千人同心街道歩き旅 5
     (茂林寺~佐野)
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 茂林寺-新宿-館林駅入口-歴史の小径-本町1丁目-渡良瀬川-椿田城跡-東光寺-佐野市  12.07km
 


 2015年11月1日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■茂林寺駅~新宿
 同心街道の5回目。今日はゴールの佐野まで12km位しか無いので茂林寺前駅にゆっくり目の9時過ぎ到着した。早速前回終了した●茂林寺入口交差点までやって来た。
 国道122号を東北に進むと、すぐに●諏訪町交差点に来る。ここのY字路は右に曲がって先に進む。この先の●県道には青柳から新宿までの1.5km以上に渡って杉並木が続いていたということだが、道路拡幅のため昭和38年に伐採されてしまったそうだ。残念なこと !〈館林城の再建をめざす会の詳細情報)       10:10

 
■新宿~館林駅入口交差点
  東武伊勢崎線の踏切を越え、新宿1丁目の右手奥へ入った所に●遍照寺がある。  鎌倉初期に新田氏の祖、新田義重が明和村に開基したと伝えられ、江戸時代に入ると、榊原康政が館林城主となり、ここを榊原家の祈願所としている。
 ●新宿1丁目交差点を過ぎると空がスッキリと見える。何故かと思ったら、電柱と電線が無く、電線地中化が行われていた。しかしこの地中化も次の信号までの350m位までで、館林駅入口交差点から先は電柱だらけ・・・という次第
 館林駅入口交差点の手前にケヅカ書店があるが、この辺りは●館林城江戸口御門跡にあたる。また同心街道の南の出入り口でもあった。徳川家康の遺骸は元和3年(1617に、この櫓門を通って日光東照宮へ向かっている。(館林城の再建をめざす会情報)  
  ケヅカ書店の裏にある●初引稲荷神社には館林城築城にまつわる伝説が残っている。長くなるので次を参照願います〈自衛隊群馬地方本部)    10:40

★館林歴史の小径 
 ■駅前~仲町
 館林駅入口交差点を過ぎると館林宿になるのだが、館林城下を巡る旧蹟を素通りする訳にもいかないので、ちょっと距離がありそうだが寄り道をする
 交差点を左へ曲がり●館林駅に向かった。駅前に「館林歴史の小径」の案内板があるので、それに従い市内を巡ることにした。
     説明は館林市観光案内による
 最初は駅の東側にある●竜の井から。 昔は駅前一帯は善導寺の境内だったが、移転したため、現在は本堂前にあったこの井戸が残っている。案内によると・・寺で説教が行われた際、城沼に棲む竜神の妻が、姿を変えて真剣に話を聞いていたと云われ。その後迷いから救われたお礼として、寺を守るためにこの井戸に姿を消したという伝説がある。
 次は●手塚記念館。毛塚家は江戸時代末期、丸木屋(まるきや)という屋号で造り酒屋を営んでいました。昭和29年に分福酒造と改称しています(現在、工場は野辺町)。館林旧城下町に残る本格的な町屋の建物で、平成10年に国の登録有形文化財に指定されました。 酒造の向い側に●洋風建築があって、改装中で何の説明もない。調べたら歴史に関係なくレストランらしかった。これはこれで面白かった。 10:02

  ■仲町~本町1丁目
 次に向かったのは酒造の裏手にある大道寺。・・・江戸時代は同じ浄土宗の善導寺の寺務を行う役寺で、明治時代に善導寺より独立しました。境内には、国学者で元館林藩主だった●生田萬(いくたよろず)の父祖の墓や田山花袋の算術の師であった戸泉鋼作(といずみこうさく)の墓などがあります。
 大道寺の東隣には●青梅天満宮・・・・時の左大臣藤原時平の陰謀によって、菅原道真は大宰府に左遷させられたが、その際道真は「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠い、4つの梅の実を枝に刺し投げたところ、日本各地に散らばり根付いたそうです。その4箇所とは花久里梅(島根県)、飛梅(福岡県)、四季梅(香川県)、及びここ青梅(群馬県)で、それぞれに天満宮の分霊を勧請し菅原道真を祀っている。  
 県道2号を渡り、東へ向かう。左手に●外池商店がある。屋号は和泉屋(いずみや)といい、江戸時代中期、近江の国から移り込み、造り酒屋を営んでいましたが、明治33年には味噌、醤油の製造業に変わり、現在は酒の小売業を行っています。現在の店舗は、昭和4年に建てられたもの。 外池商店の所を南へ細い路地を行く。ここは肴町と呼ばれている。左手の特徴ある建物は●旧二業見番組合事務所である。 二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算、取り締まりをしたところ。現在は本町二丁目東区民会館となっている。 11:20

