奥 州 街 道










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  9 芦野宿から白坂宿へ    歩行地図
 芦野-芦野仲町-遊行栁-峯岸-板屋-寄居本郷-境の明神-白坂   12.2km 

9 芦野宿
 芦野は鎌倉時代からの地頭であり那須七騎の一家であった、旗本芦野氏が知行地としてこの地を治めていた。居城の桜ヶ城の城下町として発達し、江戸時代になって奥州道中が整備され、交通、運輸が盛んになると、宿駅として発展した。 本陣1 脇本陣1 旅籠25 
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2010年10月1日
■芦野~芦野仲町
 新白河駅から黒田原駅へ戻り、8時10分発のバスで「芦野仲町」へ8時25分に戻って来た。天気は快晴で、●芦野宿入口の奈良川まで来て、少し芦野宿内見物して回ることにした。
 川を渡ると●「川原町地蔵尊」が鎮座している。この地蔵尊は享保12年(1727)に建立されたものだが、片足を投げ出した座り姿で、「座り地蔵」とも呼ばれている。 8:30

 地蔵の所から直角に左折、右折、最後に左折して町内入って行くが、その前に右手高台上に、日本三大聖天(浅草待乳山、妻沼歓喜院、三光寺)の一つである●三光寺がある。
 室町時代、弘治年間(1555)宥徳上人による開山。本堂正面に●「松翁」という名前の松の名木が植っている。白河藩主「松平定信」の当山聖天扁額奉納記念として文化8年に植樹された。

 三光寺から下りてきて、●芦野宿枡形を左に曲ると●芦野宿の町並が続いている
 最も繁華な仲町には大正10年代)までは用水堀が道路真中を流れていたという。
 芦野は東北の入口でもあり、関東の入口でもあるという交通の要衝にあたり、経済的にも発展し、芭蕉や多句の文人墨客がこの地を訪れている。現在は最寄の駅からバスも1日4本程度しかなく、中々苦しいが、文化は高いように感じる。   8:40

■芦野仲町~遊行栁
 宿内、昔の面影はあまり感じられないが、あちこちの家の軒先に●「奥州街道芦野宿 車大工」などと書かれた暖簾が下がっていたり、●屋号が書かれた常夜燈が設置されていて、旧宿場らしい雰囲気を盛上げている。
 その中で有名なのが創業300年のうなぎ屋●丁子屋。当時より鰻が名物で、今でも営業している。地元の余笹川や奈良川、黒川で獲れた鰻を用いていたが、今はさすがに取れず、他所より仕入れているらしい。もちろん朝早くて開いていな

 街道右手に●芦野宿形成400年という新しい記念碑が立っている。記念碑を右に行った奥は明治天皇行在所跡の祈念碑もあり、芦野宿問屋があった所。
 左手の本陣跡には●ストーンプラザという石の美術館が建つ。大正から昭和初期にかけて建てられた石蔵を再生して造られた。地元産の芦野石を中心とした石関連の美術館となっている。  8:50

 街道から右手に入った所にある●平久江家門は江戸時代、上級家臣にのみ許された格式の高い、棟門の形式で建築されており、枡形の構えを持っており、真っ直ぐに玄関に行けないしくみになっている。
 街道に戻った、右手にある●道標群
「南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ到ル」とか彫られてあり、芦野町道路元標もある。

 宿を抜けて、遊行栁へ向うが、途中右手奥に●建中寺がある。ここは芦野氏の菩提寺で、●芦野氏新墳墓というのがある。寺の右側を上がって行くと、小高い所に墳墓群がある。
 新墓は、芦野氏19代民部資俊から27までの当主と家族の墓域となっている。江戸時代の旗本の墓形をよく残しているというので町の文化財になっている。
 9:08

■遊行栁~峯岸
 芦野宿の出口付近で、街道は直角に左に曲がり、また右折して国道へ出る。ここも●枡形の形になっている。
 その手前角にあるのが、●新町の地蔵尊。芦野宿には入口と出口に大きな石造地蔵尊がある。 説明によると享保2年(1717年)の建立で、入口の川原町地蔵と合わせ、宿内に種々の災厄を入れないようにという役目があった。 旧街道は右に曲がるが、左手角の建物が、無料休憩所の遊行庵で、この裏手に、西行法師が休んだと言う遊行柳がある。  9:16

★遊行栁
 時宗の宗祖一遍上人(遊行上人)が旅の途中、遊行上人が使っていた柳の杖が根付いて柳になったとかの伝説が残る場所で、さらに西行、芭蕉、蕪村がそれぞれこの遊行柳を訪れている那須湯泉神社参道脇の左手の玉垣に囲まれたのが●「遊行柳」で、その傍らに芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」の句碑がある。対面の栁の木の脇に●西行の歌碑と、蕪村の句碑が見られる。  9:25

