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 13  新田宿から小金井宿へ 歩行地 図
  羽川-本陣跡-旧道-小金井宿 3.2km 

13新田宿
国道4号沿いにあり、特徴的なことは何もない。開発の年代は不詳で、初めは芋柄新田ともいわれた。宿駅になってから新田宿と呼ぶ。昔は左手の方日光山、赤城山、大平山など眺望が良いといわれていたが、現在は望むべくもない。 
本陣1 脇本陣1 旅籠11

2007年7月16日小山宿の続き11:10
■羽川~公民館前
●新田本陣跡

 国道から離れて静かな林の脇を通ってきたが、国道とぶつかり新田の宿に入る。小山市羽川という地区。宿らしいのが唯一左手の古い門の所が本陣跡の青木家。昔の建物はこの門だけ残っている。あとは国道をひたすら歩く。特に宿らしいことはないので、こういう場所は急ぎ足で距離を稼いで置くことにする。

●羽川薬師堂
 ふと左を見ると、ちょっとしたお堂があるので近寄って見る。江戸中期、ここ羽川にはこの先小金井宿にある、慈眼寺の末寺玉性院があり、慈眼寺から権大僧都覧清師を招き、中興第一世とした。師は宿内の安寧と安楽を願い御堂を建立し、薬師如来を奉祀した。昭和60値に修復されている。小さいお堂であるがそれなりの由来がある。堂前には●雨引観音と十九夜像の石像が安置されている

■公民館前~小金井
●消えている旧道

 薬師堂の先から、国道はわずかに右へ曲がり、宿はここで終わる。
旧道は斜め左に入ることになっているが、会社(銅市金属工業)があって消えている。国道脇には石仏や石碑が保存されていた。会社の先を左折して●右を見ると小さな道がある。この小道が本来の日光街道らしい。小道を行こうとしたが、行き止まりの標識が出ているのでしかたなく国道へ戻り先に進む。どこかで旧道にもどれないか時々左折して様子を見るけれども、県営住宅あたりでは排水路しかなく全く消滅している。宇都宮国道事務所裏辺りからは、●道があったので旧道と思いそこを通って行ってみた。12:00

14小金井宿
 小金井の一里塚辺りから国道4号とと合流し、旧小金井宿の町並みになる。ここは古くから開けた地で、古墳がこの周辺に多く見られることから、下野国の中心地として栄えたことがうかがわれる。奈良時代には下野国の国分寺がこの地に置かれ、現在の町名の由来ともなっている。小金井宿は元和年中(1615~)から西方の金井村から移転し始め、延宝九年(1681)より宿駅の数に入ったという。
 本陣1 脇本陣1 旅籠43
     小金井一里塚-慈眼寺-自治医大-下野薬師寺跡-国道4号-石橋
 13.4 km

■小金井~医大前
●小金井一里塚
 12:00
 川中子を過ぎ、小金井に入る。道は突き当たり、正面には小金井一里塚が見える。しかし真っ直ぐ進むことはできないので国道へ回らないといけない。塚を改修するらしく重機が入り、残念ながら、中には入れなかった。江戸から数えて22番目の一里塚で、国の史跡に指定されている。対で残っていて、間の道が昔の街道幅といわれている。ここでお昼は隣のマックでハンバ-ガーを何年かぶりで食べることにした。

●慈眼寺 12:30
 宿の中程、左にはいると入り口に門番よろしく布袋の石像が鎮座している。建久七年(1196)新田義兼の開基になる古刹。将軍の日光社参の時に休憩所として利用された寺の一つ。
●観音堂
 観音堂は江戸時代の建物で、堂内には弘法大師作といわれる千手観音菩薩・延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。
●本堂
 昭和五十二年再建の入母屋鉄筋コンクリート造り瓦葺のもの。明治初年の火災で観音堂・鐘楼堂を残し堂宇はすべて焼失している。

●金井神社
 隣には注連縄の掛かる鳥居が珍しい、金井神社が鎮座する。 祭神は国土開拓の祖神である磐裂命、根裂命。金井村字余又の地にあったが、宝暦4年(1754年)に現在地に遷座し、小金井宿の鎮守として発展した。社名の金井には、黄金の湧き出づる井戸の意がある。

