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結城街道 結城街道は水戸街道の水戸城下と日光街道の小山宿の両街道を連絡する脇街道で、途中笠間藩、下館藩、結城藩が置かれ、参勤交代や日光社参にも使われ、大変重要視された街道です。 宿場は、赤塚、大足、笠間、羽黒、下館、結城の各地に置かれ、人や物資の往来も多く、各宿場町や城下町も繁栄しました。 現在の国道50号に沿う様に通過して行く、約72kmの道のりです。 |
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■常磐線踏切~本城橋 踏切を渡り、左折して●「棚町城東通り」を進みます。 道はこのまま真っ直ぐ進むのでしょうけれど、水戸城巡りもしてみようと思い、途中「三の丸2丁目」交差点を右に曲がり、水戸城跡へ回ります。 右折するとすぐ●水戸黄門神社があり、「義公誕生の地」といいます。"説明板" 。国道51号へ出て、石垣の所を左に曲がり。「水戸学の道」に入ると、"看板"が立っています。 その先、右手に●棚町坂下門が立ちます。 "説明板 " 突き当たって、右折し、本城橋を渡って水戸城本丸跡に入ります。●橋の下は「水郡線」の線路が通ってます。 11:22 |
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■本城橋~ 本城橋を渡ると、水戸城本丸跡であるけれども、水戸一高の敷地内でもあるので、入れるのは玄関前まで。 見学できるのは●薬医門だけでした。"水戸城説明板"。 この城門は旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、三間一戸の薬医門、二つの脇扉がっいている。時代は安土桃山時代末期、佐竹氏の頃。明治20頃と昭和19年の2回、所在を変えたが、昭和56年水戸第一高等学校内に移築復元された。 本城橋を戻り、●旧二ノ丸へ向かいます。 水戸城は本丸、二ノ丸、三の丸が連結した形式で、その間に二つの空堀が存在します。 本丸は水戸一髙の校地。 二ノ丸は水戸第三高校、水戸市第二中、茨城大付属小などの校地となって、大部分立ち入れません。 第二中学校の手前に「二中見晴台」の表示があるので、小さな門をくぐって先に進んでいくと、●那珂川、水府橋、水郡線架橋を一望する風景が広がります。 11:30 |
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~水戸二中(彰考館跡) すぐ崎先右手に●水戸城の大シイという、戦国時代から自生していたと伝わる、 樹齢約400年の2株のスダジイが樹勢を広げている。その先左手、入口を入った300m先に●水戸城二ノ丸角櫓が復元されている。 "説明板" 右手の第二中学校は●水戸彰考館跡にあたる。 "説明板" 二ノ丸部分の見学可能はここまで。 11:50 |
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■水戸二中~大手門 二ノ丸から三の丸へ進みます。 ●大手門に近づくわけだが、城内から進んでいるので出て行く感じになる。 ●大手門橋を渡ります。 橋の下は二ノ丸と三の丸を分ける空堀跡で、県道が通っている。 橋から振り返ると ●大手門の正面が見え、こちらの方がさすがに風格がある。 "水戸城と大手門の説明板"。 11:55 |
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■弘道館 大手門橋を渡ると正面は●弘道館となる。言うまでも無く、水戸藩の藩校として第9代藩主徳川斉昭により天保12年(1841)に創設された。 現在も一部分が保存され、国の特別史跡になっており、敷地も10万m2を越え、藩校としては全国一の規模でした。●玄関、●正丁(学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物)で、藩主臨席のもとで行われた文武の大試験や、諸儀式に用いられた。 |
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■三の丸庁舎~東照宮 水戸城回りの見物を終え、旧道へ戻ります。 県立図書館から水戸駅前へ戻る途中の坂を下りた、坂下に、大銀杏が一本黄葉の葉を沢山付けて聳えます。●「水戸空襲と戦後復興の生き証人」という大銀杏です。水戸空襲で黒焦げになり枯木状態になったが、逞しい生命力で復活再生したという。"説明板" 「銀杏坂」を上がり始め、左折して「宮下銀座」という脇道を入って行くと、●水戸東照の石段下に出ます。徳川家康を主祭神とし、徳川頼房を合祀する。 ●本殿、 境内に変わった施設として●「安神車写し銅造移動式茶室」という物があった。 安神車とは 徳川斉昭が作成させた日本最古の「戦車」といわれるもの。 写真 その「安神車」に着想を得て、建築家の藤森照信が設計したアート作品です。水戸芸術館での展示後、水戸東照宮に寄進されましたという。12:55 |
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■雷神前から東湖神社 その先右手へゆるい坂を上がっていく通りは●好文亭表門通り(岩間街道)といって、水戸城下から偕楽園に入園するための正式な通りです。"説明板"。 今日は梅の時期でもないので、途中で左に折れ、「御成門」から●常磐神社へ向かいました。「常磐神社」は徳川光圀・9代藩主徳川斉昭を祀る神社で、造営は明治になってから。 境内に日本一の大きさがあると言われる陣太鼓などを展示した義烈館があり、摂社として●東湖神社があります。藤田東湖を祀る。 東湖は、徳川斉昭の腹心として知られ、尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。不運なことに「安政の大地震」で母を助け、自身は圧死してしまっている。 14:15 |
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■東原跨線橋~赤塚駅 結城街道最初の宿場、●赤塚宿。町並は極普通の真っ直ぐな道が続く。「姫子」という地名で、由緒ありそうな感じです。左手●とんがった三角形の馬頭観音 がいわくありそうに立っていました。 旧道をそのまま進み、●赤塚東踏切を越え、本日は遅くなったので●赤塚駅から常磐線で帰りました。 15:35 |
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2 赤塚-笠間 |