下妻街道を歩く 1
            (千住~吉川駅
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 北千住-荒川土手-綾瀬川-大原-中川堤通-鶴ヶ曽根-八条橋-女体神社-旧千疋村-吉川    19.8km

 下妻街道

 中川の自然堤防上に築かれた古道である。その起源は平安時代の「奥州古道」 にさかのぼるといわれ、前九年の役(1051~)、後三年の役(1083~)の際安部時頼の討伐に向かう源頼義、義家らの軍勢が通ったという。
 その後、近世に入ると、日光道中と水戸街道の中間に位置し、茨城県下妻方面への街道として大いに利用された。
 千住宿で水戸街道と日光街道とに分かれ、吉川、水海道、下妻、を経由。さらに北上して喜連川宿で奥州街道と合流する。 約150km
 但し下妻道は流山から下妻へ向かう道など地方により色々呼ばれて場合もある。

 参考図書は少ないが
 「足立区史」、「吉川市史」、「新編武蔵風土記稿」
  外に色々なhpを参照しました。

  
 1 北千住~吉川駅   吉川駅~利根川(小山の渡し)  3 利根川(小山の渡し)北水海道  4 北水海道~下妻・下  5 下館~益子   益子~喜連川

2015年12月12日
■北千住~荒川土手
 五街道を始め主な脇街道、歴史街道を歩き終わった。これからは少し地元に関係ある所を歩いて見ようと思い、手始めに下妻街道を取り上げる。その昔前九年の役、後三年の役で源義家らが奥州へ向かう際に用いた街道である。地元の越谷近辺を通るので土地勘もあり歩きやすい。ルート作りは資料が少なく、かなり難航したが、まあなんとか作り上げた。
 コースは北千住-吉川-坂東-下妻-真岡-喜連川の150km程。
 第1日目。 北千住~吉川市まで
 JR北千住駅西口を出て、千住二丁目交差点を右折して●宿場通りへ入る。日光街道の千住宿の雰囲気をかろうじて残している。 街道を行くと旧水戸街道との分岐点に出る。ここが水戸街道との追分で、角に●北へ旧日光道中、東へ旧水戸佐倉道と書いてある道標がある。但しこの道標は新しい物で、古い道標は足立郷土博物館に移された。その先で再び●分岐点があり、左へ折れるのが旧日光街道、このまま真っ直ぐ行くのが旧下妻道である。正面の植え込みの所に道標があったということなのだが、無くなっている。辺りを探したが見つからなかった。 真っ直ぐ進むと右手に「骨接ぎ」で有名な●名倉医院がある。名倉家は江戸時代から「骨接ぎの名倉」として名が知られ、整形外科の代名詞のような存在といえる。
  名倉医院の先で街道は●荒川土手に突き当たる。以前は荒川放水路といい。大正から昭和にかけて人工的に掘られた川であるので、当然明治以前には存在していない。旧道は分断され消失している。     9:40

■荒川土手~六町
 土手を左へ進み、荒川を●千住新橋で渡ることになる。 橋を渡って土手を右へ曲がり、歩道橋を下りると首都高速道路の下に出た。更に右に少し進むと旧道が復活している。街道は東武伊勢崎線五反野駅の脇で、東武線のガードをくぐる。●その先はかなり商店で賑わっているが、昭和30年代は道の半分が水路で道路は右側半分位しかない狭い道路だった。
  四家交差点を斜め右方向へ進み、環状7号線のあたりが青井5丁目。足立区立郷土博物館に移されたが、このあたりに●嘉永元年銘の庚申塔など三体があったという。 環状7号線を西加平交差点で渡り直進する。
 街道は綾瀬川にぶつかって●護岸にに沿って北上して行く。昔は土手沿いで風情があったのだろうけど、右側は高い護岸塀が続き、首都高速道が通り、風情など何もない。   10:45

