鎌倉街道上道を歩く 4 
    (西国分寺駅~狭山市駅まで)
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 西国分寺駅-姿見の池-上水本町-八坂交差点-東邑山駅-正福寺-八国山-元町-入曽-狭山市駅       25.60 km


2014年12月7日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■西国分寺駅~姿見の池
 9時10分●武蔵野線西国分寺駅到着。平行している府中街道に出るのだが、府中街道は中央線を越えるために緩やかに上り坂になっている。旧道は昔、中央線の辺りを切り通しで下って行っていたという。
 中央線を陸橋で渡り、すぐ先で右の路地へ階段で下る。中央線で切られた●旧道が北に続いている。右を見ると中央線で切られていることがわかる。看板が立っていて、このあたり「国分寺姿見の池緑地保全地域に指定され、武蔵野の雑木林の良好な保存がなされている貴重な自然地です」・・・という。
 この旧道を北へ行く。右側は姿見の池緑地保全地域で緑地になっている。間もなく右手に「恋ヶ窪用水」の小さな水路が流れ、緑地の中に散歩道が続いていた、そこを進んで行くと●姿見の池がある。(姿見の池とその伝承説明板) 恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、畠山重忠と遊女の「夙妻太夫(あさづまだゆう)」との悲しい恋の伝説が残っている。   9:35

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■姿見の池~熊野神社
 元の道に戻って北へ進む。左手に東福寺があって、石段の下に●「傾城の墓」と称する石塔(花が手向けてある方)がある。傍らに傾城由来碑が立っていて、姿見の池の説明板にあった、畠山重忠と遊女の「夙妻太夫(あさづまだゆう)」との悲しい恋の伝説の由来が書いてある。碑が立てられたのは昭和12年4月。この悲恋物語が恋ヶ窪の名の由来だという。但し国府が窪という地名があって、それが訛ったものと理解するのが妥当らしい。
. 少し北に向かうと右手に●熊野神社がある。境内に●聖護院道興准后の御歌の碑というものが立っている。文明18年(1486)に「廻国雑記」に詠んだ歌で
      ・・・朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪 今はた訪ふも 知記(ちぎ)りならずや・・・・
  とあり、恋ヶ窪の名前は室町時代には有名だったが、地名のみが残っていたということから、既にこの頃には荒廃していたものと思われる。  9:50 

■熊野神社~上水本町
 熊野神社を過ぎると恋ヶ窪用水の跡があり、西武国分寺線の線路に突き当たる。その為左折して踏切まで迂回し、線路の向こうに続いている旧道を行く。間もな●く府中街道に合流する。
 府中街道は江戸時代に整備された街道で、鎌倉街道に沿っていたり、所によってはそれをそのまま利用しているという南北を結ぶ重要なの幹線道路になっている。しばらく行くと●東恋ヶ窪5丁目の5差路で府中街道は左へ折れていく。ここで旧道は細道になって真っすぐに進んでいる。これも東恋ヶ窪6丁目あたりの民家の中に消えてしまっている。為にまた府中街道へ大きく迂回して上水本町交差点を右折し、250m程進んで●旭ヶ丘中通り看板のある●旭ヶ丘中通りを左へ曲がる。   10:20

■上水本町~八坂交差点
 これを五分ほど歩くと●玉川上水があり、ここに架かっている橋は「鎌倉橋」と呼ばれている。玉川上水に沿った道は格好の散歩道になっている。上水は周知の通り江戸時代に作られたが、鎌倉街道が通っていたこと記憶により橋の名前が付けられたのだろう。 橋を越えた先は真っ直ぐな道路で、左手に津田塾大学がある。町名も「津田町」である。このあたり一帯は地図を見ればわかるとおり、南北に長い長方形に区画されたいかにも新田開発された地域である訳で、道も真っ直ぐであり旧道とは思えない。 が ●鎌倉街道の標識が立っているので、そうかなとも思う。
 鷹野街道に出会うと少し左にずれてまた北へ真っ直ぐ続く。左手は果樹園である。青梅街道を越すとテニスコートに突き合たってしまう。そこで左折して「小平六小」の脇を北上するが、完全に●ブリジストンの工場で消滅してしまって先に進めない。そこでまた左へ進み、府中街道へ出て北上しなければいけない。   10:55

