本坂通り(姫街道)を歩く 4
       (見附~市野・三方原追分)
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 見附-一言-森岡IC-池田-新天竜川橋-中野町-安間起点-下石田-市野-うとう坂-三方原追分     17.1km  
 

1 浜松~西気賀   2-1 西気賀~本坂  2-2 本坂~豊川   3 豊川~御油追分  4 見附~三方原追分

2017年11月12日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■見附姫街道入口~かぶと塚公園
 浜松から御油までの姫街道を歩き終え、もう一つの見附~三方原追分のコースを歩きました。 距離約16km程。
 今回のルートは見附から北西に池田に向かいますが、このルートは正式には姫街道とは呼ばないようで、 地元では「池田近道」と呼ばれている。正式な経路は見附から南下し、東海道と同じ経路をたどり、池田の渡しで天竜川を渡り、安間から東海道と分かれて市野から御油へ向かうコースです。a
 、しかし見附の入口に堂々と「姫街道」の看板が立ってたりするし、姫街道と呼ぶ説もあるしで、今回このルートをたどってみました。
 ・・・ということで「磐田駅」に8時50分に着き、バスに乗り、●姫街道入口に到着しました。東海道見附宿西端にあたります。東海道はここから南下し西へ曲がり天竜川へ達します。入口に「これより 姫街道 三州御油宿まで」という看板が立っています。 入るとすぐに真正面に●秋葉常夜灯が立つ二股があり、街道は右の坂道を上がります。燈籠には電灯が灯っていました。 坂を上がりきると「かぶと塚公園」入口で、右手脇に小さな●旧一本松という石碑が設置されています。平成3年、見附公民館運営協議会になるものだが、何の意味かよくわかりません。
 右手の緑地はかぶと塚公園で、●兜塚古墳があります。5世紀頃の円墳で直径80m、高さ8m2段の墳丘。名前の由来は形が兜を伏せた形態に似ているところから付けられたと案内に書いてある。       9:35

■かぶと塚公園~一言
 国道1号と合流したのち、●磐田警察署西交差点の先の一言(ひとこと)歩道橋で国道と分かれて右斜めの旧道に入っていく。 細道を挟む家並みの中ほど、●秋葉堂がある付近に立場があった。
 道は●一言坂を下って丁字路に付きあたり、右にまがったところに「一言坂戦跡」と題した案内板が立っている。袋井市の三箇野川の戦いで武田軍に敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走したが、一言坂で追いつかれ再び合戦となった。この一言坂の戦いで徳川軍を救ったのが重臣の本多平八郎で、平八郎は見附に火を放って一言坂から浜松へ引き上げたという。 ●一言坂から下った先からは旧道は西北にほぼ一直線上に延びており、大部分消滅している。現在は道の区画上をジグザグに進まざるを得ません。    9:50  

★京見塚公園
 先に進む前に南側に「京見塚公園」があり、色々と史跡が残るので寄ってみました。まず●13基のの古墳時代後期の群集墳があります。埴輪を焼いた「釜跡」も2基見つかっている。 ひときわ大きい円墳は周囲163m、高さ7.5mで俗に●桓武天皇の皇子戒成王の墓所といわれ、皇子が古墳の上から京の方向を眺めたということから、 京見塚の名前の由来となっている。 古墳の根本に皇子の● 「衣手の なみだも空に はれやらで 都のかたは 白雲ぞたつ」。・・・という歌碑も設置されています。●古墳の上に立って見ましたが、京見塚というには樹木が邪魔をしていて視界が良くありません。浜松のアクトタワーが見えました。もう少し伐採した方が眺めが良いと思います。  10:10

■一言~森岡IC
 坂を下りた所に●池田近道(姫街道)の案内板があります。 ここから急激に右へ曲がり農道へ入って行くようですが、その先、なにやらお祭りの様な騒ぎになっており、部外者がノコノコ進入して行くのもなんだかな・・・と思い、又どうせこの先は旧道は消滅しているし・・・で車道をそのまま進みました。
  道なりに斜めに進み信号も斜めに入り、すると●智恩斎があります。 山門はこのあたりを治めた皆川氏の陣屋門を移設したものという。門左側のお堂に一言坂から移設された●一言観音が納められています。 信玄との戦に敗れた家康は、一生に一度だけ願いが叶えられると云う、この観音に戦勝の一言を祈願したと云います。
 その先は森岡ICを目標に進みます。 このあたりは「弥藤太島」という地名で、少し南側に太島の庄屋の堀氏の●長屋門が復元されています。   10:35

