結城街道を歩く1
      
水戸駅-赤塚駅)
    歩行地図はこちら  地図
 水戸駅-本町-本城橋-二の丸-大手門-弘道館-三の丸-東照宮-雷電前-常磐神社-歴史公園-赤塚駅 13.66(7.56)km
 

  結城街道
 結城街道は水戸街道の水戸城下と日光街道の小山宿の両街道を連絡する脇街道で、途中笠間藩、下館藩、結城藩が置かれ、参勤交代や日光社参にも使われ、大変重要視された街道です。
 宿場は、赤塚、大足、笠間、羽黒、下館、結城の各地に置かれ、人や物資の往来も多く、各宿場町や城下町も繁栄しました。   現在の国道50号に沿う様に通過して行く、約72kmの道のりです。
 


 2021年12月5日    * 写真をクリックすると拡大します
■水戸駅南口~本町1丁目
 2021年最後の歩きは結城街道です。水戸と日光街道をつなぐ重要な街道でもあり、古代の郡衙が置かれたりした、由緒ある街道と思うけど、あまり知られていないのではないかと思います。ここを何回かに分けて歩いて見ます。
 ●水戸駅南口に出ました。水戸黄門三人衆の銅像は北口にあったらしく。見逃しました。 結城街道の始点はどこか,考えたところ、水戸街道の分岐点であろうと思い、●本町1丁目交差点へやって来た。 ここは水戸街道との追分であり、 角に●「旧本町目 江戸へ三十里」 と彫られた道標があります。水戸街道は右折して●ハミングロードを通過して「陸前浜街道」へ進んでいる。結城街道は直進します。10:46

 ■本町1丁目~常磐線踏切
 結城街道は直進してすぐ●水門橋に出合います。   ●水門橋から桜川を見る。 橋を渡ると● 水浜電車軌道敷跡という標柱が立っており、 昭和41年に廃線となった、「茨城交通 水浜線」という路面電車が通っていた歴史があります。 道はそのまま進むと、常磐線の線路に遮断されているので、左へ迂回し、●五本松踏切を渡ります。 踏切へ近づいたら、ちょうど一両の派手な車両がトコトコと通りかかり、写真が撮れず、「鹿島臨海鉄道」の車両でした。  11:00

 ■常磐線踏切~本城橋
 踏切を渡り、左折して●「棚町城東通り」を進みます。 道はこのまま真っ直ぐ進むのでしょうけれど、水戸城巡りもしてみようと思い、途中「三の丸2丁目」交差点を右に曲がり、水戸城跡へ回ります。 右折するとすぐ●水戸黄門神社があり、「義公誕生の地」といいます。"説明板" 。国道51号へ出て、石垣の所を左に曲がり。「水戸学の道」に入ると、"看板"が立っています。
 その先、右手に●棚町坂下門が立ちます。 "説明板 "  突き当たって、右折し、本城橋を渡って水戸城本丸跡に入ります。●橋の下は「水郡線」の線路が通ってます。 11:22

 ■本城橋~
  本城橋を渡ると、水戸城本丸跡であるけれども、水戸一高の敷地内でもあるので、入れるのは玄関前まで。 見学できるのは●薬医門だけでした。"水戸城説明板"。 この城門は旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、三間一戸の薬医門、二つの脇扉がっいている。時代は安土桃山時代末期、佐竹氏の頃。明治20頃と昭和19年の2回、所在を変えたが、昭和56年水戸第一高等学校内に移築復元された。 本城橋を戻り、●旧二ノ丸へ向かいます。 水戸城は本丸、二ノ丸、三の丸が連結した形式で、その間に二つの空堀が存在します。 本丸は水戸一髙の校地。 二ノ丸は水戸第三高校、水戸市第二中、茨城大付属小などの校地となって、大部分立ち入れません。 第二中学校の手前に「二中見晴台」の表示があるので、小さな門をくぐって先に進んでいくと、●那珂川、水府橋、水郡線架橋を一望する風景が広がります。  11:30 

    ~水戸二中(彰考館跡)
  すぐ崎先右手に●水戸城の大シイという、戦国時代から自生していたと伝わる、 樹齢約400年の2株のスダジイが樹勢を広げている。その先左手、入口を入った300m先に●水戸城二ノ丸角櫓が復元されている。 "説明板"   右手の第二中学校は●水戸彰考館跡にあたる。 "説明板"  二ノ丸部分の見学可能はここまで。 11:50

 ■水戸二中~大手門
 二ノ丸から三の丸へ進みます。 ●大手門に近づくわけだが、城内から進んでいるので出て行く感じになる。 ●大手門橋を渡ります。 橋の下は二ノ丸と三の丸を分ける空堀跡で、県道が通っている。 橋から振り返ると ●大手門の正面が見え、こちらの方がさすがに風格がある。 "水戸城と大手門の説明板"。  11:55

 ■弘道館
 大手門橋を渡ると正面は●弘道館となる。言うまでも無く、水戸藩の藩校として第9代藩主徳川斉昭により天保12年(1841)に創設された。 現在も一部分が保存され、国の特別史跡になっており、敷地も10万m2を越え、藩校としては全国一の規模でした。●玄関、●正丁(学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物)で、藩主臨席のもとで行われた文武の大試験や、諸儀式に用いられた。

