奥 州 街 道








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  7 鍋掛から越堀・芦野宿へ   歩行地図
 鍋掛十文字-越堀-杉渡土-富士見峠-寺子-黒川-芦野    9.3km

7 鍋掛宿
 宿の名前の由来は那珂川の増水で川留めとなった旅人たちが泊まりきれず、住民が総出で鍋・釜を出して炊き出しをしたためという説がある。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領であった。   本陣1 脇本陣1 旅籠23 
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2010年9月30日
 大田原宿からの続き   
■鍋掛十文字~越堀
 
鍋掛け十文字から鍋掛宿へ入る。宿の名残は特に残っていないが、宿内ガードレールの代りに●石碑風の石が並んでいる。旧宿場の雰囲気を残そうとしている訳だろうか。町はただひっそりとしているだけ。
 すぐ左手に ●清川地蔵が鎮座している。 延宝7年(1679)建立という石仏地蔵で、4月24日の祭礼には集落の全女性が集まり念仏を唱えるのだとか。    12:50

 左手に●芭蕉句碑がある。加茂神社の境内にあり、 「野をよこに馬ひきむけよほととぎす はせを」と彫られている。文化5年(1808)10月に、鍋掛宿の俳人達によって建てられた。鍋掛の南約2kmに当たる黒羽町寒井の辺りで、送られた馬の「口付のおのこ」に乞われて書いたといわれている。
 左手●正観寺があり、樹齢250年のしだれ桜がある。門前には蔵造りを模した「鍋掛宿消防小屋」があり、古い雰囲気を出している。ここに本陣跡菊地助之丞の家があったというが残っていない。

 右へ入る道があり旧街道はこちらへ入って行くのだけど、元の道に戻ってしまう。そして左の方へ折れ、現在の「昭明橋」の下をくぐり、右側へ進み、川を渡るようになっていた。今はもう道は消えているので、「昭明橋」を渡らないといけなくなっている。
 橋の手前に左に入る道がある。入って行くと、右手に大きな●馬頭観世音碑があり、多くの道祖神も並ぶ。橋の下をくぐれそうな、旧道らしき●道の入口にはチェーンがしてあり、通行止になっていた。    13:05

「昭和の新しい時代を明るく」という願いを込めて住民が命名したという●「昭明橋」を渡る
 ●那珂川を渡ると、すぐ左に曲がり、越堀(こえぼり)宿となる。江戸時代初期、那珂川は徒歩渡りで水が多いときだけ船渡しであった。江戸時代後期になると、舟橋や土橋も利用された。 右に曲がる道は、「関街道」と呼ばれ、蓑沢から栃木・福島県境の追分を経て「白川の関」跡に通じている。  

8 越堀宿(こえぼり
 奥州方面から江戸を目指す旅人が川留になった時のなどのために設けられた宿場で、他の宿場より遅く正保33年(1646)の開設。寛永12年(1635)、仙台の伊達藩が参勤交代で江戸に向かう途中、那珂川の増水でなかなか渡れず、この越堀に小屋を設けて水の引くのを待ったことが、宿場成立のきっかけになったといわれる。 明治に大火に遭い、宿の面影はほとんど残っていない。
   本陣1 脇本陣1 旅籠11

■越堀~杉渡土
 那珂川を渡るとすぐ●越堀宿が始る。鍋掛宿との距離は900m程度しかない。ちょうど東海道の大井川を挟んだ島田宿と金谷宿との関係と同じだが、だいぶスケールが違う。
 右手に浄泉寺がある。境内右手に●黒羽領境界石がある。表に「従是川中東黒羽領」。とあり天領の鍋掛に対し、川からこちらが黒羽藩領で有ることを示す。黒羽藩主が大坂で造らせたものでもとは川べりにあったものを移転した。ほかに明治天皇御膳水の碑や井戸も残る。  13:15

 右手の民家の庭先に昭和13年建立の●「征馬之碑」と、昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」と刻まれている、大きな石碑が建っている。共に戦争に従軍して死んだりした馬の供養塔であろうか。 さて宿も終りになって、見るからに●道が枡形になっている。「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と彫られた石碑も右手に立っている。