■六町~桁川
 しばらく進み綾瀬川に架かる●内匠橋を渡る。 内匠という名前はその昔、甲斐武田氏没落後にその遺臣である芦川内匠(あしかわ・たくみ)という武士がこのあたりに土着し、新田開発に従事した名前に由来するらしい。
 ここを流れる●綾瀬川は元は東へ向かって流れ、中川に流下していたものを、江戸時代初期に二分させ、新たに真っ直ぐ南下させて、隅田川に流れるようにした川である。 橋を渡った先、右側に●赤稲荷神社がある。創建年代は不明。かつて屋根を赤い砥の粉で塗ったことから、「赤稲荷」と呼ばれるようになったといわれる。
 内匠橋を渡って、交差点を左へ曲がり北上すると、右手奥から●桁川が東へ延びている。現在、足立区と八潮市の境となっている垳川は、江戸時代初期まで綾瀬川の本流であったが、綾瀬川と切り離されて中川へ流された。その後中川の合流点も遮断され、河川としての機能を失って池のようになってしまったもの。水の循環がなくなって水質が悪化したので、綾瀬川の水を流すようにしてあるとか。   11:07

■桁川~大曽根
 首都高速の下、●浮塚交差点を左へ折れて行く。 八潮市へ入った。ここからは(八潮の古道)という資料が参考になる。左へ折れないで直進し、六ツ木で中川へ至り、潮止橋から三郷市、流山市を経て下妻へ至る道も下妻街道と呼んだようである。(足立区史)。古道としての下妻街道はここを左折する。
 綾瀬川に沿って行くと左手に●氷川神社がある。江戸期には浮塚村の鎮守社であったようで、明治4年村社に列格、明治42年字砂取耕地の稲荷社を合祀したという。●バス道を大きく右回りの円弧状に進んで行く。このあたりは工業地帯で、物流、建設会社などが様々建つ。あまり食堂、レストランの類が見当たらない。お昼はコンビニのおにぎりになりそうな感じ。    11:25

 ■大曽根~大原
 しばらく進むと左手奥に●大曽根八幡神社がある。古社の風格を持つ神社で、文亀2年(1502)に勧請されたが、一説には後三年役に源義光が兄源義家援軍のため、寛治元年(1087)に花俣郷から綾瀬川を渡河し大曽根の地を経て東国に赴いた頃より八幡神を奉斎されたとも伝える。
  少し行くと●境橋で葛西用水を渡る。葛西用水は万治3年(1660)江戸幕府が開発させた灌漑用水路で見沼代用水、明治用水とならぶ三大農業用水路という。
 境橋を渡ると●「大原」に入る。下妻街道の千住の次の宿場と云われている。江戸時代の大原村は19 世紀初 めの家数は55 軒位の農村で、もとは上馬場 村・中馬場村と 1 つの村を構成しており、千住・ 松戸新宿・越ケ谷・草加などの宿場へ人馬の継 立をしていたという。また明治初期まで続いた旅籠があったと伝わる。もちろん現在の●大原の町並みはごく普通の町並みであり、とても宿場だったという雰囲気はなかった。  12:02

 ■大原~中川堤通
 中馬場交差点を少し進み●亀有信用金庫とスーパーいなげやの間を進む。その先「若柳バス停」から斜め左へ進んで行く旧道は八潮市役所や住宅地で消滅してしまっている。しかたがないので「若柳バス停」を右折して、元の道を 中央1丁目交差点の方に行かなければいけない。中央1丁目交差点の回りには大きめの蕎麦店があったりする。
 二丁目交差点の左角に●土手供養碑がある。明暦元年(1655)普門院住職浄西が古利根川の土手が切れないように願をかけ浄財により建てた物。当時は中川の土手にあった。奥には普門院がある。 街道は●中川土手に突き当たり、左折して●中川に沿った「中川堤通」を中川に沿って進む。 堤通は中川によってできた自然堤防の上を通っていて、両側の住宅より少し高い所を進んでいる。   12:43