★八坂交差点(九道の辻) 
 この先に●八坂交差点がある。ここは昔から九道の辻と呼ばれていた。交差点の西北の野火止用水の所に●九道の辻の標柱が立って説明が書いてある。それによると・・・ここ九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間に位置し、江戸道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道がこの地に分岐していたことから九道の辻の名前が付いたもので、この付近は野火止用水が開通される前まで広漠たる原野の中にあったいわれる・・・・とある。現在、地図をよく見ても7本しかないが、芳賀氏説によるとブリジストンの工場を斜めに進んでくる旧道がここで交差すると9本になると説明してある。ちなみに八坂の地名はこの先の八坂神社にちなむ名前ではないかと思う。
 また交差点を野火止用水が流れており、老中松平伊豆守信綱が玉川上水の水を自分の領地内に分水するために作られたもの。
 新田義貞が鎌倉攻めの際、道を見失い1本のサクラを植えて目印にしたという●伝説のサクラが交番の横に植わっている。●府中街道を進む。これからの府中街道は旧道を拡張した道であり、別ルートとしてこの九道の辻から北西へ斜めに進み正福寺経由の道があるらしいが、そちらは別の機会にしたい。  11:22

■八坂交差点(九道の辻)~東村山駅前
 九道の辻から府中街道を北に向かう。少し歩くと左手に●八坂神社がある。牛頭天王社といっていた社で、有名な正福寺(この先で訪れる)のそばにある八坂神社を勧請したものという。境内はかなり大きく風格ある感じ。府中街道側に「まいまいず井戸」がかつて2個あったというが、当然の如く今はその跡はわからなくなっている。
 新青梅街道の交差点を過ぎ、西武新宿線の踏初を越えるが、その手前左手の平和塔公園の中に●境塚という塚がある。近世の中頃にかけて、入会地の境を巡って紛争が起き、境界を示すためにこのような塚がつくられたという。 頂上に平和の像と称する女神像が建っているが、そぐわない感じである。踏切を越えるとまもなく●東村山駅の駅前に出る。  11:45      

■東村山駅前~正福寺
 東村山駅前を過ぎて商工会館の所で、●左へ行くのが旧道。道端に●「鎌倉古街道」の標識が立っている。この道に入ってすぐ左へ折れて行く道に出会うのであるが、ここで少々寄り道して有名な正福寺を見に行くことにした。
 左へ折れ、踏切を渡り、「東村山駅西口」交差点を曲がり、「正福寺バス停」を右へ行くのがわかりやすい。
 ●正福寺山門をくぐると。都下唯一の国宝●千体地蔵堂が建っている。創立年代は鎌倉時代といわれ、弘安元年(1278)北条時宗が鷹狩に来てこの地で発病し、苦しむ夢枕に地蔵菩薩が現れ救ってくれたのを喜び、地蔵堂を建立したという。この地蔵堂は入母屋作り、柿葺きの屋根に鋼板ぶきの裳裾をつけ、典型的な唐様建築である。堂内には千体の名前通りの多くの地蔵尊が奉納されている。といっても見ることはできない。 境内左手に貞和の板碑というのがお堂の中に収まっている。都内最大級の板碑。前川の橋に使われて、経文橋とも呼ばれていたといういた。12:10

■正福寺~久米川町5
 先ほどの「鎌倉古街道」に戻って先に進む。ちょとっと進んで又●左手の細い道が旧道である。この先で西武新宿線に分断されて消滅してしまっている。そこでしばらく線路の東側を歩くことになる。しばらく行くと右手に少年野球場があり、そこに「鎌倉古街道」の案内看板が立っている。その先左手に●白山神社がある。元は大きな神社であつたらしいが今は境内、社殿とも小さな社である。このあたりからは西武線を越していたといわれている。 まもなく、●門構えのある大きな屋敷の所で突き当たる。立川家といって鎌倉時代から続いているという旧家という。  12:42

■久米川町5~久米川古戦場跡
 突き当たりを左折して西武線の踏切を越えてすぐ右折して北上するわけだが、ここは真っ直ぐ進むと「元弘の碑」があるので有名な●徳蔵寺がある。こ
の板碑は境内にある保存館に納められていて、時間がないので見ることはしなかった。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞側の部下3名を供養するため、建立したという碑文が刻まれているという。
 道を戻り線路の手前を左折する。この道が線路の向川からの旧道の続きで、●久米川宿があった所。江戸時代には線路の東側に当たる地区を「上宿」、西側を「下宿」と呼ばれて板いた。久米川宿は鎌倉時代からあつた宿場である。いまではそんな面影は全く残っていない。またこの付近一帯はしばしば合戦が行われた所であるので、その旧蹟を訪ねておくことにした。
  宿の途中で左に折れて、勝陣場橋を渡って西へ進むと●小公園があり、●「久米川古戦場」の標識と説明板が立っている。元弘3年(1333)5月10日新田義貞は小手指河原の合戦で鎌倉軍を破り、翌12日南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。中先代の乱や上杉禅秀の乱など度々戦場になってきた。今では小さな公園と石碑が歴史の偲ぶばかりとなっている。   13:15

