奥 州 街 道









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 神明交差点-金燈籠-蛇尾橋-二本松原-市野沢-野間-鍋掛  12.1km

6 大田原宿
 平安、鎌倉時代は那須氏の所領であったが、室町時代後期、天正14年那須家の家臣、大田原資清が大田原城を築城し、城下町を形成した。これが大田原の起源とされる。
 江戸時代は、大田原氏の城下町として栄え、また、奥州街道、日光北街道、黒羽道、塩原道などの街道が集まる宿場町として活気があふれ、大いに賑わった。 本陣2、脇本陣1、旅籠42
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2010年9月30日
■大田原神明交差点~金燈籠
 大宮7:10発のやまびこ203号にて那須塩原まで。大田原市営バスで市内末広2丁目到着
 ●神明交差点まで100m。旧道を背にして見て、左折すると100m程で日光北街道が西南へ延びている。奥州街道は右へ行く。街道は愛宕神社と忍精寺を挟んで枡形の様に曲ってから東へ真っ直ぐ延びている。●旧大田原宿の町並は現代的な町並で、宿場の雰囲気は残っていないが、いくつか旧跡は残っている。 今日は曇りで午後から雨の予報。今日の目的地は芦野まで、22㎞程度歩くつもり。    8:40 

右に曲ったらすぐ左手に愛宕神社があり、神社の前で道は枡形となり、左へ曲っている。曲り終えた左側に薬師堂が建つ
 ●本堂は安永年間(1624~1644年)に創建されたが、大火で消失し、現在のものは寛政5年(1793年)の建立されたもの。
 ●石造の七重塔は貞亨元年(1684年)に建てられもので、左手には元禄7年(1694)の●石造舎利塔がある。塔に五重の屋根を載せた珍しい形をしている。共に市の有形文化財。 

裁判所の向かい側の少し先の右手に●「本陣・問屋・高札場跡」と書かれた案内板が立っている。大田原本陣は敷地980坪、建坪381坪は、奥州道中最大であった。他にも荒物店、升本屋、大玉子屋源助跡、脇本陣跡などがあるらしいが案内もなく、よく分からなかった。
 左手の大田原信用金庫の前に●那須与一の銅像が立っている。大田原市の黒羽地区が那須与一ゆかりの地となっている。  9:06

■金燈籠~龍城公園
 国道400号線の「金燈籠」交差点の左角に大きな●金属製の燈籠がある。最初見当らず。この交差点ではないのかと思ったが、横断した左側にブロック塀に囲まれて、案内碑と共にあった。交差点からは見えなくて、何で囲んでしまったのだろうか。
 元々、文政3年(1820年)に造られ、戦時中に金属供出でつぶされ、旧現在のものは昭和54年に再建されたと案内板に書いてある。但し台座は往時のもので「上町 江戸 白川」と彫られてある。 この交差点は塩原道の追分であり、交差点を左に行く道は、関谷を経由して那須湯本・塩原へ向かう塩原道と呼ばれる。ここを少し行くと、左手に江戸時代から続く●醤油屋・和泉屋があり、古い蔵が残っている。
9:16

 江戸時代創業の呉服屋「那須屋」は気がつかず、通り過ぎてしまい、その先の交差点を左折。 元旅籠の上州屋で、現在はホテルの●みつやを右折する。このあたり城下町らしく、七曲りの様に曲って進んでいる。
 途中左手には●竜泉寺がある。ここの「紙本著色大田原資清と一族の肖像画」が市の有形文化財に指定されていると看板が出ていた。

 竜泉寺の裏手にある●光真寺に行ってみた。
 大田原資清が天文14年に(1545)建てた。大田原藩の菩提寺となっている。 左手奥に●歴代大田原藩主の墓がある。大きな宝筐印塔が並んでいて、これは壮観。  9:41