 ■本町1丁目~大手町
 更に南下した県道脇。●青龍の井戸・・・・江戸時代、この周辺には福寿院というお寺があり、その境内に青龍の井戸はありました。伝説では、第六代館林城主の徳川綱吉公の時代に、突然、清水が吹きあがり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになりました。・・・  外池商店の通りへ戻り、東へ進む。見えてくるのは●鷹匠町長屋門である。・・・ 旧野辺町の豪農「松澤家」が利用していた長屋門を利用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したもの。門をくぐった先はなんと駐車場であった。 門の前を東に少し進むと●鷹匠町武家屋敷武鷹館がある。江戸時代、この周辺は鷹狩用の鷹を育成する鷹匠が住んでいたことから鷹匠町と呼ばれており、この鷹匠町にある武士の住宅ということで「武鷹館」と名付けられました。。この武鷹館には●旧館林藩士住宅、長屋門、付属住宅が整備されており、このような建物は県内でも珍しく、平成11年に館林市指定重要文化財となっています。  11:30

  ■つつじが岡公園
 県道を越えた東側一帯は館林城跡。およびつつじが岡公園となっている。
 館林城は別名尾曳(おびき)城ともいう。15世紀の造営といわれるが、徳川四天王の榊原康政が石垣や天守を持つ近代的で堅固な城に造り替えた。明治に焼失したが、現在でも本丸、三の丸などの土塁の一部が残されており、三の丸には●土橋門が復元されている。土橋門を入ると井戸や塀も復元されており城の雰囲気を感じることができる。
 つつじが岡第二公園に来ると、向井千秋記念子供科学館や田山花袋記念文学館などがあり、その向いの第二資料館内にある茅葺の民家は自然主義文学を代表する作家●田山花袋の旧居で、市内城町にあった建物を解体・移築したもの。
 同じ敷地にある洋館は●旧上毛モスリン事務所で、 明治41年から43年(1910)にかけて二の丸跡に建てられたもの。
 第二公園は本丸があった場所であるが、●八幡宮はこの神社は城の守護神として八幡郭に奉られて、歴代藩主の厚い崇敬を受けてきた。11:55

              歴史の小径の地図はこちら
 ★ここまで館林歴史の小径
 本丸跡には●本丸土塁がかなりしっかりした形で残っている。土塁を上がると広々とした芝生広場となっており、●本丸跡となっている。かなり広く館林城の規模をうかがい知ることができる。・・・・・・・・以上で館林歴史の小径を大体巡り終わり、館林宿入口の館林駅入口交差点へ向かった。   行程は4km程度

■ 館林駅入口交差点~本町1丁目
 ●館林宿入口の館林駅入口交差点を過ぎると館林宿に入る。館林宿は館林城下に設置された宿場だったが、脇本陣が無く本陣が一軒だけであった。●本町2丁目交差点を渡った右側あたりが本陣があった場所といわれているが、石碑等の案内板などはない。
 本町1丁目交差点を左に350m程行った所にナマコ壁が特徴的な●龍神酒造がある。創業は南北時代にさかのぼるといわれ、尾瀬の雪どけ水が堆積して出来たという名泉を使った銘酒で有名という。    12:35
  14 館林宿
 館林城の城下町として発展した館林は千人同心街道の宿場町としても栄えた。 館林城江戸口門から城内に入り、坂下町東交差点手前の佐野口門を出るまでの1.2kmほどの区間であった。 現在の館林市街には宿場時代の面影はあまりないが、歴史の小径として整備され、風情ある建物が残っているのを見ることができる。
 ■本町1丁目~坂下町
 竜神酒造の北へ路地を過ぎて行くと、市立第一中学の南側に●館林の鎮守、長良神社がある。祭神は何度も出てくるが「藤原長良公」。館林城を築いた赤井照光が当地に勧請したと伝わっている。
 神社の東隣にある五宝寺に●不動まんだら板碑という県指定重要文化財がある。永仁五年丁酉」と年号も刻まれて(1297)、梵字で不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の五大尊種子が刻まれて、板碑に不動の梵字が刻まれているのは大変珍しいという。
 街道に戻り坂道を下った先は●坂下町東交差点。手前のドラッグストアあたりに「佐野口門跡」の石碑があったらしいが、見逃した。 交差点左手に●道標が二基ある。右側は馬頭観音道標で、左側には「右 さの とちぎ 道」と。左道標には「らいでん道」とある。  この交差点は右側を進み真っ直ぐ。    13:15

 ■坂下町~渡良瀬川渡し跡
 東武佐野線を越えると●二差路になり、ここは左側を進む。それから15分程歩くと●矢場川と渡良瀬川の土手に出た。土手を登ると広大な河川敷が広がっている。かつては「早川田(さがわだ)の渡し」があり、家康の遺骸もこの渡しを渡っている。眼前の堤防の下に●多数の「石塔群が見える。 ほとんどが馬頭観音だった。現在は渡良瀬大橋で対岸の栃木県、佐野へ向かう。 渡良瀬川が群馬、栃木の県境になる。  13:40

