千人同心街道歩き旅 3
     (高坂駅~行田市駅)
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 高坂駅-東松山駅-将軍塚-若松1丁目-本町-上沼公園-大芦橋-吹上宿-行田市内     20.17km
 


 2015年9月22日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■高坂駅~高済寺
 武蔵野、東武線経由で高坂駅に8時前に着いた。早速、県道交差点まで来て、街道歩きを再開するのだが、その前に東側にある●高坂神社に寄っておく。この神社の歴史は古く、大同年間(806~10)坂上田村麻呂がこの地を通った時に、日本武尊がここに陣屋を置いたという故事にちなみ、その旧跡に社を建立し、八剣(やつるぎ)明神社と号したことにはじまるという。
 県道交差点まで戻って北上を始める。先は●旧高坂宿だが、昔の面影はあまり無いが、古い家並みも残り、いくらか雰囲気は感じる。左手に●立派な門を持つ家がある。    8:40     
  8 高坂宿
 戦国時代の豪族、高坂刑部太輔が高坂館を建設し、その周辺に人家が集まってできた町が 高坂宿であった。江戸時代に入ると川越・児玉往還の馬継ぎ場として整備され、さらに千人同心街道も高坂宿を通ったことから江戸時代後半から明治にかけては大変な賑わい見せた。しかし東武東上線の開通によって宿場の機能が失われていった。

 ■高済寺~東松山橋南
 次の交差点では、道路工事が行われて道が整備されている。右折して行くと●高済寺がある。江戸時代に徳川家康に従ってこの地で1万石で高坂藩を立藩した加賀爪直澄の居館跡といわれる。その加賀爪氏の菩提寺が高済寺であった。本堂裏手の高台に●加賀爪氏累代の墓がある。
 元の道に戻り先に進むと、右に入る●細い道の両側に道標が1本ずつ立っているが、ここは千人同心街道と川越・児玉往還が分かれる追分である。  ●右側の道標は嘉永年間(18488~)に建てられたもので、読みづらいのであるが、正面に「奉納経拝礼供養塔」など、●左側の道標ははっきりと、八王子道」、左側面は「左 ちちぶ ひき いわどの 道」などと刻まれている。なお左手に雑貨店があるらしかったが、壊されて空き地になっている。街道は道標に従って右に入り、都幾川に向かって下って行くのだが、民家の庭先を通るようで少し躊躇するが、河原に下りる舗装路に合流して下って行く。  8:55


 
■都幾川リバーサイドパーク
 河原敷は「都幾川リバーサイドパーク」という広大な公園になっており、旧道は斜めに通っているのだが、当然の如く消滅してしまっている。旧蹟は一つだけで、河原へ下りきった先に●石橋供養塔と細い水路に●石橋が渡してある。 この石橋は、八王子・日光道が松山方面に抜ける高坂の渡し場の手前にあった水路にかけられたもので、往時の姿のまま残されている。長さ3.7mのもの。石橋供養塔は橋の新設やかけ替えに際し、橋がいつまでも利用できることや通行人の安全を祈って造られたもの。
 旧道はパークを斜めに横切り、高坂の渡しで川を渡っていたという。最近まで木製の「高坂橋」と呼ぶ小さな橋が架けられていたとあるが、今その本橋もなくなり、新松山橋を渡るしかない。新松山橋に向かうため土手に上り、●パークの写真を一枚撮っておく。広すぎて全体の写真はとても撮れなかった。 9:08

 ■新東松山橋~将軍塚古墳
 土手を歩いて、住宅街の縁を通って●新松山橋を渡る。右側の車線の方は平成26年度に拡張されていて新しい。橋を渡り、河川敷の●田んぼの中の真っ直ぐな道を行く。この真っ直ぐな道も旧道とは思えないが、ここしか無いので北上して、県道へ向かう。前方のこんもりした小山は●将軍塚古墳という。県内有数の大きさを誇る前方後円墳で、その全長は115mという。近くだと全体がわからないので、ここから眺めておいた。  9:30