■久米川古戦場跡~勢揃橋
 久米川古戦場の西側に広がる八国山に合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚があるというので上ってみた。
 古戦場跡のすぐ北に八国山の登り口がある。この●登り口の道は落ち葉がいい具合に積み重なり散策にちょうど良い。そんなにかからず上がると頂上に●●将軍塚が立っている。久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き旗をたてたといわれる。
 脇に●元弘青石塔婆所在跡という石碑がある。徳蔵寺の板碑保存館に展示されている「元弘の板碑」はここに立ててあった訳なのであった。将軍塚を下り、住宅地を抜けると所沢市へ入る。遊水池の脇を通って行くと●勢揃橋に出る。新田義貞が鎌倉攻めの時に軍をここで勢揃いさせたと伝えられる橋で、柳瀬川に架る。極々普通の橋。   13:30

■勢揃橋~元町
  勢揃橋の先で旧道にぶつかる。ここを左折すると●長久寺が右手にある。藤沢市の時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)のである。将軍塚にあった「元弘の板碑」を建てたのがこの寺の開山玖阿上人だったという。
 寺の先で西武線の為旧道は消えている。踏切を越えて「南小」に沿って旧道が復活している。ここから旧道は真っ直ぐに進み、所沢宿へ向っている。県道を斜めに横断し、もう一つ所沢駅西口通りも渡る。右手奥は所沢駅がある。●細い真っすぐな道に入って行く。NTTのビル辺りから所沢宿が始まっていたといわれる。今では宿場があったとは思えないような裏通りだった。右手に●実像院がある。正平7年(1352)建立の武蔵野観音第九番霊場である。このあたりは「所沢市元町」というが、古くは「野老沢」(ところさわ)と呼ばれていた。実蔵院の山号を「野老山」という。戦国時代の天正以後に「所沢」と呼ばれるようになったという。
 13:58

■元町~堀兼道
 実蔵院から広い道路を横断して真っ直ぐ行くと●新光寺がある。建久4年(1193源頼朝が那須野へ行く途中ここで昼食をとり、幕舎の地を寺に寄進したと伝えられる。その後戦乱で土地を取れられたが、義貞が土地を取り戻して寄進したという。
 道は又ここで消えるので、東川に沿って直角に右折、左折すると●県道6号「川越所沢」線に出る。ここから武蔵野台地に上がり、狭山市駅までほぼ真っ直ぐな道が北西に続いている。 しばらく行くと所沢中学校が左手にあり、その反対側右手に斜めに別れて行く細道がある。これが●堀兼道といわれてきた古道で、入口に鎌倉街道の案内板が立っている。堀兼道は川越市方面に向かい、水に乏しい武蔵野の苦労を伝える「堀兼井」がある。   14:15

■堀兼道~七曲井
 右手に「新所沢駅」を見ると、駅前にパルコなどの西武ショッピングセンターが立ち並び、結構な人並みが出ている。左手は団地街。淡々と真っ直ぐ続く道を進むのみ。
 西富小学校を過ぎて、●西武線の踏切を越える。このあたりになるといかにも新開発の場所らしく、長方形の畠がならんでいる。まもなく左手に入曽駅前になる。入曽の交差点にくるが左右に交わる通りが「茶つみ通」で、通って来た道は「つつじ通」という。交差点を過ぎた先、左手に●入間野神社がある。主祭神は大山祇命と木花咲耶姫命で、元国井神社と言い、御獄大権現といっていた。そのすぐ先の不老川のそばに●常泉寺の観音堂がある。    15:40

■七曲井~狭山市駅
 その境内に●「七曲井」がある。説明によると・・・飲料水を得ることが困難な武蔵野台地では、竪掘り(たてぼリ)井戸を掘る技術が発達する近世まで、漏斗状(ろうとじょう)に掘り下げて井戸を作りました。このような井戸の一つが七曲井(ななまがりのい)で、平安時代中頃に掘られたと考えられます。残された古文書から江戸時代まで使われていたことがわかっています。昭和45年に発掘調査が行われ復元されましたが、平成15年の調査で井戸内にあった石壁に崩落の危険性があることが明らかになりました。そのため平成17・18年度に崩落防止工事を実施しました。・・・・・とある。
  このようにして掘られた井戸が「まいまいずの井」であり、「七曲井」はその一つであり、「堀兼井」もその一つである。人々は井戸の水を汲むために巻き貝の様にして、回りながら水際まで下って行くわけである。
 この後狭山市駅まで特にないので真っ直ぐ進むのみ。左手の「航空自衛隊「入間基地」から日曜日か飛行機の爆音が全くしない。駅前の手前で左へ折れてガードをくぐるのだが、くぐらず真っ直ぐ駅まで行く。左手に●白山神社が旧道の姿を残しているだけである。 薄暗くもなってきたので本日はこれまでとして、●狭山市駅から帰宅した。結構きれいな駅でありました。     25kmを越す位で結構疲れました。  16:20

     3 町田駅~西国分寺駅   5 狭山市駅~武蔵嵐山駅