 ■中川堤通~鶴ヶ曽根
 土手を下りた左手に●二丁目氷川神社がある。当地草分けの恩田治部という人物が神主となって氷川明神を祀ったという。その後久伊豆明神を配祀、氷川久伊豆合社と称し、明治42年に字下の稲荷神社、字若柳の稲荷神社を合祀、氷川神社と改称した。
 ここの地名の二丁目は条里制遺構にちなんでいるといわれ、室町期の板碑が多数分布する中世村落でもあったという。
 鶴ケ曽根に入る。鶴ケ曽根は中川右岸の沖積地に位置し、自然堤防上に古くからの集落がある。この集落は上と下の二つの村組に分かれ、それぞれで鎮守に久伊豆神社を祀っている。 その●下の久伊豆神社が土手沿いの左手にある。天文3年(1534)に創建した宝幢寺の鎮守社として、鶴ヶ曽根上久伊豆神社の分霊を勧請して創建したといいます。
 その先の●上の久伊豆神社は、文禄3年(1594)に創建したと伝えられる。江戸期には鶴ヶ曽根村の鎮守社だったいい、明治6年には村社に列格していたという。    13:15

■鶴ヶ曽根~八潮排水機場
 中川沿いに中川堤通を進んで来ると、●県道102号線に合流した所で中川堤通は終わるようである。車道は102号を右へ進み、旧道はそのまま真っ直ぐ進む。左角に●八條村道路元標がある。進んだ道は●昔の自然堤防らしい姿を残し、人が通れるだけで旧道の様子を良く残している感じがする。 やがて●八潮排水機場に出て、旧道は綾瀬川放水路で遮断されてしまった。 旧道は排水機場を縦断しているようだが、ここは 右へ迂回し幸ノ宮橋を渡らないといけない。    13:30

■八潮排水機場~八条橋
 排水機場の敷地の北側に●庚申塔など4基立っている。左から2番目の庚申塔は道標を兼ね、左側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれている。思うに下妻街道沿いからここへ移されたものだろうと思う。
 その先に豪壮な蔵と屋敷が建っていて●市指定文化財太田家住宅という。 門の前の案内板によると、太田家住宅は下妻道と成田道と八條の渡しの交差部に位置し河川問屋などを営んでいた。建物は寄せ棟造り瓦ぶき、町家建築で、旅籠の形式も残した貴重な建築である。中川河川改修でここに移されている。
 東京自動車外環道の下を行くと左手に●大経寺がある。 等誉暁翁上人が天正14年(1586)に開山と伝えられ本尊は阿弥陀如来座像。円空上人が彫った木造千手観音立像が観音堂に安置されているといわれるが、秘仏で拝観出来ない。ネットで見ると円空らしい雰囲気を感じるが、千手観音とは珍しいと思う。    13:54

 ■八条橋~八条殿社古墳
 大経寺の先には八条橋が中川に架かっている。地図には●八條の渡し跡の表示があるので、看板でも立っているのかと橋の回りを探してみたが、何もなく、土手からは木が繁茂して川すら見えない。それでも土手の上の蘆の間に小さな●水神社の祠を見つけた。この八条の地も条理跡である。
 渡し跡を過ぎてぐっと左へ折れていくと、「和井田家住宅前」バス停があり、説明板も立っていて、●当地の名主で構え堀を巡らした中世の居館跡という。しかしそれらしい屋敷が見当たらないが、よくよく辺りを探ると道の両側に水路が残っていて、それが堀跡とすると敷地を道路が分断してしまったのだと考えられる。そして良く見えないが、奥の方に茅葺きの大きな建物が垣間見えた。母屋らしい。
 少し北上すると左手の奥にこんもりとした樹木が見え、案内板らしきものがあるので、近寄って見ると●八條殿社古墳といい、塚上に八條殿社という神社が建っていた。明治42年に廃社となっている。しかしこのあたりに古墳があるとは意外である。     14:28