 
 ■将軍塚古墳~八幡神社
 県道を横断して、右へ曲がって行くと●将軍塚古墳碑とと説明板がある。樹木が生い茂り古墳とはわからないくらい。上に上がる石段に鳥居が立っていて、上がって行くと、前方部の上に忠魂碑がドーンと立ち、後円部の上には●利仁神社があった。古墳が台無しといえば台無し。
 古墳の隣に●無量寿寺という寺院があるが、ここは 野本基員を初代とする「野本館跡」という。野本基員は平安時代の公卿藤原基経の警護をしていた片田基親の子の基員がこのあたりに移り住んで、野本氏を名乗った。源頼朝の信頼厚かったという。
 無量寿寺を出たあとは国道407号を横断して北上して行く。左手に●八幡神社がある。「野本八幡神社の絵馬」と「上野本の獅子舞」が市指定文化財である。絵馬は明治25年の都幾川の堤防の完成を記念して奉納された物。  9:52

 
 ■八幡神社~若松1丁目交差点
 国道254号を横切り、道はいくらか上り坂となり、10分も行くと●若松町一丁目交差点で、ここは五叉路になっている。旧道は右折して県道を行くのであるが、交差点左手の空き地に●七鬼神社というのがある。七鬼神社という名前は初めて聞く名前だが、箭弓神社の末社であること以外の詳細はわからない。ヤクジン(厄神様?)さまとも呼ばれているらしい。 また交差点右手には●セメントでぐちゃぐちゃになった地蔵が立っている。  10:11

 
 ■若松1丁目交差点~東松山駅入口(旧道)
 県道を右折して進むとすぐ左手に●箭弓稲荷道への大きな赤い鳥居が見える。この神社は東武東上線を越えた先にある。
 その先の二叉で旧道は右へ入って行くわけだが、ちょうどその二叉の左手に「史跡 上田朝直建立青石塔婆」という看板が目に入り、●無住のお堂があるので入って行くと、お堂の右手に小屋が建てられ、中に●上田朝直建立の青石塔婆というのが納められている。松山城主上田朝直が元亀2年(1571)に一族や家臣の冥福を祈って建立したものという。 旧道はすぐ先の●二叉を右へ入って行く。ここは300m位で県道に合流する。  10:20

 ■東松山駅入口~本町2丁目
 合流した所に大きな●馬頭観音が立っていて、文久元年(1861)の建立。その後ろの●庚申塔は元文元年(1735)の建立である。  馬頭観音の奥に●下沼と呼ばれる池があるが、もともとあった溜池を整備して公園にしたもの。池の中の島に弁財天が祀られていることから「女沼」とも呼ばれている。  ●県道を北上して、旧松山宿を通過して行く訳だが、現在はごく普通の地方道で特に変わったところはないが、いくつか特徴的な点が見られた。10:35

 ■松山宿~上沼公園
 (上段) 宿場内には●斜交いに建てられた家があちこち見られる。韮崎や坂本など旧宿場町にはよく見られ、防衛上の理由とか、大名行列が早く見えなくなるようにしてあるという説があったりするのだが、松山では商業の盛んの地なので荷馬車が付けるのに便利という説が正しいかも。
 しばらく行った左手の●島田医院。木造の洋館が印象的。右隣の建物も旧家らしく堂々とした建物で●「有限会社プロスパ」という不動産会社。黒壁に格子窓。左側の煉瓦の蔵も印象的である。
 (下段) その先左手の●八雲神社の社殿は小さいものの、各面は全て彫刻が彫られ、なかなか素晴らしい。 正面には、花・鳥・龍・唐獅子、側面と背面には天岩戸や須佐之男命の大蛇退治などが題材として彫られている。
 この先にある●上沼は男沼と呼ばれ、その近くの松山神社と下沼(女沼)の弁天様を拝むと恋が成就するのだとか。上沼の先にある●日吉神社は文化15年(1818)の創建。「日吉町」の町名はここより始まる」と記されている。   11:05
  9 松山宿
 松山は松山城の城下町として発展した街である。江戸時代に入ると川越・児玉往還と、千人同心街道が整備され、宿場町として賑わった。松山はまた千人同心の帰りの昼食地でもあった。現在では静かな 町並みとなっている。尚、市制施行の際、愛媛県の松山市と同名となるため「松山市」が認められず、「東松山市」となったという。

