奥 州 街 道
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2 宇都宮宿からへ白沢宿へ 歩行地図 |
白沢-九郷半橋-鬼怒川土手-阿久津大橋-上阿久津-勝山公園-氏家 6.9㎞ |
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2 白沢宿
慶長年間の上杉氏討伐の際、家康は鬼怒川の対岸の氏家に兵を進めさせた。この時、鬼怒川を渡河する際の道案内を当地の庄屋であった宇加地家と福田家であった。この時の功により両家に白沢に宿駅を開設することが認められ、白沢宿が発足した。その後宇加地家が本陣を、福田家が脇本陣を幕末まで務めることとなった。 当地は、鬼怒川でとれる鮎と、牛蒡が名物であり、宿手前の稚児坂には、牛蒡汁を出す茶屋がありその味が良いことで有名であったという。 本陣1 脇本陣1 旅籠13
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2010年4月11日 宇都宮宿からの続き
■白沢宿~白沢小入口
●白沢宿の町並
県道を左折すると、旧白沢宿の町並が続いている。現在では宿場であった時に建物はほとんどなくなっているが、道の両側には用水がながれ、水車が回り、各家には、宿場であった頃の屋号が表示されている。またガードレールなどもなく、すっきりとした町並みつくりがされている。左手の●「住吉屋」は、連子格子の残るいかにも元旅籠らしいという風情がある。 14:02 |
●本陣「宇加地家」
白沢に入ってすぐ先の左手にある。白沢宿の成立に関わる古い家柄で、幕末まで本陣を勤めた。郵便局長も勤めていたとかで、塀際に旧型のポストが立っている。
そして奥には江戸末期の●本陣建物が見える。屋根は新しい物だそうだけど、江戸時代の建物が残る。明治元年の百姓一揆で傷つけられた柱や秋田藩や大田原藩、盛岡藩などの関札も残るという |
■白沢小入口~鬼怒川土手
宿場は短く、350m程で宿の終りの「鍵の手」に達してしまう。突き当たりに●酒蔵、井上清吉商店、「澤姫」という地酒を造っている。
右折してすぐに渡る橋を「九郷半橋」という。 左手に●「白澤の一里塚」碑が立つ。白沢宿の会が立てたもので、元々の一里塚は鬼怒川の河原にあったようで、この場所ではないということらしい。 14:15 |
■ 鬼怒川土手~阿久津大橋
道はやがて鬼怒川の堤防に突き当たるので、土手に沿って左に曲がる。ここは●鬼怒川の土手を歩いておく。この近くに「三本杉跡」といわれる一里塚跡があったらしいがよくわからなかった。 右側は鬼怒川が流れ、左側遠方には、ひときわもっこりした山が見えるが、残念ながら名前はわからず。
川へ下りて行く道を行くと、案内板が立っていて、●「鬼怒川渡し場跡」とあった。昔はここから対岸へ渡船で渡っていた。
14:35 |
■阿久津大橋~上阿久津
現在では渡船はないので、上流の●阿久津大橋を渡って行く。ここが歩道がなく、怖い気もするが、あまり車の量は多くなかった。
●現在の鬼怒川はどこも同様だけど、上流のダムで水を取られ、流れは真ん中少しだけ、昔は暴れ川で度々洪水に悩まされたようだ。 14:45 |
鬼怒川のこちら側は「さくら市」になる。昔「阿久津河岸」があった。慶長以来奥州各地からの廻米を江戸へ運ぶ基地として明治中頃まで300年ほど賑わいが続いた。しかし鉄道の発展と共に衰退し現在に至っている。
橋を渡って、そのまま突き当りまで行って、●「与作稲荷神社」へ寄った。河岸が賑わっていた頃、門前に稲荷町が出来、参詣者の遊興の場となっていたという。 神社の左手の旧東円寺の墓地の中に正徳5年(1715)建立の大きな●上阿久津の宝篋印塔というのが建っている。 14:55 |
■上阿久津~ベイシア入口
元の道に戻って今度は昔の河岸の守護神だったという「船玉神社」を探したが、左折する入口がわからず、少し行ったり来たりした。結局入口は橋を下りたすぐの土手に近い所だった。
少し先に●「船玉神社」がある。 「船玉神社」は船の御霊を祀った社でその境内は舟形をしていて舳先の場所に社殿がある。社殿内にある本殿は極彩色の社で当時の阿久津河岸の繁盛ぶりがうかがえる。
旧道に戻り、北上していくと右手に●「将軍地蔵」とも「そうめん地蔵」とも呼ばれる地蔵堂がある。源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇のため進めなかったのが宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させた。また日光山の修験僧と堂守の僧の間に確執ができ、修験僧に「そうめん責め」にあった、その時再び地蔵菩薩が現れ、僧に代わり「そうめん」を全部食べて僧を救ったとかで、 日光の「強飯式」の元になった話という。 15:35 |
■ベイシア入口~国道4号
そうめん地蔵からは右斜めに入って行くが、工場などで道が無くなっているので、この先の左側に●「さくら市ミュ-ジアム」の入口、右手にベイシアへの入口の所を右折するしかない。。
その前に左折して城址公園に行った。左手に「ミュージアム」があるが、時間の関係で通過して、勝山城跡だけ見ておいた。空堀があり橋を渡って進むと●本丸跡があった。勝山城は建久年間(1190~)に氏家氏により築城され、後に宇都宮氏の一族の芳賀氏が城主になり、慶長2年(1597)に宇都宮氏と命運をともにして廃城となった。
15:50 |
■国道4号~氏家宿入口
元に戻って、「スーパ-ベイシア」の駐車場に沿って歩くと、●国道4号線にぶつかる。街道は向う側に真っ直ぐ続いている。ここの交差点は信号もなく、横断するには恐ろしいと思ったが、日曜日だったので、そんなに交通量が多くなく、走って渡れた。
少し行った左手に●「お伊勢の森」というのがある。かっては広大な森だったらしい。伊勢神宮を勧請したもので「天照皇大神宮」の大きな石碑が建っている。 16:04 |
先に進むとJRの踏切りがあり、電車が通過していった。 なお直進し、●T字路に付きあたったら左折するが、この右角に●奥州街道道標や馬頭観世音像が建っている。道標には「右 江戸海道」「左 水戸・かさま・下だて・下づま」と記されている。これは氏家から見た方向で、江戸には右に曲ることになる。 さてここを左折すると氏家宿に入ることになるが、16時半の電車に乗るため、駅まで急いだので、あたりの写真を撮らずじまい。次回はこのあたりから始めたい。
16:16 |
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