 ■八条殿社古墳~女体神社
 さらに北上すると●八条八幡神社に出る。このあたりでは大きめの、由緒ありそうな神社である。宝徳元年(1449)に山城国の男山八幡宮から八幡大神を、岩槻久伊豆神社から久伊豆大神を、大宮氷川神社から氷川大神を勧請して創祀したという。現在の社殿は明治24年に建立されたもの。  ここは八潮と草加の境で、草加市に入る。500m程先に●●女体神社がある。案内によると・・・・女体神社は柿木村(草加)の鎮守である。柿木は中川沿いに下妻街道があり、草加市内にあって最も古くから開発された土地といわれ、伝承ではこの土地の開発の祖を豊田氏と伝えている。・・・
 豊田氏は平将門ゆかりの一族で茨城県結城郡石下町豊田に豊田城を構えたが、天正3年(1575)侵略にあい、城主治親と一族はここ柿木まで落ちのび、その後土着した。 豊田氏は信仰心厚く、殊に筑波山女体神社を崇拝していた。それによって分霊をこの地に勧請し創建されたのが当社であるという。敷地は広く風格が感じられる神社である。
 境内には作家●豊田三郎の文学碑が建っている。豊田三郎(1907~59)は川柳村柿木出身。本名は森村で、作家の森村桂は長女。ペンネームを豊田にするからには豊田氏をルーツに持つのだろうと思う。    14:50

 ■女体神社~東漸院
 女体神社の先を●右に河原の方へ入って行くのが旧道だが、河川改修工事で通行禁止である。ここあたりは草加八景の「音店河岸と下妻街道」という風景で、音店河岸は古利根川(中川)への落とし(排水路)を利用した河岸。明治の後半まで栄え、渡し舟なども発着していたが、河川改修による水位の低下で廃止されたという。昔を偲ばせる石組みが今も残るというが、工事川岸まで行くことができない。
 河原へ下りる所に●下妻街道の石碑がある。工事中の臨時通路で河原へ下りることができるので、250mも進むと排水路で行き止まりになった。土手上へ上がり、更に進むと左手に「東漸院」がある。開基は室町時代の1500年頃といわれ、市内最古の寺院である。山門前に万治板碑型六地蔵というのが立っている。板碑型の碑面に6体の地蔵を刻んである例は他になく貴重な資料となっている。また●山門は屋根が表裏に大きく伸びて、特異な形をしていると思ったが、普通の四脚門で、屋根だけ銅板で改修されて、あまり調和が取れていないように思える。
 街道を進むと越谷市に入った。    15:08

 ■東漸院~東5丁目(旧千疋村)
 街道をそのまま道なりに北上すると、武蔵野線を越え吉川橋を渡ることになるが、越谷市に入った先は「東5丁目」で、ここは以前は「千疋村」といい、高級果実で有名は「日本橋千疋屋」の故地であるので、少し辺りを巡ってみることにした。千疋屋は越谷の千疋の侍であった初代がこの地で育てた果物類を日本橋に開いた店まで中川を使って運んでいたというのが発祥と聞いている。
 街道をはずれた左手に●伊南里神社がある。千疋村の鎮守社で、稲荷社と称されていた。勧請年は不明であるが、早くから開けた所にあることから古社の一つと思われるという。
 神社を出た角に千疋東養寺跡の勢至堂内に●二十一仏板碑というのがあった。二十一仏とは比叡山延暦寺の鎮守神、日吉山王二十一社の本地仏のことで、このような信仰を現した板碑で、完全な形で残る貴重なものであるという。北側にある●自治会館には旧名の「千疋自治会」の看板が架けてあった。 街道に戻って北上し武蔵野線のガードをくぐり、●吉越橋の下をくぐる。    15:35

 ■東5丁目(旧千疋村)~いちょう通交差点
 土手下を真っ直ぐ進むが、吉川橋が工事中なので途中左へ迂回し●吉川橋の架設道を渡る。このあたり、「かご場の渡し」という渡し場であった所で明治8年に吉川橋が架橋されて廃止された。渡ると左側に●福寿屋がある。「かご場の渡し」際に天保8年(1837)から続く川魚・懐石料理の老舗料亭である。
 吉川橋から東へ真っ直ぐ進むと、吉川交番交差点手前左側に●延命寺がある。武蔵国新西国三十三霊場札所第一番で永仁3年(1295)に清仙が開基したと伝えられる古刹。 ・・・さて本日はJR吉川駅に近いこの辺りで止めようかと思い、バス通りの●いちょう通交差点で終了とした。案外距離があった。 23.4km    16:00

        吉川駅~利根川(小山の渡し)