甲 州 街 道
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43 蔦木宿~金沢宿 歩行地 図 |
上蔦木-瀬沢大橋-とちの木-塚平-原の茶屋-御射山-青柳-金沢上町 12.4km |
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43 蔦木宿
信州に入って初めての宿。慶長16(1611)に計画的に作られた為、宿の両側に枡形道が残されていたりして宿場としての形態が整えられている。国道に面しているが、連子格子造りの民家が散見される。また、街道沿いの家々には当時の屋号を記した木札が下げられているなど、旧宿場町の風情が感じることができる。尚数度の大火に見舞われ、ほとんどの家屋が焼失している。本陣1 脇本陣1 旅籠15 ※ 写真をクリックすると拡大します |
●蔦木宿の大きな看板が立っていました。江戸より四三番と書いてあります。ここから宿場が始まります。用水路のような、川を渡ると左手に●4基ほどの常夜燈と、石の祠が建っていますが、何の由来があるのか、説明がないのでわかりません。
17:15 |
進むと右側に●枡形道路の碑があり、道路の改良工事で、南口の桝形道路の位置を移動したことが書いてある。右の写真のように、●直角に曲がっているのが、現在の枡形です。図を見ると少し手前に古い枡形があったようです。枡形を曲がると国道に入り、そのまま宿に入ります。 |
枡形を抜けると国道が一直線に宿場通として、続いている。左側には、なんとなく●昔の宿場の雰囲気が漂う家並が並んでいます。右手には三光寺への看板が立っている。ここは武田重信が父の追悼の為に建立した寺で、樹齢200年の檜や杉が生い茂りという寺なのだけど、奥過ぎ、時間もないので行けなかった。また右手に●「十五社大明神」がある。ここも鳥居前で失礼する。17:20 |
街道沿いの家々には●江戸時代の屋号が記された「表札」が下げられており、街道の風情を感じる。こういう例は東海道や中山道、坂本宿などあちこちにあった。
上蔦木信号を越えた角に、蔦木宿本陣であった、●「大阪屋源右衛門」の跡碑とその江戸末期建築の本陣表門が残る。昔の建物は子爵とかの別荘用に富士見高原に移されたという話だ。●「明治大帝御駐輦跡」という難しい文字の石碑も立つ |
●天皇御膳水(復元)
ここの御膳水は七里岩からの湧水で、天皇が巡幸の折使われた。後に町の水道として昭和26年頃まで使用されていた
御膳水の先、左側に宿の●西の出口に当たる枡形があります。入口には枡形遺跡と彫った碑が立っている。この碑の前を通り、右へ曲がり、すぐまた右へ曲がって国道に出ます。 17:25 |
国道へ出て、もっとも旧道は国道ではなく、内側に沿った道らしいが、よくわからなかったので、国道を行った。途中には●甲子塚、庚申塚などがあります。国道の脇に一里塚があるというので、注意して見ていたが結局よくわからずじまい。「机」という信号のある交差点で、国道を離れ右折して行く。夕方6時を過ぎていいかげんくたびれた時に、また、●登り坂でいささかげんなりします。机という地名は面白い。 |
交差点からは●急な上り坂を登るとT字路になり、これを左に進むとまだまだ登りが続き、疲れました。●瀬沢大橋を渡ります。かなり暗くなり、橋の写真はかなり修正してある。渡ったら川に沿って左へ入ります。国道を真っ直ぐ行くとJR富士見駅に行かれますが、写真は撮れずとも、旧道をこだわるのため山道を行く。
18:15
**************** 完全に暗くなる*****************
GPSを手に持ち、ディスプレーの照明を付け、それを頼りに歩きました。山歩きになりましたが、舗装道路であるし、点々と民家の明かりもあるし、歩けないわけではなかった。しかし暗い中、山道の上がり下がりがつらかったです。そんなわけで途中の目標物はカットしなくてはいけません。
・・・・ 瀬沢古戦場。 とちの木の集落。 とちの木風除林。 等々・・・・・・
富士見町、塚平という地点で右折して国道へ下り、「富士見駅」へ出て、茅野まで行き、茅野ステーションホテルで泊まりました。本日は9時頃から「富士見駅」着19時。延々休みなしで10時間、37km位の歩きになりヘトヘト・・・ |
2008年3月30日 8:00
茅野から「富士見駅」へ戻り、30分ほど歩いてやって来ました。富士見町、塚平。
●一里塚
昨日右折した少し手前に、街道47番目の一里塚。木の根元に重修一里塚という石碑と「甲州街道コース」の案内板があるので、旧道であることが確認できます。100mくらい先が●昨夜右折したT字路で、旧甲州街道は本来は真っ直ぐなのだけど、三菱マテリアルの敷地になってしまって通れない。左折してその先を右折して行く。 |