●本陣跡
 この門は小金井宿本陣跡の大越家の門であるが、案内等は無い。 中には古い家も残っているそうです。
●旧商屋
 本陣跡の対面の建物は旧呉服屋の蔵造り店舗だそうですが、現在も営業中だかわからない。ひっそりとしていた。

●蓮行寺
 徳川将軍が日光参詣の際には宇都宮城の城主が当蓮行寺で出迎えを行ったのだとか。
●畑の中の旧道 13:00
 街道はその先で左斜めに入っていくのだが消滅している。パチンコ店の先を左折して、すぐ右折して畑の中を通っている道が旧道と思わる。ここを通って石橋宿へ行くのだけど、重要な史跡があるので右折することにした。弓削道鏡が左遷されたという下野薬師寺跡が、東北線の東方2kmの所にあります。

■医大前~薬師寺
●自治医大駅
 右折してJR自治医大駅構内を越えていく。医大のために作られた駅でしょうが、住宅地などができ発展途上という感じ。
●龍興寺(下野薬師寺別院)
  駅から2km程歩くと龍興寺がある。日本三戒壇を開いた鑑真(688~763)は、天平宝字5(761)年唐の楊州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺と名づける
 元亀元(1570)年に北条氏政の兵火に遭い、焼失する。現本堂は、安政7年(1860)再建されたもの。

●鑑真供養塔
 鑑真は日本律宗の開祖で、天平勝宝6年(754)に来朝。日本三戒壇(東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)を建立し日本仏教の為に大きな貢献をした。墓地内には鑑真の弟子たちが師の遺徳を偲び建立したといわれている供養塔がある。右碑の中央には「鑑真大和尚」、刻まれている。石碑の傍の菩提樹は鑑真がついていた杖が根を生やし大きくなったと言いつたえられている。
●弓削道鏡墓
 境内には道鏡墓所と呼ばれる塚があります。弓削道鏡は、孝謙天皇(称徳天皇)の信任が厚く僧侶としては始めて太政大臣禅師になったが、天皇の崩御後左遷され、宝亀元(770)年下野薬師寺別当職として着任した。宝亀3年(772)年4月7日この地で歿する。道鏡については虚説おりまぜて色々流布しているが、サンスクリット語にも通じた名僧と考えられ、歴史的に再評価がされてしかるべきと思う。

■薬師寺~祇園原
●安国寺

 龍興寺から北方の、下野薬師寺は、日本三大受戒寺の一つで、東国の僧侶はここで受戒を受けなければ正式の僧とは認められなかった。その後足利尊氏が、戦死者を弔うために、全国に安国寺の建立を発願し、そのとき、下野薬師寺が、安国寺と改称されたといわれています。しかし元亀元年(1570)北条氏の兵火により焼失。現在は真言宗の寺になっている。(本堂は明治38年の再建になる)
●六角堂
 かっての薬師寺戒壇跡といわれている場所に建っている。江戸時代は釈迦堂と呼ばれ、部分的に江戸後期の様式をとどめている。建物、屋根、柱、礎石までが正六角形造りで大変珍しい。内部中央に鑑真和上の画像を納めた厨子が安置され、不動明王や韋駄天などが祀られている。
●下野薬師寺講堂跡
 薬師寺全体の配置は南門、中門、塔、講堂が一直線に並ぶ一塔三堂形式という。寺域は東西約250m、南北約330mにも及ぶそうだ。回廊の一部が復元されている

■祇園原~石橋駅
●丸大食品の慈母観音
 16:00
 自治医大駅から延々5km位の寄り道をして、先ほどの畑の中の旧道にもどり北方へ進む。旧道はまた林や工場に寸断されているので、国道を進むが、工場団地の一角が丸大食品の工場でその正門脇に真っ黒な観音像が建っている。高さ(台座込み):約10m位だそうだ。由来などは丸大のHPにもなく、よくわからなかった。
●JR石橋駅 
 
石橋町はグリム童話の町を宣言しているのだそうで、駅には童話らしいシンボルが立つ。今回は雀の宮までと思っていたけれども、時間が中途半端なので次回に回すこととした。街道歩きというには遠い薬師寺跡へ回ったので大分距離が伸びました。 公式的には小金井、石橋間は1里半、6km程度

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