■森岡IC~行興寺
  森岡ICをくぐり、「アミューズ豊田」の左手にある「新造形想像館」という施設の左側に●池田近道案内が立っているのでここを入って行きます。旧道は斜めに続いており、左手に秋葉常夜燈があったりします。その先に●上新屋ポケットパークがあります。地面に「藤と香りの道マップ」が描かれ、熊野(ゆや)御前と平宗盛との逢瀬の物語という"案内碑"が設置されています。 謡曲熊野御前と平宗盛との物語はこちらを参考にどうぞ。・・・・このあたり池田が舞台の物語です・・・街道はこの先の ●田畑を斜めに進んでおり消滅している。僕らは池田まで区画に合わせてジグザグに進みます。      10:55 

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★行興寺
 西に進み川原口橋手前を右折して農道を行き、左折して東池田橋を渡ります。 県道262号を横断して保育園にぶつかり、ここを右折して少し行くと、●門前市通へ出ます。
 目の前は●行興寺です。 ここは先ほどの謡曲「熊野御前」のゆかりの旧跡となっているお寺です。御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、墓域には熊野御前とその母(侍女朝顔)の墓墳がその昔を物語っています。本堂前には熊野御前が手植えしたと云う藤の玄孫という国指定の天然記念物●熊野の長フジがあります。 本堂の傍には●熊野と母、侍女朝顔の墓が祀られています。  11:10

★池田の渡跡
 門前市通の西端は●天竜川池田の渡しで、右手に端正な秋葉山常夜燈があります。ここから天竜川を渡船で渡ります。以前東海道を歩いたとき、「今昔東海道独案内 今井金吾」により、下流の長森から渡ったつもりで新天竜川橋を中野へ渡りました。正式な東海道の渡船場は長森ではなく、この池田の渡しであるとの説が多数見受けられます。このあたりの事情はよくわかりませんが、色々変遷があったようです。 池田の渡船場は上中下と3ヵ所あり、水量によって使い分けが行われ、ここは上之渡船場という。 土手に●池田橋の跡碑があって、明治初期に●木造橋が架橋され、大人3銭、小人2銭を取る有料橋でしたという。
  少し土手を下がった所に●渡船場跡碑があります。こちらは下の渡し場です。  11:25

■池田の渡~中野町
 土手をしばらく進み、現在天竜川には新天竜川橋の上下線2本、天竜川橋の1本の3本が架かります。歩道は新天竜川橋の下流側のみで土手から進んで行くと普通には進めず、一旦手前から県道262号へ行き、「池田入口」交差点から歩道に入ることになります。 ここでは面倒なので土手から一度下り、新天竜川橋、天竜川橋下のトンネルをくぐり、天竜川橋をくぐった先で土手に上がり、天竜川橋を横断して●新天竜川橋の歩道に合流しました。天竜川橋の交通量が少なくて渡れました。河川敷側に階段を一つ作ってほしいところですね。
 橋を渡り左折して土手道を進みます。小公園に「東海道 江戸と京のどまん中」という地図がありました。 土手を下ると●明治大帝御聖蹟と刻まれた石柱があり、奥に玉座迹碑があります、明治11年の巡幸で明治天皇が休憩された場所の記念碑。
 土手を下りると●六所神社があり、舟橋跡碑、天竜川木橋跡碑があります。 明治元年の明治天皇東幸の際、舟橋が架けられ、明治7年現在の天竜川橋の前身の木橋が架けらたという。  土手から西へ真っ直ぐ延びる道が●旧東海道です。東海道歩き旅以来2度目になります。    11:50

■中野町~本坂通安間起点
 街道を軽便鉄道が走っていたりしますが、右手に●金原明善の生家があります。度々大洪水を引き起こしていた天竜川の治水事業に生涯をかけて取り組んだことで有名。
 その先、●本坂通安間起点という看板が立つ所が東海道と姫街道の追分がで安間起点と呼ばれます。その先が●安間一里塚があった所で、案内標が立つだけで何もない。  12:07