■上沼公園~熊谷市境
  松山宿をはずれ、市野川を梁瀬橋で渡ると、白坂陸橋手前右手に●地蔵の座像がある。道標を兼ね、「行田海道 熊谷海道三里」と「海道」の名前が刻まれた珍しい道標である。
 白坂陸橋を潜るとゆるい下り坂になり、滑川を渡る。その先左手に覚性寺がある。藤原秀郷の由来の寺であるが、建物は新しい。東平交差点手前で右折するが、入口に馬頭観音碑と小さな地蔵が立っている。交差点から県道66号線を東へ向かう。このあたり梨の直売店が何軒も出ていて、梨の産地らしい。
 ●加藤梨直売所の先を左へ入り、数分先の突き当たりに●熊野神社がある。ここも平将門を追討するために藤原秀郷が祀ったのが始めらしい。 この先県道はゆるく上っているが、特に何もなく、単調で疲れが出てきた。それでも傍らの●馬頭観音やお地蔵に花が添えられて気分が少し休まる感じがする。 やがて●Y字の二股に出会う。ここは右の細い方に入り、熊谷市へ入った。  
 12:10

 ■熊谷市境~大芦橋
 すぐ先に●如意輪観音と地蔵が並んでいる。如意輪観音の方は安永9年(1780)のもの。 道は切り通しを下るようになってきて、●道路改修碑の脇を左に曲がって行く。  曲がってすぐに●左側に春日神社がある。道はこの先この先で右に曲がり、坂を下る。左側には「三階沼」があるようだが、見に行かなかった。突き当たって更に右に曲がると、先ほどの切り通し道にぶつかった。なぜこんなに曲がっていくのかわからない。
 切り通しを下りきると荒川の河川敷らしく、平らな土地が広がっている。旧道は北東に斜め「大福寺」の方向へ向って入るようだが、消えて確認できない。今は●大芦橋を渡って対岸へ向かう。大芦の渡しは橋の下流約200m地点あたりで(荒川水管橋の辺)、近年まで橋が架かっていたそうだ。12:55

 
 ■大芦橋~龍光寺
 大芦橋を渡り終えるあたりから、右へ曲がり●医王寺方向へ向かう。 この医王寺の創立は不明だが、山門r向かって右側に●文明の板碑残されている。医王寺の右側のジグザグ道が旧道と思われ、そこを行く。
 すぐ先に見える鳥居と祠は●日枝神社と道六神。傍らの●庚申塔は道標も兼ねており、側面に刻まれている文字は「右 松山道 左 五反田かし」。その先●龍光寺には嘉禎2年(1236)銘の板碑があるということだが、標柱だけで本体が見当たらなかった。   13:30

 ■龍光寺~吹上宿
 龍光寺のすぐ先にある●大芦氷川神社は大芦村の鎮守で、先ほどの医王寺が別当だった。 また算額が有名らしいが、本堂を覘いても何も無い。
やがて左手に「富士電機」の工場が見えてきて、吹上小学校前の●秋池家の板塀は舟板を転用した外塀なのだとか。秋池家は昔、大芦河岸の河岸問屋で数十隻の舟を有していたという。
 ●吹上小学校には昭和11年に建てられたという木造校舎見られるというが、ちょうど建て替え中で「壊し中」であった。街道はこの先のJR高崎線踏切りを渡り、狭い道を進むと、●吹上本町で僅かばかりだが、旧中山道、吹上宿と重複している。  13:55

 ■吹上宿
 県道66号が中山道で●吹上本町交差点で右に行くのが同心街道、左へ行くのが中山道と別れる。このあたりが旧吹上宿の中心で「中町」と呼ばれ、大変賑わった所であった。
 右折して同心街道を行く前に、左折して旧吹上宿の旧蹟をいくつか眺めておきたい。左へ入ると●東曜寺がある。加賀藩の行列はここで休憩するのが慣わしだったという。 東曜寺の南にある●吹上神社は元々は山王社であったが神仏分離令で日枝神社に改称した。東曜寺が別当寺であった。
  吹上本町交差点に戻る途中左手に入ると●いぼ地蔵が鎮座している。このお地蔵は 「仲町のいぼ神様」 として地元民に親しまれており、お線香の煙から出る黒い「やに」をつけると、いぼがたちまちとれると云われているとか。   14:05
  10 吹上宿
 吹上宿は中山道においては鴻巣、熊谷間の 間の宿であり、千人同心街道では正規の宿場というちょっと変わった宿場であった。 両街道が 重複する為、交通の要衝として立場、旅籠、料理屋などが軒を並べ、大変な賑わったという。

