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 6 幸手宿から栗橋宿へ 歩行地 図
 幸手入口-聖福寺-正福寺-権現堂堤-中川-行幸堤-栗橋宿入口  8.3km

 6 幸手宿
 日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の市名はその薩手(さって)に由来すると伝えられている。江戸時代には、日光御成道と日光道中が合流し、筑波道が分岐する地点の宿場町として賑わいました。また利根川の付 替え工事が行われ、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が隆盛を迎 え、新田開発の進展もともなって、権現堂河岸、関宿向河岸は回船問屋などが立ち並び賑わった。本陣1 旅籠27

2007年2月4日 幸手駅到着
■志手橋~中1丁目
●志手橋
(宿入口)   
 風が強く大変寒い日でした。駅から宿入口の志手橋へ戻ることにした。駅から旧道へ行く途中には一色稲荷があり、この付近は幸手を治めた古河公方足利氏家臣一色氏が館を構えた跡といわれる。駅方面から見ると、右方向から日光街道と御成街道が一緒になり宿内へ折れてくる。宿内は●古い家屋がちらほらと残る。  8:45

●神明神社
 入り口の右手。1755年(宝暦5)、伊勢神宮の分霊を祀った神社です。境内には成田、菅谷不動尊があり菅谷不動尊はた「にし不動尊」ともいわれ眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれています。高札場がここにありました。
 ●几号(きごう)水準点。説明版の後ろに台座が置いてあり、漢字の「不」の字のような記号が彫られている。几号水準点というのだそうで、明治になり高低測量(水準測量)が開始され、この測量で用いられた標石とのこと。各地に残存しているそうだが初めて見るもの。

●明治天皇行在所碑
 明治天皇は明治9年、14年の巡幸の折、29年の近衛師団の演習の際幸手に宿泊している。 案内板は木板に文字が浮き彫りされていて手の込んだもの。この場所は天皇が宿泊した馬之助町の元名主の中村家跡。
●旧旅籠の「あさよろず」旅館

 文政二年(1819年)に旅籠として創業し、現在に至るまで旅館業を営む。また館内には『宿札』が残り、板垣退助や伊藤博文などの名前が残るそうです。「怪談 牡丹灯篭」の取材旅行で三遊亭円朝も泊まっている。明治時代は木造三階建てで、現在は現代風の建物だが、裏口には昔風の門が残っている。

■中1丁目~荒宿
●問屋場跡

 公園になっており、右斜め方向に本陣があり、商店、旅籠屋、茶屋などが集まり賑わった所。人足25人、馬25頭を常時義務づけられていた。
●本陣跡   9:10
 幸手本陣の知久家跡。知久家は本陣、問屋、名主の三役を兼ね幸手で最も重要な役割を果たした家柄。明治6年知久家の書院で小学校が開設され、明治天皇が宿泊している。屋敷は1000坪あったそうです。現在は「義語屋」という割烹が建っている。

●聖福寺
 江戸時代には将軍の日光社参の折りと、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風、四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったとされています
●一里塚跡
 宿のはずれの右折していく角に一里塚の案内板がある。昔は両側にあったといわれる。今は案内板だけでなんと言うことはない空き地。正面は「正福寺」であるが、門が閉じられ、入れる雰囲気ではなく、中にあるといわれる「義賑窮餓之碑」、などを見ることができなかった。9:25

■荒宿~権現堤
●熊野権現社

 街道は北上して行くが、ここは有名な権現堂堤を歩くこととするので東方向へ行く。そのため橘守部遺蹟碑などは見られなかった。堤の途中にあるこの神社は紀州の熊野権現社の分社で、権現堂堤、権現堂川の名前の起こりになった神社です。この付近は江戸時代から大正にかけて権現堂河岸の船着場として栄えた所で船主や船頭の奉納品が多く収納されている。明治28年の権現堂堤修復絵馬は当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっている。これらは境内の●絵馬堂に飾られていた。9:50

権現堤~行幸橋
●権現堂堤

 権現堂堤は天正4年に築造されたといわれている。権現堂川は元々利根川の本流の川で、利根の「東遷事業」により川筋が変えられた。暴れ河川としても恐れられ、何度も決壊をしている。その被害は江戸にも及んでいる。大正9年、権現堂堤に3,000本のソメイヨシノが植えられた。太平洋戦争末期には薪として伐採されたため、昭和24年に改めてソメイヨシノが植樹され、現在では関東有数の桜の名所で有名になっている。今回は冬なので散歩の人が数人いただけで何にもないが、●春は写真のような感じになり、人出、車で大変な騒ぎになる

●順礼の親子の碑
 享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では、80軒の民家が流される被害が出ています。順礼の碑にある話はこのときものとされている。・・・堤の修復工事中、通りかかった順礼母子が難工事だったのを見かねて、自ら濁流に身を投じ工事を無事完成させた・・・という説と、もう一つは・・・工事は無駄だと言ったため怒った工事人夫に投げ込まれた・・・という説がある。真相はわからないが人柱となった親子を供養する碑です。堤の終わりの行幸橋の所には●「行幸堤之碑」というのがある。明治時代のはじめ、高須賀~外国府間に至る新しい堤防工事が行われ、この新堤を明治天皇が閲覧されました。これを記念して「行幸堤」の名が賜られ、記念碑が堤の上に建てられた。10:10

■行幸橋~川通神社
●行幸橋
 堤を通り行幸橋(みゆきばし)を渡って●土手下の旧道を行く。 昔は少し線路側に出羽橋-嶋川橋ともいう板橋が架かっていたそうですが、川をよく見てみると橋の杭のようなものが残っている。橋を渡って4号線と平行している旧道を行く。地名は外国府間(そとこうま)というなかなか読みにくい地名であります。4号線の所は記念碑でいう行幸堤が続いている。 

●外国府間道標
 安永4年(1775)の道標。右つくば道、左日光道とある。うしろに選挙用のポスターが張ってあり、顔写真を入れずに道標の写真をとるのは不可能で、あまり趣味がよろしくない。
●一里塚跡
 幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあり、江戸から14番目に当たる。隣は古びた祠でのぞくと弁天の絵が描いてあり、まさしく弁財天堂でありました。  9:55

●権現堂調節池(行幸湖)
   行幸堤を見ながら栗橋へ向かう道は、土手際の道とか、一里塚はこの土手際の道沿いにあったし、農家際の道とかあったりどれが旧道であるかわからなくなる。新幹線を過ぎて、4号線と合流したが、どうも違うようで新幹線の手前で合流するのが正しい。●今回の合流点はその方では有名な栗橋なんとか劇場という地点でありました。旧道はその劇場の手前を左に入って行く。行幸湖は4号線のトンネルを潜った向こう側で、太平橋の所を水辺の公園としている。  11:20

■川通神社~栗橋
●川通神社

   旧道のすぐ右側にある神社で案内板などなかったが、地図では川通神社となっている。「今昔三道中独案内」(今井金吾著)では「香取・八幡合社」とあるのがこれではないかと思う。この先会津稲荷があるというがよくわからなかった。4号線と125線との●合流点になるが、高架の下のトンネル通るのか上を通るのかわからず、上の歩道のない場所を通り、すぐ高架を降りて左折する所が●栗橋宿入口になっている。その後栗橋宿を歩いたが、風が強まり歩行が困難となってきたのでここで中止することにして、栗橋駅前にあるという静御前のお墓を訪れて、13時、東武栗橋駅から帰宅しました。風で新幹線が止まる位の強風の1日でありました。本日13km程 

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