■安間起点~下石田町
 安間起点路に入って北上します。県道と国道1号を越えた先右手の●了解公園は旧名主安間家跡です。
 この先、 半増坊道標と称する道標がいくつかあるので左右を注意しながら進みましたが、ほとんど見つけられず難儀しました。●柏木橋信号交差点で県道65号を斜めに横断して県道314号に入ります。 下石田町に入った先、左手奥に再建されたという「長寿庵」があって、街道脇に大正12年建立の●秋葉常夜燈が建ちます。 この先右手から池田の渡しを渡って来る「池田道」が延びてきますが、流通団地などでほとんど消滅しています。  12:35

■下石田町~市野
 安間川を新大橋で渡って4差路を左折すると●市野宿。姫街道の宿場の一つですが、前回歩いた浜松宿から北上して、三方原追分で合流する道が正式と定められると、市野宿は衰退を余儀なくされたと云います。 本陣は斎藤家が勤めたが、建物は建て替わりその外の面影は残っていない。右手に●「五里十一丁」の半増坊道標をやっとこ一つ見つけた。
 市野町交差点を過ぎると県道が変に屈折しており、西の桝形と思います。 桝形西側に●熊野神社があります、境内には●延享3年(1746)建立の宝筐印塔。遠州最大の塔で高さ3.5m以上あるという。そして●正一位秋葉神社のノボリが立つ鞘堂。中身は秋葉常夜燈です。    13:10

■市野~遠鉄踏切
 その先街道は「八丁とうも」と呼ばれるまっすぐな道が続きます。やがて右に大きく曲がって行く。 途中の右手長福寺境内に「北堂和尚」の墓は無縫塔ではなく特異な形をしている。 寺のすぐ先左手に●小池一里塚跡があります。日本橋から65番目。小池町交差点の先で●道は二叉になり、左に進むと大養院があります。 門前には●堂々とした鯱を据えた鞘堂に納まる秋葉常夜燈があります。  この先の「江原橋」から遠鉄踏切まで旧道は消滅しています。踏切まで適当に進めばよいでしょう。   13:38

■遠鉄踏切~五枚橋
 ●遠州鉄道の踏切を越えた先に●「姫街道 旧秋葉街道」と標識の立つ道標があります。道標は標識がないと全く読めません。
 国道152号を馬込大橋北信号で横断。右にカーブして●五枚橋に近づきます。旧道の木道橋は現在の橋の50m下流というので、手前から左へ折れて行くようですが、当然ながら通れません。右端に●石仏と四里十九丁の半増坊道標があります。    13:55

■五枚橋~宇藤坂
 五枚橋を渡り左折して●旧道へ回ります。●県道261号にぶつかる所は階段になっているので、上がって県道を横切ると、正面は三方原丘陵へと上る●.宇藤坂入口です。
 坂を上がりきると●秋葉山常夜燈を納めた鞘堂があります。姫街道はこのようにむき出しの常夜燈ではなく、鞘堂に納まるものが多く見受けられます。保存の意識が高いのでしょうか。    14:05

■宇藤坂~小豆餅
 ●県道に合流する手前●最古の道標というのがあります。 天保3年(1832)の建立。「右 きが かなさし 左 庄内道」と刻まれている。浜松市内において、姫街道の最も古い道標云います。
 豊隆団地交差点を右折して、●県道の坂を上っていきます。左手は「フィルタウン」というショッピングセンターが広がり、この辺りの地名は小豆餅です。前回歩いた浜松追分から来る途中で、家康が餅代を払わず逃げたので、婆さんが追いかけて取り返したというエピソードが残る餅屋さんは左手奥に存在します。      14:10

■小豆餅~元追分
 小豆餅から街道は一直線に進み、一里塚橋交差点を越えると、左手に●追分の一里塚があります。江戸より66番目、安間より2番目の一里塚です。
 その先どんどん進むと●三方原(元追分)追分交差点です。浜松宿連尺交差点で東海道から分岐した姫街道が左手から合流して来ます。・・・・・ということで延べ4日間かかりましたが、浜松からと見附からの姫街道歩き旅は終りました。       14:35 
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      姫街道を3日間で歩くとなると
               1 見附から三方原追分へ行き連尺交差点まで戻る形で歩き 浜松泊
               2 浜松からバスで追分まで行き、三ヶ日まで歩き 三ヶ日泊
               3 三ヶ日から御油まで歩き  というプランが考えられます。

   1 浜松~西気賀