鎌倉街道上道を歩く 3 
       (町田駅~西国分寺駅まで)
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 町田駅-菅原神社-今井谷戸-七国山-丸山橋-野津田-小野路-乞田-関戸橋-分梅-府中栄町-国分寺跡-西国分寺  21.83km


2014年11月23日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■町田駅前~菅原神社
 今日は●町田駅前高架橋下から出発。西国分寺まで行く予定。芳賀氏本によると府中へのルートは幾つもあり、消滅している部分が多い。いくつも通るわけにもいかないので歩く道を1本に絞り、旧道に沿った迂回路を歩くことになる。
 最初は町田駅から古来井手の沢といわれて来た本町田の菅原神社まで行く。 旧道は小田急町田駅を過ぎて右折して北上し、町田一小、町田一中を通過して養運寺へ向って入る。今この道は消滅して通行不可能である。なので、まず小田急町田駅を降り「原町田大通り」を北へ向かい、原町田中央通り交差点を左折して線路を越え●鶴川街道を進む。旧道は少し西側を平行している。左手に町田市役所がある。その先、町田高校を過ぎると広い都道52号と合流してくる。左手高台に菅原神社があるはずなのだが、都道は工事中で参道がわからないので「菅原神社前」交差点まで行って、●菅原神社の鳥居をくぐった。    10:00

■菅原神社~養運寺
 鳥居をくぐって石段を登ると●社殿がある。本殿の脇に「史跡井手の沢」という石碑が立っている。神社の付近一帯は「井手の沢古戦場跡」である。鎌倉幕府減亡後、幕府最後の執権であった北条高時の子時行が幕府の再興を期して反乱を起こし、この井手の沢付近で足利直義と戦い、勝利して北条時行は一気に鎌倉を占領した。これを「中先代の乱」という。中先代とは北条高時以前を先代といい、足利尊氏以後を後代と呼び、北条時行はその中間であるということから中先代と呼んだ。しかし尊氏により20日天下で終わることとなる。 参道左手に●窪地があり、そこに「御神水」という石碑が立っている。特に説明はないが井手の沢の名残であろうか。
 参道から先旧道は続いていることになっているのだが、恩田川で分断されてしまって通行不可能。そこで交差点から東へバス道を行き、「久美堂書店」」の先を左折して行くと右手奥に●養運寺がある。戦国時代の創建で本堂の前に織部燈籠風の石柱があるというが、境内工事中で入れなかった。  10:18

■養運寺~今井谷戸交差点
 ●寺の前の通りが旧道であるという。少し行くと分岐になり、右手の細い方を行くと右手に宏善寺があり、その先、小川と合流してきて右手に「ひなた村」という青少年施設の入口がある。入口の先は丘がせまってきており通れなくなっているので小川を渡って小川の左側を進む。 ●なかよし散歩道という遊水路が続いている。右手丘の上に本町田東小学校があり、学校の下を通過して行く。やがて●今井谷戸の交差点に到着。これから七国山を登ることになる。   10:40

■今井谷戸交差点~七国山
 この先、七国山への山道を上ることになるが、上るにはコンビニの左隣から●ダリア園の案内板に沿った細道に入って行く。左手に町田ダリア園が見えてくる。間もなく右への分岐があり、ここへ曲がると急坂になり、とんとんと上がると●両側が林になって山道の雰囲気になってきた。 左手に●「鎌倉井戸」の説明板が立っていた。この井戸は「鎌倉時代に掘られたものと言われ、新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中、ここに丼戸を掘り、この水を軍馬に与えたと語り伝えられている・・・・・・」とある。街道を通る軍馬だけでなく、旅人も喉を潤したのあろう。10:55

■七国山~丸山橋
 井戸のあたりが最高点なのであろうか、標高128.6mで七国山と呼ぶのは七ケ国を展望できるからであるが、樹木が茂っているせいか眺望はあまり効かない。
 井戸の先に●鎌倉古道・上道の看板が立ててあり、感じの良い細い山道が左斜面へ分岐している。この細道旧道であり、●雑木林の間を下るゆるやかな坂道になって、シカとかクマが出てきそうな雰囲気を味わえる区間であった。この道は真っ直ぐ北上して鶴見川を渡っていたらしいが、今は消滅してしているので、●平地に出て舗装された道に出る。坂を下って行き鶴見川を●丸山橋で渡る。芳賀氏本ではこの丸山橋を渡る道も鎌倉街道と云っている。    11:15