■峯岸~板屋
 国道に戻って先に進むと、すぐに左へ入る道がある。●峰岸の集落である。
 集落の最後の左手に●「べこ石の碑」というのがある。石が「べこ 牛」に似ていることと、「炎帝神農氏」という、牛面人身の姿が彫られているのでこの名がある。嘉永10年(1848芦野宿問屋を務めた「戸村忠恕」が晩年、人倫道徳の本道を人々に教え諭すために建てられたもの。全文3,500の文字がびっしりと彫られている。  べこ石碑文       9:40

 旧街道は国道に合流するが、すぐ又左に入る。左に入ると、左手に●峯岸館兵従軍之碑と峯岸館従軍者之碑が建てられている。
 戊辰戦争の時、官軍として戦った、峯岸近隣の集落の農民が、ここに設けられた峯岸館で洋式の軍事訓練を受けて各地に転戦、戦功を挙げたその顕彰碑であるが、特に説明がない。  ここで、旧道は現国道を横切って●右側に入り、間の宿であった「板屋」へ入る。

■板屋~寄居本郷
 しばらく行った左手に●諭農の碑というのが立っている。べこ石と同じ、芦野の戸村忠恕が農民に諭す為に撰文したもので、内容は、病害虫の駆除、予防から飢饉への対処の仕方までなどであり地方資料として貴重な物となっている。 この先に●板屋の一里塚が両方残っているが、このあたり道の改修で相当削られて、低くなってしまい、塚の方が高くなって残ってしまっている。    10:05

 板屋を抜けてまた国道の合流した。1600m位歩き●寄居という集落へ曲って行く。
 寄居は間の宿であり、入口に古い常夜灯が立っている。寄居は下野国最後の休憩地で結構賑わったといわれる。 右手に●與楽寺(よらくじ)へ上がる階段がある。那須三十三所観音零場の第10番札所となっている。 ここには結構雰囲気の良い建物など残り、街道筋らしい感じがある。ここに自動販売機が1台あって、お茶にありつけた。芦野を出てから1台もなく、夏だったらえらいことだった。  10:58

■寄居本郷~寄居大久保
 寄居の集落を抜けると、再び国道に合流する
ここを右折して山の方へ行く道は古代の白河関へ繋がる街道である。白河関は明日回る予定にしている。
 国道を少し行くと左側に●泉田の一里塚がある。駐車場の中にあり、整備されすぎの感がある。左側に大久保の集落が見えてきて、入口の右手に●一列に並んだ石仏群がある。馬頭観音、念佛供養塔、二十三夜塔等々。  11:25

 左手に小さく水が湧出していて、石碑が立っている。●初花の清水とある。
 「飯沼勝五郎、初花」夫婦のゆかりの清水ということだが、夫婦の墓が東海道の箱根山中にある鎖雲寺という寺にあったのを思い出した。兄の仇の相手を夫婦で追求めて、箱根権現の霊験のおかげで、見事本懐を遂げるというお話だが、ここ大久保の地にも関係があったという。清水の上に瓢箪の形に彫りつけた岩がある。  国道に出る左手の角に瓢箪の形をした●瓢石の像と道標を兼ねた石碑があり、「瓢石 勝五郎旧跡、初花清水従是二丁」と彫られている。ただこのあたりの道は改修で旧道がだいぶ変っており、瓢石は明治になってから彫られたものという。  11:40

■寄居大久保~境の明神
 大久保を出て、山中という集落を通って、また国道をしばらく歩く。いよいよ栃木と福島の県境にさしかかってきた。旧奥州街道の関東と奥州の境にあり国境をはさんで2社があり、「境の明神」と呼んでいるる
 手前の栃木側に●玉津島神社がある。
玉津島明神は天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請した。明治39年の火災後に再建された。 神社の先が●県境の峠で樹木が鬱蒼と茂り、右手上方に松平定信が書いた境界石が置いてある。現在の道は2m程切下げられていて,昔はもっと急だったということになる。12:25

 福島側にあるのが●住吉神社という。
 境内に南部藩士の奉納した燈籠や芭蕉句碑とか、和算額を新しくたものが架かっていた。
 神社の向いの家は茶屋の「南部屋」だったという。建物は変っているし茶屋もやっていない。 庭先のような所に●「白河二所之関跡碑」という石碑が立っている。内容はよく読めなかったが、境の明神の古くからの別名が二所ノ関といい、この二所の関にこそ、古代の白河の関も置かれていたと主張している内容らしい。

■境の明神~白坂
  道は下りになって、白坂へ向っている。少し行くと左手に衣がえの清水の案内標識が立っており、左手に下りて行くと、葉っぱが茂ってよくわからない中に 小さな池がある。弘法大師がこの清水で衣をすすいで着がえたという伝説がある。 その先、右に行く道は、旗宿道といって、古代の白河の関へ通じている。芭蕉は、奥の細道で遊行柳を見たあと、ここまで奥州道中をたどり、ここから右に折れて旗宿にある白河の関を訪れた。
 清水の所から1km位で次の●白坂宿へ到着した。しかしお昼を過ぎたけれど食堂、コンビニがないので手に入らない。困った。

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