千人同心街道歩き旅 4
          (行田~茂林寺)
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 行田市駅-忍宿-小沼橋-小見-上新郷-新郷宿-昭和橋-川俣宿-青柳-茂林寺  13.00km
 


 2015年10月4日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■行田市駅~忍宿入口
 行田市駅に9時過ぎ到着。同心街道4回目を再開したいが、前回●忍城の写真を撮っておいたので掲載しておきたい。映画「のぼうの城」でも有名になったが、戦国期、成田顕奏によって築城された「守りやすく攻めにくい」という難攻不落の 名城は、天正18年(1590)の石田三成による水攻めにも耐えて、後北条方では唯一落城しなかったという。 現在の城は当時の城ではなく、江戸時代になって築城されたもので、明治に解体されてしまったが、昭和63年に再建されたもの。
  駅前から真っ直ぐ進み、交差点を渡り反転して●駅方向を見る。右折すると忍宿に入って行く。向う側の建物は武蔵野銀行行田支店で●旧 忍貯金銀行である。昭和9年 の竣工。彫りの深い近代復興式鉄筋コンクリート造りの本格的銀行建物として国登録有形文化財となっている。  銀行の前に●高札場跡碑が建てられている。。ここが忍藩のすべての里程の起点となったとされる。    9:40
  11 忍 宿
 忍宿は忍城の城下町として発展した宿場だが、 同時に日光脇往還の宿場としても発展してきた。江戸時代中期より、下級武士の内職として足袋の生産が始まり、明治時代を迎えて有数の足袋産地に発展した。 街道沿いには明治から大正・昭和初期に造られた足袋蔵が何棟も残っており 当時の繁栄ぶりが伺える。

■忍宿入口~神社前
 現在の行田の町にはあまり宿場の雰囲気は残っていないが、忍城ゆかりの町ということを一番に打ち出しており、道ばたの●変圧器などには和風のカバーで覆ってある。このあたりが宿場風というえば宿場風。
 埼玉県信用金庫の辺りが●忍宿本陣跡で本陣を務めたのは樋口太郎三郎家。東隣に脇本陣が並んでいた。明治4年の大火で本陣と脇本陣とも全焼している。信用金庫の前に●御本陣跡と刻まれた石碑がある。  
 その先の●十万石ふくさやの本店は明治時代に呉服屋の店蔵として建造され、その後足袋蔵としても使われ、現在は十万石行田本店の店舗となっている。重厚な土蔵造りで、国の有形文化財として登録された。
 その先右手の大長寺の境内に●露座の大仏が鎮座している。元々享保年間に忍藩主阿部氏の寄進による大仏だったが、先の大戦で供出されてしまい、そのままになっていた。しかし平成8年に再建されている。身丈3.6m    9:50

 ■神社前~小沼橋
 道は●大長寺の少し手前を左に入って行く。100mほど歩くと街道際に●行田馬車鉄道発着所跡と刻まれた石碑が立つ。ここは吹上駅まで行く馬車鉄道の発着場であった。明治34年に開通して、一頭引き四輪車が一日12往復走っていたという。大正11年の秩父鉄道開通の影響や、自動車の発達によって廃止になっている。
 その先のT字路手前路地を左に入った奥に●愛宕神社がある。詳しい事は不明だが、毎年12月6日の酉の市では熊手を求める人でごった返すそうだ。境内に●行田酉之市起源碑が建てられている。
 街道に戻り丁字路を右に曲がると●忍城長野口御門跡碑がある。忍城十五門の一つで、忍城の東北の縁にあたる。船着き場があったことから人の出入りが多く大変賑わった場所であったという。    10:00

 ■小沼橋~東行田駅
 すぐ先に右手に●船着き場跡碑が忍川に面してある。 この船着き場から江戸まで水路が開かれていたことから城下町行田の玄関口として繁栄し、幕末には番所や高札場まで設けられたという。  ●忍川を渡り、先に進んでいると右手に●横田酒造がある。文化2年(1805)の創業。江戸に下った近江商人・横田庄右衛門が良い水を求めてこの地に造り酒屋を開いたのがはじまりという。造る酒は「日本橋」といって、 現代では地名を商標登録することは大変困難なことであることから、極めて貴重な商標となっているそうだ。
 街道は横田酒造の先で左に曲がり秩父鉄道の踏切を渡る。 踏切りのすぐ先の●長久寺は忍城を築いた成田顕奏が文明年間(1469~)鬼門鎮護の道場を建立して、武運長久を祈り、寺名も長久寺としたという。   10:20