 ■大手門~三の丸庁舎
   弘道館の敷地は10万m2を越えていたが、現在は三の丸小学校や三の丸庁舎などに使われている。 弘道館の裏手に回ると、●弘道館鹿島神社がある。安政4年(1857)、第九代水戸藩主・徳川斉昭が弘道館建学の精神の象徴として孔子廟と共に創建。先の大戦の空襲で焼失。本殿は昭和49年、伊勢神宮から第60回式年遷宮の際の「風日祈宮」を特別譲与された、唯一神明造りの社殿です。
 その隣に●八卦堂が建つ。建学の精神の象徴である弘道館記碑を納め、昔は弘道館の敷地の中央にあった建物です。 三の丸庁舎の方へ回って見ると、見慣れない塔が一基立っていて、これは給水塔に違いないと近づいたら、まさしく給水塔で、●水戸市水道低区配水塔というのでした。ゴシック風装飾も施された意匠が特徴的で、昭和7年建設らしいが、こういう物は昔の方が味があって、すばらしい。(国の登録文化財)ですと。 ●県の三の丸庁舎。現在の茨城県庁は平成11年に水戸市笠原町に移転し、これは移転前の旧の茨城県庁にあたる。議事堂は隣の県立図書館だそうです。 12:35

 ■三の丸庁舎~東照宮
 水戸城回りの見物を終え、旧道へ戻ります。  県立図書館から水戸駅前へ戻る途中の坂を下りた、坂下に、大銀杏が一本黄葉の葉を沢山付けて聳えます。●「水戸空襲と戦後復興の生き証人」という大銀杏です。水戸空襲で黒焦げになり枯木状態になったが、逞しい生命力で復活再生したという。"説明板"   「銀杏坂」を上がり始め、左折して「宮下銀座」という脇道を入って行くと、●水戸東照の石段下に出ます。徳川家康を主祭神とし、徳川頼房を合祀する。 ●本殿、 境内に変わった施設として●「安神車写し銅造移動式茶室」という物があった。 安神車とは 徳川斉昭が作成させた日本最古の「戦車」といわれるもの。 写真 その「安神車」に着想を得て、建築家の藤森照信が設計したアート作品です。水戸芸術館での展示後、水戸東照宮に寄進されましたという。12:55

 ■東照宮から雷神前
 ●南町1丁目に入ります。 右手、常陽銀行脇は●会沢正志斎旧宅跡ということになって、会沢正志斎銅像が立っています。脇にトラックが駐まっていて上手く撮れていない。正志斎は江戸時代後期から幕末の水戸藩士の「藤田幽谷」の弟子で、後に彰考館総裁となった。 水戸学藤田派の学者・思想家で、水戸尊攘派と鋭く対立し、藩内激派に対する鎮派の中心人物とみなされた。 
 泉町3丁目右奥に●金毘羅神社がある。元々個人が香川県より勧請したものを、昭和になって泉町が管理している。火事の多かった為「泉町」と名付けられたくらいなので、町の守り神として小さいながら、崇敬されているそうだ。
 「大工町」交差点を左折して、偕楽園の方へ向かいます。途中にあるのが●別雷皇太神神社。 つくば市の金村別雷神社、群馬県板倉の雷電神社とともに関東三雷神と呼ばれているようだ。 桜田門外の変の水戸浪士たちが成就の祈願をこめたという由緒を持つ。
 13:44

 ■雷神前から東湖神社
 その先右手へゆるい坂を上がっていく通りは●好文亭表門通り(岩間街道)といって、水戸城下から偕楽園に入園するための正式な通りです。"説明板"。 今日は梅の時期でもないので、途中で左に折れ、「御成門」から●常磐神社へ向かいました。「常磐神社」は徳川光圀・9代藩主徳川斉昭を祀る神社で、造営は明治になってから。 境内に日本一の大きさがあると言われる陣太鼓などを展示した義烈館があり、摂社として●東湖神社があります。藤田東湖を祀る。 東湖は、徳川斉昭の腹心として知られ、尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。不運なことに「安政の大地震」で母を助け、自身は圧死してしまっている。  14:15

 ■東湖神社~県立歴史館
 御成門角に戻って、県道を真っ直ぐ行くと、「歴史館入口」にぶつかります。敷地内に●旧水海道小学校。有名な「開智学校」と同じように、明治の「 擬洋風建築の校舎」で、木造建築の本体に薄い石を貼り付けたりして、石造に見えるように造られている。 同じ敷地内に●六地蔵石幢というものがあって、幢(はたほこ)は元来寺院の堂内の柱に掛けた旗の一種で、石板で作り、これを6枚で灯籠型に立て、六地蔵を彫り込んである。筑波山周辺では、中世以来、六角地蔵石幢が流行しましたという。
 他に●県立水戸農業高校旧本館。この建物は明治28年創立当時のものを再建してある。 ●県立歴史館は、茨城県の歴史についての「公共博物館」と「文書館」の機能を合わせ持つ施設として昭和49年に開館した。元々この敷地は水戸農業高校の敷地だったといいます。 14:30

 ■県立歴史館~常磐線東原跨線橋
 歴史館を出て、「偕楽園北口交差点」で旧道に戻り、先の●スポーツセンター交差点正面の細い道へ入っていきます。少し先、右手に●沼津ヶ沢不動尊がある。 天明の大飢饉の頃、那珂川岸で見つかった不動明王像を八幡神社に移し、明治に当地に安置したという。
 旧道は、しばらくして●「県道177交差点に」にぶつかり、その先は急激に下り、JR常磐線に寸断される。 左へ迂回して●崖下を覗くと、民家の脇の道に沿えば、旧道に出られるようなので、階段を降りて、沢渡川を渡って赤塚宿へと向かいました。 15:00

 ■東原跨線橋~赤塚駅
 結城街道最初の宿場、●赤塚宿。町並は極普通の真っ直ぐな道が続く。「姫子」という地名で、由緒ありそうな感じです。左手●とんがった三角形の馬頭観音 がいわくありそうに立っていました。 旧道をそのまま進み、●赤塚東踏切を越え、本日は遅くなったので●赤塚駅から常磐線で帰りました。 15:35

         2 赤塚-笠間