石道丸の話は、学文路にある、「仁徳寺・刈萱堂」の話と同じであるが、こちらは苅萱道心が出家し、実の子である石道丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれたと伝えられています。
 堂内に●道心と石童丸の物語の額が掲げられています。   刈萱堂をすぎると●一の橋があり、奥の院入口となる。 

 ■一の橋~御廟
  ●奥の院の参道。両側に杉の巨木が建並び、大名や有名人、会社などの10万とも20万ともいわれる墓や供養塔が並んでいる。大名のものは大体、五輪塔で苔むして、歴史を感じる。
 ●中の橋から参道が二手に分れ、右手の参道の方に新しい墓所、供養塔が並ぶ。
 ●御廟入口の奥に見える建物が弘法大師の霊廟。ここから先は撮影禁止であるので写真はここまで。一番の聖地であるのでしかたがない。ガイドさんの声も遠慮がちに小さくなっている。    墓石、供養塔の主なものを以下に上げてみますと

  奥の院にある墓所、供養塔
  仙台 伊達家墓所  武田信玄。勝頼墓所   石田 三成墓所   織田 信長墓所

  豊臣家墓所  阪神・淡路大震災 
 物故者慰霊塔
  しろあり供養塔  新明和工業(株)慰霊碑

 墓所、供養塔というが?
 武田信玄、勝頼墓所と案内板の題字には書いてあるが、説明の方では供養塔と書かれている。信玄の菩提寺は山梨県の恵林寺であり、勝頼は天目山で自害後、景徳院に墓がある。信長にいたっては骨が発見されていないわけだし、各大名は地元に墓所があるだろうと思うし、どういう性格のものだろうと考えた。
 案内書でもらった「高野山MAP」ではほとんど「・・・・・供養塔」となっている。思うに本当の墓所ならば、分骨がされているのだろうし、有名人のは供養塔が多いのだろう。「しろあり供養塔」などという変ったものもあり、コーヒーカップ型や、ロケットが立っている各会社の宣伝みたいなのもある。沢山ありすぎて、いささかやり過ぎという感じがします

■御廟~奥の院墓所入口
   御廟からロケット形の墓石など眺め、●奥の院墓所入口まで来て、バスにて高野入口駅まで戻り、これで岩清水八幡宮から始った高野街道の旅を一応の終りにしたい。東、西高野街道から奥の院まで120km程でした。いずれ慈尊院からの町石道も登ってきたいものと思います。

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