■杉渡土~寺子
 枡形のすぐ右手に●坂本屋の屋号が立っている大きな家がある。往時の旅籠の屋号かどうか案内がないが、旅籠だったのだろう。
 越堀宿を出ると、道は上り坂。山道に入るが、左手高台に●「市指定史跡 高久靄崖の墓」(たかく あいがい)という白い標識がある。江戸後期の文人画家でこの地、杉渡戸の生れ。ただ墓の入口がわからず、下から眺めるだけだった。  13:26

 やがて道は●富士見峠を越える。昔は富士山が見えたらしいが、今は、舗装された山の中で、左右の樹木で全く富士山など見えない。もっとも雨で視界が悪いこともあるけど、晴天でも樹木に遮られて見えそうではない。
 峠を下ると「寺子」という地区に入る。寺子は、越堀と芦野の間の宿だった。
右手に「寺子一里塚公園」というのがある。公園の中に●一里塚が移設復元されている。ここには、安永4年(1775)に建立された馬頭観世音碑もある。富士見峠頂上付近にあったものを移設したという。

■寺子~黒川
 左手に●会三寺(えさんじ)がある。ここの地蔵堂には 第14代法印旺盛が、当時はしかが流行して幼児の死が多かったのを憐れみ、十余年にわたって111体も彫り上げた地蔵が納められているという。
 ●余笹川を渡って行く。余笹川は平成10年8月に大水害を起し、死者6名もの被害を出したという。今はすっかり改修も終わり、余笹川見晴らし公園として整備されている。奥州街道そのものは橋の手前で左に折れて進んでいて橋も有ったらしいが、洪水で橋の位置も変ったらしく、旧道は通行できないが、痕跡らしき道は左手に少し残っている。
 14:15

 旧道らしき道が左手から合流してきて合流点に●蓄魂碑という牛の像が乗っているものや、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。蓄魂碑というのは昭和60年に地元の畜産関係者が建立した、牛さんを供養する碑でユーモラスにも見える。
 雨の中
●石田坂を下って行く。 14:22

■黒川~芦野
 旧道は、●黒川の手前で県道と分れ、右へ入り、真っ直ぐ黒川地区を通って、黒川は橋で渡っていた。今は橋が無く、黒川にぶつかってしまう。 現在の橋を渡るしかないので川に沿って左折して橋に向う。 ●黒川を「黒川橋」で渡る。渡ると現在の県道はU字型になっているのだが、昔はUの字を真っ直ぐ貫いて進んでいたわけだ。少し遠回りに歩かないと行けない。  14:55

 現在の県道をU字型に曲がって行くと、右手の田んぼの先に●夫婦石が見える。田んぼのあぜ道は雨でぬかるみ、とても行けそうになく、通り過ぎるしかないかと思ったら、少し先に回り込める参道のような道が続いていた。そこから夫婦石へ向った。途中に説明板もあった。
 戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割れ目に隠れると、白蛇があらわれ、敵が逃げ帰ったので命拾いしたという。 その先の右手に●夫婦石の一里塚が残り、町の史跡に指定されている。  15:11

 この後、雨もひどくなり、、芦野氏の居館跡なども見ることができず、国道294号を越え、●奈良川を越えて芦野宿へ入った。
 宿に入ってから色々と写真を撮ったのであるが、宿内は明日見て回ることにして、早々と「芦野仲町バス停」より●黒田原駅へ向い、東北線で新白河へ行き、駅前にホテルを取った。グループで歩いているなら、宿泊は芦野へ入る前の芦野温泉が一番便利と思うけど、1人では泊りづらく、新白河まで行ってしまった。黒田原行のバスの本数は1日4本、最終が16:53で、一本前の15:38発に乗ることができた。しかし黒田原の電車が1時間に一本で、時間が合わず、駅で50分近く待つことになった。黒磯行はすぐ来たので、黒磯で泊った方が良かったかも知れない。
  16:05

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