■丸山橋~野津田高校北
 真っ直ぐ進んで広いバス通りに出る。芝溝街道というらしい。街道を左折すると神奈川中央交通のバスターミナルがあり、このあたりから北へ向かって丘を越えなければいけない。この入口がよくわからずあれこれ眺めていたら●人一人入れる位の細道があり、ここを抜けると登坂となりやがて●山間路になってきた。
 石段を上がると「農村伝道神学校」という施設があった。右手奥は野津田公園である。ここを左へ行くと「町田の丘学園」と野津田高校が並んで建っている。学校を巡って行くと南多摩整形外科病院道前に出る。●右へ行く細い道がある。この細い道が旧道の続きで江戸時代に大山街道として利用された道であるという。●人も通らない静かな野道で散歩には快適。   11:42

■野津田高校北~小野神社
 しばらく歩くと公園へ向かう広い道とと交差するが、そこに案内板であって●「小野路一里塚」の案内がある。元和3年(1617)家康の遺骨駿河の久能山から日光東照宮に移す時に街道の整備と共にこの一里塚が作られたという。 
 なお北上し、しばらくしてすると都道156号に合流する。都道を真っ直ぐ行くと、「小野神社前」信号があり、左折すると鎌倉の宿駅「小野路」になるのだが、その手前に●●小野神社がある。小野路は武蔵国国司小野孝泰の領地であり、祖先の小野篁を祭神として祀っている。12:00

■小野神社~小野路
 、「小野神社前」信号を直角に左折すると●鎌倉街道の宿駅があった小野路である。宝亀2年(771)武蔵国が東海道に編入されて、相模から武蔵国府のあった府中への通過点となり交通の要衝であった。鎌倉時代は鎌倉街道の宿駅が置かれ。その後廃れたが江戸時代になると大山街道の宿場として再び活況を呈するようになった。
 現在ではあまり雰囲気は残っていないが、入口左手に旅籠、旧「角屋」を改修して、観光交流の拠点として再整備した「小野路宿里山交流館」があって食事や土産物を買うことができるようになっている。右手に●旧名主の小島家がある。幕末には新選組の近藤勇や土方歳三が、京都へ行く前に名主、小島鹿之助のもとに剣術の出稽古にたびたび訪れたという由緒ある家であった。邸内に小島資料館があり月に2回ほど公開されている。
 ●中宿バス停を過ぎた先を右折して丘を上がる。右折する角の低い塀に●「布田道、関屋の切り通し」の小さな表示板が貼ってある。これは見逃しやすい。  12.25

■小野路~恵泉女学院前
 上がって行くと左手に明治3年の地蔵が見えてくる。間もなく●分岐点になり、左側の林に入って行くと、ここは●鎌倉時代の街道が良く保存されている道と云われている。鎌倉時代のものそのままとは思えないが、程よい切り通し道であり、この季節、落ち葉が積もってサクサクと心地良い足音を立てて歩くことができた。
 やがて左手から舗装路と合流し●恵泉女学園の建物が見えて来る。サクサク道も距離的には分岐点から合流地点まで400m位のものであっさりと終わった。 学園の脇を通って行くと道は町田市から多摩市に入り、尾根幹線道路という広い道路と交差する。前方は多摩ニュータウン・貝取団地、豊ヶ丘団地である。  12:40

■恵泉女学院前~乞田
 ●貝取団地、豊ヶ丘団地の間の大通りを真っ直ぐ北上して行く。この辺りは多摩ニュータウンの建設で以前とその様相が全く変わってしまったといわれるので、この道が鎌倉街道とは思えないが、北倉庄一氏の説では貝取の谷間を下り乞田へ向かって行ったとされ、貝取団地を縦断する旧道が描かれる。芳賀氏本では豊ヶ丘団地の西側に旧官道が描かれ、どうなっているのかよくわからないというのが本音で、外に道も無いのでこの大通りを行く。  道は下り坂で左手に貝取神社がある。京王、小田急線のガードをくぐり●乞田川を渡る。 大通りへ出たら右折してしばらく進み、マック辺りで斜め左へ入る。●乞田交差点である。北倉本には交差点から西へ向かい右回りに聖蹟桜ヶ丘駅へ向かう旧道が描かれている。芳賀氏の云う旧官道であろう。交差点から乞田川に沿って多摩川へ向かう。  13:30