 ■東行田駅~小見
 長久寺隣の●久伊豆神社。同じく成田顕奏が文明年間に鬼門の守護神として創建し、長久寺を別当とした。裏鬼門にあたる城の南西大宮口にも久伊豆神社を置いている。  境内には●15m四方の枝張りをを有する藤があり、市の天然記念物となっている。
 隣の●赤飯(しゃくじき)伊奈利大社は久伊豆神社の摂社だが、規模が摂社というにはもったいないような社殿の造りで、おまけに大社とはこれいかに・・という感じ。  この先、しばらくは●県道7号を歩く。途中ケイヨーデーツーでトイレ休憩と。  
 10:35

■小見~武蔵水路
 しばらくすると右手奥に●真観寺がある。観音堂に収められている聖観音像は藤原時代末期の典型的な美しさを持つ立像であるということで、有名らしいが当然の如く拝観できない。
   寺裏手には7世紀前半頃に築造されたという●真観寺古墳がある。全長112mの前方後円墳で明治13年の発掘調査では数多くの副葬品が出土したという。
 街道に戻るとすぐ左手に、●虚空蔵山古墳というのがある。前方部北側のみが残存するだが、推定長60m程の前方後円墳であった。6世紀後半の築造になる。
 しばらく歩くと●武蔵水路を横断する。利根川の水を荒川に導くための導水路で、行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。東京都の4割、埼玉県の8割の給水エリアの水道水を送っている。   11:15

 ■武蔵水路~上新郷
 見沼代用水を渡ったら、次の交差点を左折、右手の天満宮に寄ったりして、荒木交差点を右折する。真っ直ぐな県道7号を歩いていると●羽生市に入った。この表示のちょっと手前を●右に入る旧道がある。わずかな区間で又県道に合流した。この先の県道の歩道部分は雑草が背の高さ位まで伸び繁り、藪こぎみたいな感じで進まないといけなかった。歩行者なぞ少ないからとはいえ、草刈りすべきではないかなと思う。 左手に祥雲寺が見え、その隣に●南陽醸造がある。創業万延元年(1860)。作り上げる銘酒は「花陽浴(はなあび)」という。すぐ先の上新郷交差点で左折すると●新郷宿である。    12:15

 ■新郷宿
 宿の町並みは静かなもので、それらしい雰囲気が感じられないのだが、左手に●本陣を勤めた須永家の門が残されている。須永家は忍藩主の命で本陣を務めていた。本陣の建物は既に無くなっている。天保14四年(1842)将軍家慶の日光社参の際、水戸藩主徳川斉昭も同行して、須永家の家に休憩し、富十山を勧賞した際に筆をを取った和歌が残っているという。
 敷地に繁る巨木は●上新郷のシイノキ。羽生市の指定文化財である。このシイノキは樹齢400年と云われる。ほどなく県道59号と交差するが、このあたりが新郷宿のはずれになる。突き当たりに見えるのは●愛宕神社。交差点は枡形の様に微妙に屈折しており、真っ直ぐ走ってしまうと神社にぶつかるので、鳥居の前は石塀でふさがれてていて、鳥居はくぐれなくなっている。●本殿は愛宕塚古墳の上に鎮座している。   12:25
  12 新郷宿
 新郷宿は昔からの定で、江戸方面から館林の方へ継立てる時は行田から当村へ継がず、直ちに利根川を渡り対岸の川候宿へ送り、館林から来る時は川俣宿継がず、すぐに当宿へ継ぐという片継場だった。 千人同心もこの例にもれず、往きはここを通り過ぎ、帰りはここで宿継をした。

 ■上新郷~昭和橋
 街道は神社脇を通っていくのだが、その先に●勘兵衛松並木が続いている。寛永5年(1628)家光の日光社参の際、関東郡代の大河内金兵衛が家臣の勘兵衛に命じて植えさせたもの。 559mほどの間に150本植えたそうだ、昭和46年には17本に減り、現在では数本のみ。大半はその後植えられたものである。 中ほどに昭和3年建立の●勘兵衛松碑がある。裏面に説明が彫ってある。じっくりと眺めると読むことはできそう。
 松並木が終わった辺りに●賽神社跡と記された説明板が建てられている。ここに万延元年(1860)建立の賽神社石祠があったそうだ。川俣関所破りを犯して処刑された者の弔いの為に建てられたものである。 その先の左手に●庚申塔・如意輪観音・地蔵尊三体が鎮座するお堂がある。12:36