 ■渡良瀬川渡し跡~椿田城跡
 渡良瀬川を渡るが、かつて足尾鉱毒事件の舞台となった川で有名。川俣宿で見た川俣事件も一連の事件の一つであった。橋を渡ったら、「田中正造翁之墓入口」という看板があったので左へ土手を下りて行くと雲龍寺がある。雲龍寺は足尾鉱毒被害地のほぼ中央にある寺で、鉱毒対策事務所が置かれていた。参道手前に足尾鉱毒問題に生涯を捧げた●田中正造の墓が建っている。  大正2年庭田清四郎宅で73歳で没した田中正造の仮葬儀が雲龍時で行われ、本葬が佐野の惣宗寺で行われたが、その後、遺骨がゆかりの地に分骨され墓が造られたのであった。墓の右手に建つ●救現堂には正造がが祀られている。「救現」は正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という言葉に由良するとか。
 大橋の所へ戻り、橋の下をくぐり、土手の下●田中正造終焉の家の庭田家がある。大正2年河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎宅で病に倒れ、同家で亡くなった。   14:05

  街道は庭田家の前をぐるっと回ってから、●県道を横断していく。途中鳥居があって、県道の向こうに神社が見え、「椿田稲荷神社」らしいが見事に参道が県道に分断されてしまっている。寄ることは止めておいた。
 県道を横断すると、●才川沿いの土手道に入る。 このまま土手道を進んでも良いのだが、羽田大橋を右折して、迂回するように椿田城跡へ向かうことにした。椿田城は永禄3年(1560)福地氏によって築かれたと云われる。福地氏丹波国出身の武士だが、下野に土着したとされる。後に唐沢山城主の佐野氏に仕え、館林城、忍城、川越城方面の抑えを担う唐沢山城の出城として椿田城を築いた。慶長19年(1614)に主君の佐野氏が改易されると福地氏も帰農したという。現在も子孫の方が城跡を守っている。私有地で失礼かと思ったが、案内板も立っているので入ってみたら、見事に飼われている犬に吠えかけられた。吠えられるのを覚悟していかないといけないかな。敷地の一角にあるお堂は●椿田十一面観音福地堂。福地家守護神の十一面観音が納まる。●城跡を守るお宅は立派な冠木門を備えた屋敷であった。   14:25

 ■椿田城跡~東光寺
 城跡から旧道へ戻って、農道を進み、県道7号及び東武佐野線の踏切を越える。左手●田島駅脇の水路はきれいに流れ、鴨の夫婦がゆったりと泳いでいた。駅の先で踏切を渡り返し、秋山川土手沿いに●少しばかりの桜並木があり、春はきれいだろうと思う。桜並木をを抜けて県道270号を越え、渡陸橋を渡って行く。 右手に東光寺があるので寄っておく。東光寺は寺伝では開山を最澄とし開基を円澄とする。佐野堀田家の菩提寺であった。見事な●仁王門をくぐると、屋根が美しい薬師堂がある。本堂への●中門は堀田佐野城の大手門を移築したものという。   15:00

 ■東光寺~金山神社
  東光寺の先は二股になり、左の道が旧道で右の道は東武佐野線佐野市駅に行ける。●左の道を進むと幾分か古そうな民家が出てきて天明宿へ入ってきたかなという感じがする。
 右手に● 普門院がある。本尊は銅造地蔵菩薩半跏像で鏡延命地蔵と呼ばれる。(ホ-ムページ。その先で道は右へ少し屈折し、曲った所に宝龍寺があって、境内に●銅像 阿弥陀如来坐像が鎮座している。元禄7年(1694)天明の鋳工丸山孫右衛門の作で、佐野市指定文化財。残念ながら関東大震災の影響で首の最下部が破損し頭が傾いてしまったのだとか。
 左の路地を入った奥にあったのは●金山神社。天明における鋳物の最も栄えた江戸中期の創建。「かねがみさま」と呼ばれ鋳物師の厚い崇敬を受けてきた。   15:20

■金山神社~佐野駅
 右手の店構えが歴史を感じる建物は●和菓子店金禄本店。日曜日で店が閉まっており、ネットでも詳しい事はわからなかったが、屋根付き看板が乗っかっている。   さて 先に進むと●本町交差点に到着した。ここが日光例幣使街道との合流地点で今回のゴールになる。同心街道はここを右に曲がり、例幣使街道天明宿を進んで日光へ向かった。右へ曲がり●群馬銀行あたりが天明の本陣があったあたりになる。この先からの例幣使街道は前回通っているので参照願いたい。 このまま●佐野駅に向かい東武線で帰宅した。   おしまい       15:35

      4 行田駅~茂林寺駅  例幣使街道・佐野へ