舗装路から●砂利道に変わった道を進みます。峠の山道みたいな感じ。右側は社有地ですが、何も建っておらず草原のような感じの土地で、何のための敷地なのかよくわからないが・・。
舗装路にでるとそこは●「原の茶屋」という。さっきのT字路から真っ直ぐ来ると、ここに合流するはずの地点になります。原の茶屋はこのあたり人家がなく不便であったので、明和9年(1772)松田新田の与兵衛が現在地で茶屋を始めて以来人家が増えたという地域。 8:15 |
●富士見公園
富士見公園という公園が右側にある。普通の公園ではなさそうで由来が書いてある。・・・明治41年富士見に来遊した伊藤左千夫は原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損わぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。村人は、左千夫に設計を依頼し、明治44年富士見公園は出来上がった。公園には、左千夫歌碑、赤彦歌碑、斉藤茂吉の歌碑などの歌碑が多く、入口には●芭蕉の句碑も建つ。 |
●明治天皇御膳水
右手に、またここにも明治天皇御膳水碑がある。碑の前の用水のような水路は、どぶのようでもあるが水はきれいに流れている。このあたり海抜961mの看板が立っていて、道中で一番高い場所になっている。御膳水の先の右手には●立派な常夜燈も建ちます。この常夜燈は土台が古く、上物は取り替えたようで新しい。
8:25 |
集落の外れ、金比羅神社の前に来ると、真新しいものもあるが、●「双体道祖神」が立っていたり、おなじみ庚申塔、筆塚が立っています。左側は●「富士見パノラマスキー場」がよく見えます。もう3月も30日なので、さすがにスキーをやっている姿は見えないし、リフトも動いていない。雪は少し残っていた。 8:30 |
●御射山神戸集落
道はゆるい坂道となり、カゴメ工場の前を通り、火の見櫓のある場所で、道は右へと下って行きますが、街道はそのまま真っ直ぐ下って行くと、左側には石仏が集められ並んでいます。真ん中には●大きな石碑と小さな石碑が無数にまとまっている。真那以址碑とは読めるけど、意味は全く見当がつかない。 8:45 |
●「御射山(みさやま)神戸八幡神社」
道は右にカーブして坂道を下り、左側に「庚申」塔や「筆塚碑」が並んでいる。さらに下り左に折れて国道に合流する。ここが御射山神戸の枡形といわれていた。国道部分は●「御射山神戸」間宿」といい、慶長16年に古屋敷から移転してきた宿であったが、国道拡幅のため昔の姿は失われている。 左手の八幡神社は、1200年以上の歴史を持つという
本殿があり、その左には樹齢390年以上という大ケヤキがそびえている。 9:00 |
国道に戻り、数百m先で再び●左に入る道が旧甲州街道である。入り口には大きな「馬頭観音」が立って目印になってわかりやすい。 坂を上ると、途中に何十体という●「馬頭観音・供養塔などの石塔群」がある。由来などはわからず、文字も良く読めない。この先坂をぐ-と上がって行くと両側に一里塚が残っている。両塚残っていてわかりやすい。 |
●御射山神戸の一里塚
日本橋から四十八番目の一里塚です。両塚で、右手(東側)の榎は明治初期に枯れ、欅が植えられている。左(西側)のケヤキが、塚が作られた慶長年間に植えられたと推定され、樹齢が380年を越える。目通り幹の太さ6.99m、樹高約25m巨木に育ち、現在も樹勢尚盛んという。 9:15 |
一里塚を抜けると緩やかな下り坂となる。●左側はコンクリート壁で、その上にエプソンのテニスコート、競技場などが続きます。諏訪は精工舎時代から工場が多く、この辺もセイコーエプソン関係の社宅などの施設が固まってありました。前方のマンションもエプソンの精和荘という。その脇を入って行き、また●国道に合流します。来る途中、岩が簡単に揺れる不思議から道中の名物であったと伝えられる「ゆるぎ石」があるというので探しては見たがよくわからなかった。畑の中にそれらしい石はあったけど。 |
国道に合流し、左折して進みます。途中●「萬霊等」という石塔が立っていたが、「萬霊塔」ではなく、「萬霊等」で等の字が書かれているのが、珍しいと思った。国道20号を300mほど進むと●金沢上町に入り、この辺から金沢宿に入ってくる。(拡大しない) 9:50 |
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