■吹上~上越新幹線
 吹上宿を外れ、千人街道へ戻る。吹上本町交差点を北上し、●佐賀橋を渡る。下を流れる川はかつての荒川本流であり、江戸時代の河川改修で本流から切り離され、現在は元荒川という。佐賀橋の100mほど上流に●新佐賀橋が架けられているが、昭和8年に架けられた鉄筋コンクリートアーチ橋であって、土木遺産に指定されている。
  北上を続け、国道17号を横断した先、左手に●本倉稲荷神社がある。ここは仏教系の稲荷である豊川稲荷から勧請されたものある。 まもなく上越新幹線架橋手前に●がんがら大橋というたまご型岩石製の親柱を持った、変わった名前の橋がある。下を流れる川は「がんがら落し」と呼ばれる農業排水路である。なぜがんがらという名前なのかはよくわからない。   14:35

■上越新幹線~城南
 上越新幹線架橋をくぐり、次ぎの信号を右折すると●真っ直ぐな道へ出る。この道はかつて「馬車鉄道が走っていたという道で、先ほどのがんがら大橋の欄干に「行田馬車鉄道の絵碑」が埋め込まれている。
 やがて右手に●新兵衛地蔵尊と大きく書かれた常夜燈が見えてきた。新兵衛地蔵尊があるのはここからはかなり離れている清善寺なのだが、1基だけ離れてポツンとあるのは不思議な感じ。 ●城南交差点で右折して忍城下、行田宿に入って行く。 
   15:00

■城南~高源寺
 元忍城外堀の沼を利用した水城公園南側を通る。公園に回ろうと思ったのだが、かなり足裏が痛み出したので歩き回るのはやめにして、先を急ぐことにした。今日のゴールは行田市駅である。
 左手にある●風格ある木造2階建ての建物は元は「穂国足袋」の商標で知られた荒井八郎商店の 足袋原料倉庫で、昭和初期に建設されたものという。現在は「行田窯」という陶芸工房に再利用されている。その先、左手奥まった●洋館風建物は先ほどの旧荒井八郎商店の建物で、昭和初期に建てられた。事務所兼住宅であったが迎賓館的な存在でもあったことから「足袋御殿」とも呼ばれていたそうだ。現在は「懐石料理・彩々亭という。
 その先交差点の突き当たりの●高源寺は忍城の家老・正木利英が建立した寺である。天正18年(1590)、秀吉方、長束正家の軍勢と戦った正木利英は戦後、武士の身分を捨てて、忍城佐間口近くに高源寺を建立して、戦死者を弔ったという。 山門を入った左側に●正木利英の墓と石碑がある。ちなみに映画「のぼうの城」で正木利英の役は佐藤浩市が演じていた。  15:20

■高源寺~行田中央
 高源寺対面にある●佐間天神社の神門の付近は忍城佐間口があった場所で、正木利英が長束正家と死闘を繰り広げた場所でもある。その先の左手に●奥貫蔵は「「ほうらい足袋」の奥貫家が大正~昭和にかけて建設したと伝えられる。
 その先の信号を左に入った所に清善寺があるが、本堂左手奥に先の新兵衛地蔵尊常夜燈にちなむ●新兵衛地蔵尊が鎮座している。昭和6年、清善寺の無縁仏を整備し、無縁塔を造立しその頂きに地蔵を安置したのが由来らしい。が、 そもそも「新兵衛」とは何なのであろうか? 次は街道から右手裏道にある●行田八幡神社。 源頼義、義家が奥州討伐の折りこの地に滞陣。戦勝を祈願して勧請したと伝えられている。
 ここで本日の行程をお終いにして、忍城を見学してから行田市駅より帰宅した。  16:20  

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