寺を出ると左手に長い階段の参道があり、やっとこら上がって行くと●大田原神社がある。
 大田原神社は創建が大同2年(807)と古く、藩祖の大田原資清が大田原城築城の際に文明3年(1471)に遷座している。当初は温泉神社と呼ばれていたという。
 神社の脇から歩道橋が延びており、渡って行くと●大田原城へ出る。天文14年(1545年)、大田原資清が本丸等を築き本城とした。以後大田原氏代々の居城となる。幕府は奥州の押えとして重視して、大田原藩は明治まで存続している。今は広い広場となっており、「龍城公園」として整備されている。 本丸跡をぐるっと囲むように、今でも土塁が残されている。

■龍城公園~二本松原
 道は、すぐ●蛇尾(さび)川を渡る。蛇の尾と書いて「さびがわ」とは、普通読めない。案内板では栃木県の方言で「斎日」のこととか、祭日を決めて、神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味とのことであった。暴れ川のイメージからという説もある。
 蛇尾橋を渡って、右折するのが黒羽道で、ここを東へ約5km行くと那須与一ゆかりの那須神社がある。奥州街道は、ここを左折して緩い坂を上りると、街道は右に大きく曲がり県道72号を進んで行く。
 左側の広い敷地の富士電機大田原工場を過ぎ、800m程進んだ、セブンイレブンの駐車場の隅に●中田原の一里塚が残っている。「今井著の本」では栃木農協前となっているが、酪農業協同組合の方であった。 10:3

■二本松原~市野沢
 一里塚から900m程行った、市野沢小入口交差点は●棚倉街道への追分だった所。棚倉街道は大田原を経由して江戸・日光方面へ向う道として重要で、寛永6年(1629)紫衣事件で上山と棚倉に流されることになった沢庵と玉室は、この追分で別れたという。
角には●道標と聖徳太子顕彰碑がある。道標の正面は「南無阿弥陀仏」と彫られ、側面には判「右たなくら、左しらかわ」と彫ってあると案内に書いてあるけど、摩滅して読めなかった。おまけで、「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」と書かれた看板がある。もちろん「刑務所作業製品展示場」へ来て下さいという意味だね。キャピックというブランドで家具が格安で売られている。 10:48

 ■市野沢~野間
 市野沢交差点の先、左側に大きな●高野槙(こうやまき)が見えてくる。樹齢400年という、奥州道中三槙の一つといわれる。現在の樹髙は17mで昭和36年では30mあったということなので途中で折れたかしたのだろう。
 綿貫(ねりぬき)の集落の外れ、左側に道標を兼ねた●永代常夜橙や一九夜塔などが立っている。正面に「永代常夜橙」、側面に「右奥州海道、左原方那須湯道」と刻まれている。右側には「旧奥州道中」と彫られた新しい石碑もあつた  11:40

 ■野間~鍋掛
 ●綿貫から野間へ進む。あまり車も来なくなって、左手に「明治天皇駐輦記念碑」、右手に●大野牧場。このあたり特に旧跡など見あたらないので、距離稼ぎでせっせと歩を進める
 雨がぽつぽつと降ってきた。 12:15

 やがて左手に●樋沢(ひさわ)神社が見える。こじんまりとした神社だけど、案内板が大きく出ている。
 左側に大きな石が二つあり、手前の大きな岩が●八太郎義家愛馬蹄跡の岩。。後ろにある石は、●葛籠石という。(つづら、着物を入れる箱型のかご)に似ていることから、葛籠石と名付けたといわれている。但しとても葛籠の形をしているとは思えないが。・・   12:32

 神社を過ぎた頃から雨が本降りになってきた。ゴアテックスのオーバーズボンをもってきたけど傘だけですました。
 しばらく行くと左手に●鍋掛の一里塚の標識が立っている。石段を上がっていくと奥に鍋掛神社がある。。石段の右手奥に一里塚の標柱が立っていて、すこしこんもりしている。ただ雑草がひどく、標柱も隠れるくらいで、雨で濡れていてとても入り込むことができなかった。元々11m程東にあったが、道路拡幅のため平成6年に移転したものだという。道の拡張の再切下げられたか、道路より高い位置にある。 その先●鍋掛十文字を渡ると次の鍋掛宿に入って行く。  12:45

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