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  7 栗橋橋から中田宿へ 歩行地 図
  栗橋駅-顕正寺-八坂神社-利根川橋-中田-茶屋新田-古河  7.2km

7 栗橋宿
 利根川の渡し場として賑わい、関東平野北辺に対する警備上の地として関所が設けられた重要な地であった。慶長年間(1596~)池田鴨之助、並木五郎平らの願いで新しい宿を開き始め、利根川の対岸を元栗橋といい、こちらを新栗橋という。元和2年(1616)栗橋宿となる。義経の愛妾静御前の終焉の地ともいわれ墓もある。
 本陣1 脇本陣1 旅籠25

2007.4.29栗橋駅8時24分到着
■栗橋駅~東5丁目。宿入口 
旧道へ向かうが、宿の半分と、駅前の静御前の墓は前回撮ってあるので、それを使う。
●静御前墓
   栗橋駅前にある。静御前は磯の禅師の娘として仁安3年(1168)に生まれ、白拍子といわれる舞姫に成長した。干ばつが続いた年、後鳥羽上皇から舞を命ぜられ見事雨を降らしたという。そのとき送られた蛙螟龍の舞衣は中田宿の光了寺に納められているという。義経の寵愛を受けた御前が平泉に行く途中、義経討死の報を聞きこの地で死去したと伝えられる。ここの墓石は後享和3年(1803)関東郡代中川飛騨の守が建立したもの。

■宿入口~利根川橋
●焙烙地蔵

 宿は国道4号線から内側に入り枡形を右に曲がっている。右手に焙烙地蔵を祀ったお堂がある。もとは国道脇の常薫寺にあり関所破りで処刑された人を哀れんで作られたものという。処刑場もここにあったらしい。●焙烙というのは薄赤の低温で焼かれた土器の日用雑器のことで、お堂の中に名前を書いて奉納しているのが見られる。

●顕正寺
 栗橋宿を整備した池田鴨之助の墓がある、鴨之助は本陣役を務め、このまま幕末まで続いた。子孫は明治に入っても、戸長や町長をつとめている。
●深広寺・六角名号塔
 顕正寺の右斜め前方にある寺で、境内には石造六角名号塔というのが並んでいる。高さ360cm幅50cmの六角の石柱で「南無阿弥陀仏」が刻まれている。2代の単信上人が伊豆大島から大石を持ち帰って建立したもの。 

●昭和22年台風の爪痕
 昭和22年の"カスリーン台風"で利根川が決壊したときの浸水線(電柱の赤線)。高さ2mくらい。この台風で荒川も決壊し大変な被害を出した。熊谷の土手上に決壊の碑がある。
●栗橋関所跡碑
栗橋の関所は、東海道の箱根、中山道の碓井と並ぶ江戸の重要な関所であった。川には橋はなく、渡し船が使われ、房川(利根川のこと)の渡船場といわれていた。関所は堤防の内側にあった。特に出女を厳しく取り締まったが、平地のこともあり、2,3里遠回りすればいくらでも抜け道はあったらしい。

●本陣跡
 関所の碑あたりに本陣、脇本陣などがあったようであるが、今は普通の家になっている。いくらかはそれらしい雰囲気はある。
●八坂神社
 道の突き当たりは八坂神社。慶長年間より鎮守として祀られ、夏祭りの御神輿で有名らしい。右手に御輿庫もあった。狛犬のある場所に鯉の彫刻が置かれていて狛鯉というべきなのがおもしろい。水害除けの気持ちが込められているのがよくわかる。   9:10

■利根川橋~中田
●利根川橋

 利根川橋を渡る。渡船場は橋の北方50m位の所にあった。将軍が日光参詣の時は船橋が架けられた。船橋の模型は古河歴史博物館にある。利根川に51艘の船を浮かべ鎖で横に繋ぎ、その上に二寸板と菰を敷き土砂を敷いた。動員された人員は10万を越え、参詣が終われば元に戻したのであるから、壮大な無駄使いというべきであったし、負担を被り近隣住民にとっては迷惑この上ないことであった。橋は上りが架け替え工事中で橋の右奥河原が元中田宿があった場所。

 8 中田宿
 栗橋と合宿で半月ごとに継立てを行っていた。明治末からの利根川改修工事により宿並が北に移動して、元の宿は橋の下の西側の河原にあった。宿は堤防下から約530mほど続き、本陣、問屋、旅籠、茶店などが軒を並べていたが、殆どは農家と兼業であったという。
本陣1 脇本陣1 旅籠6

■中田~JR東北線踏切
●元中田宿跡
 
 ここは栗橋から見て左側、下り線の橋下の河原です。中心は上り線側らしいが、工事中で写真は難しく、左でも元宿には違いないと考え撮っておく。街道は橋を渡ってすぐ左折し、堤防を降りていく。道はまっすぐ通っている。本陣とか旅籠などは移転後の町並みなので残っていない。

●鶴峯八幡
 源頼朝が相模国鶴岡八幡宮の分霊を勧請したもので、新田義貞が北条時高追討の際戦勝祈願したという。明治の改修により現在の地に移転。永代太々神楽という古河市無形文化財を伝える。神楽殿を備えたきれいな社でした。
●光了寺
 光了寺は利根川の改修で移される前は栗橋にあり、高柳寺と号して、静御前が帰依した寺としても有名。寺宝として静御前が蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣などがあるがもちろん見せてもらえない。赤松宗旦「利根川図志」に絵柄が載っている。9:40

■JR東北線踏切~古河
●踏切

 JR東北本線の踏切。宿の終わり地点になる。
●茶屋新田
 古河市茶屋新田。将軍徳川秀忠が日光参詣の折ここに仮設の茶屋を設けたのが、そもそもの茶屋の地名の由来という
。両側に植えたばかりのような並木を見る。かっては巨松が連なっていたというが、戦時中松根油のため引き抜かれてしまった。巨松といわれるにはあと何年必要だろうか。  10:05

●鮭延寺
 街道から少々離れるが、国道4号線脇にある寺で、由来が珍しい。鮭延秀綱をいう人を弔うために建てられた寺で、秀綱は山形の最上氏の重臣で15000石取であったが、主家が亡び、乞食をしても家来を養おうとし、古河藩主土井利勝が5000石与えたところすべて家来に分け与え、自分は家来の元で1年ごとに養われた。死んで後家来が大いに悲しみ寺を建てたのが由来という。
●熊沢蕃山墓
 岡山藩に仕え、藩政改革に功があった。陽明学を修め国政改革の進言を出したが、藩を批判し追放に会い、73歳で古河で没しここに葬られる。  10:45

●一里塚
 旧道に戻り、東北線に沿って北上する。やがて古河第二高校が見えてくる。その南側の校庭隅に一里塚跡がある。標識も立っている。道よりだいぶ高くフェンスもあり見えにくい。カメラを上げて勘で撮っておく。部活の生徒もおり校門は開いていたが、最近は学校内には迂闊に入れないので通り過ぎことにした。この先数百mで右へ折れ古河宿へ入っていく。
11:15

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