 ■川俣関所跡
 街道の突き当りは利根川。 利根川は渡しで渡っていたが、将軍が日光社参に使用する重要な場所なので川俣関所が設けられていた。土手に上がり、昭和橋のたもとに●川俣関所跡碑が立っている。関所は慶長年間(1596~)に設けられ、明治2年に廃止。関所のあった場所は川岸であったため今は河川改修で川底に沈んでしまった。
 橋の袂にある「みちの駅羽生」に●川俣締切跡碑が建てられている。かつての利根川はここ川俣で二手に分流し、本流は東京湾に流れていたが、文禄3年(1594)に南に流れる「会いの川」を堤防で締切り、本流を太平洋に流れるように付け替えが行われた。利根川東遷事業の始まりの記念の場所なのである。
 利根川は今は●昭和橋を歩いて対岸へわたる。下を流れているのは●利根川。この流れが江戸時代に付け替えられた流れなのであった。川幅は思ったより広い感じはしない。  この橋を渡ると武蔵国から上野国へ入り、最初の宿場が川俣宿である。   13:00

 ■川俣宿
 利根川を渡った後は、土手を右折して、●川俣宿に入り真っ直ぐ北に向かう。道幅は広いが、片方が土手でふさがれて貫通していないので、車がほとんど通ることがない。静かな宿場の感じである。
 土手を下りたすぐ左側が●本陣跡の塩谷家。 建物は無くなってしまったが、どっしりした門と白壁の塀がかつての繁栄をうかがわせる。河川改修される前はその南側にも数軒の家があったり、渡船場があったりしたという。
 宿場に入り400mくらいで右手に●公園があり、ここに川俣事件記念碑が建っている。明治33年、足尾鉱毒の被害農民数千人が足尾銅山の操業停止を求めて上京請願に向かう途中、このあたりで警官隊と衝突。負傷者、逮捕者を出した事件である。   13:35
  13 川俣宿
 川俣宿は利根川の渡船場や船着き場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川水運を利用した年貢米や材木の積み出しを行う河岸もあったことから大変賑わった宿場であった。しかし、この宿場も道路網の整備、鉄道の開通により水運が衰退し、宿場としての役目を終えた。

 ■川俣~青柳橋
 川俣宿を出た後は国道122号を斜めに横断、県道を過ぎた左手に東光寺と●長良神社がある。寺は無住のよう。この辺りは平安末期から南北朝時代までこの地で繁栄した佐貫氏の館があった場所だと云われている。  先に進むと●阿弥陀三尊板碑と書かれた標柱が立っている。ところが肝心の板碑がなく、情報では近くの家の庭先にあるようなのだが、わざわざ訪ねるのもおっくうなのでそのまま通過した。 すぐ先の矢島公民館の脇に●多数の石仏・石塔が集められている。正面の大きな庚申塔は割れ目が入り、鉄板で補強がしてある。 その先右手にも●長良神社がある。このあたり、長良神社が多い感じだが、長良神社はかつて上野国の国主としてこの地を治めた藤原長良を主祭神として祀っているので多い。・・・といわれるが上野国を治めたという記録はないそうだ。国道122号に合流して、谷田川に架かる青柳橋を渡ると●館林市に入った。    14:11

 ■青柳橋~茂林寺入口
 橋を渡ったらすぐ左斜めに入る旧道を行く。農道を進み数分先の左手奥に●龍積寺がある。ここは永享年間(1429~41)に赤井勝元によって築かれた青柳城があった所とされている。鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が戦った永享の乱では赤井氏は持氏方として戦い、後に館林城を築きそちらへ移っている。 山門左側に●麻疹地蔵と呼ばれる地蔵尊が鎮座しているが、寺の付近に館林藩の青柳処刑場があり、そこにあった地蔵が明治後期になって龍積寺に移設され、 元々は刑場にあったので首切り地蔵と呼ばれていたらしい。   県道に合流して先に進み、●茂林寺前交差点で本日の行程を終わりとしたいと考えて、右折して●東武茂林寺前駅から帰宅することにした。帰る前に分福茶釜で有名な茂林寺が近くにあるので寄ってみた。      15:10  4日目終了  

★茂林寺
 駅前を東に進むと茂林寺があって、北側には茂林寺公園や、野鳥の森などが広大に広がっている。土産物店の間を通って行くと茂林寺総門に到着する。 分福茶釜が有名なのでもっとハデな感じの寺かと思っていたが、案外と地味な感じがした。もっとも曹洞宗の禅寺なのでこんな感じなのだろうと思う。 それでも総門の先の●参道の両側にはタヌキの像がずらーと並ぶ様はさすが分福茶釜の伝説にふさわしい。タヌキのお話はこちらをどうぞ  
 正面の茅葺の山門は元禄7年(1694)の建立のもの。 寺の開山は応永33年(1426)に大林正通が当地に小庵を結んだのが始まりとされている   ●本堂も茅葺きで応仁2年の建立で享保12年(1727)に改築を行っている。本堂北側の一室には分福茶釜が安置されているが、拝観は有料らしい。山門を入った左手の●聖観音像は江戸神田鍋町の太田久右衛門が鋳造し、高瀬善兵衛が元禄3年に寄進したものという。

      3 高坂駅~行田駅   5 茂林寺駅~佐野駅