■乞田~関戸橋
 交差点から500mも行くと多摩市役所がある。その先また500m程で左手高台に●熊野神社がある。標柱が立っていて、ここは鎌倉時代関所の南木戸があった所で、関所は「霞ノ関」と呼ばれた。またこのあたりの地名も関戸という。
 その先左手高台に●観音寺がある。寺のある所は昔処刑場があり、村の共同墓地があったといわれる。その先右手に風格ある造りの「小山商店」があった。地酒を手広く扱っているみたいだ。
 左手の地蔵堂には「関戸古戦場跡」の標柱が立っている。元弘3年(1333)鎌倉時代の最末期、霞ノ関一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。関戸周辺には横溝八郎、安保入道父子や無名戦死の墓が残っているという。大栗川を渡り●関戸橋で多摩川を渡る。但し旧道は新大栗橋交差点を橋に向かわず、そのまま真っ直ぐ橋の下流を斜めに渡っていたようである。   14:11

■関戸橋~分梅交差点 
 さて関戸から多摩川を渡る旧道は2本あって、1本は今まで歩いて来た道で新田義貞の鎌倉攻めに使われた。もう1本は北倉、芳賀氏の説による聖蹟桜ヶ丘駅付近を通る古代官道を利用した道である。この官道は多摩川を斜めに横断して武蔵国衙のあったという大国魂神社へ向かっている。
 関戸橋を渡って北上するが多摩川の流路変遷の為京王線中河原駅の先まで消滅している。駅を過ぎてすぐ●右斜めに「分梅通り」へ入る。 しばらくすると中央高速道路の南に緑道があり、そこに●「分倍河原古戦場跡」と碑が立っている。元弘3年(1333)と北条軍がこのあたり一帯で戦った。義貞は始めは惨敗を喫して退却したが、翌日三浦一族の援軍を得て大勝利を得て鎌倉を攻略しついに北条氏を減ぼした。 このあたりから旧道のルートで、そこから北上し分梅交差点に至る。右手に光明院がある。この先は多摩川の河川段丘で緩い坂になっていて、●この坂を光明寺坂という。   14:45

■分梅交差点~浅間神社
 光明寺坂を上がり、直ぐ先を右折して行くと●高倉塚古墳という古墳がある。段丘上に古墳が25基確認され、この古墳が中心に位置するという説明がある。南武線の踏切を越え●八雲神社の前に出る。ここの前に「陣街道」の表示が立っている。・・・・この道が中世に軍勢が陣立てして往来したことに由来し・・・・という。
 神社の隣の民家の塀に●元応3年(1319)の抱き板碑というのがある。カシの古木に抱きかかえられるように建っているもので珍しい。 その先に●浅間神社がある。   15:00

■浅間神社~府中栄町3丁目
 浅間神社を通過し、都道を1本越しさらに国道20号「甲州街道」の●美好交番前に出る、前面に府中第四中学校がある。この中学校の敷地で道は消えてしまう。そこで交番前を右折し、美好町通りの迂回路を北上して行く。すると●東芝府中工場にぶつかった。ここで又大きく迂回しなくてはいけなくなる。 右折して武蔵野線まで進み、線路は渡れないので北府中駅まで行き、駅の構内で武蔵野線を越える。そして府中街道を北上する。旧道はまっすぐ府中四中、東芝工場を縦断している訳である。旧道は●東八道路を越えた先の細道を入った所で復活しているらしいのでそちらへ入って行く。   15:40

■府中栄町3丁目~武蔵国分尼寺・国分寺跡
 細道を左へ入ってから●線路と平行に進むが、この先は黒鐘公園となっており●武蔵国分尼寺跡である。武蔵国分尼寺跡の石柱が立ち、金堂跡などが検出されている。線路を夾んで東側に武蔵国分寺跡もあるのでそちらへ回ってみた。
 同じように●武蔵国分寺の石柱が立ち、●金堂跡や七重の塔跡地なども検出されている。武蔵国分寺は分倍河原の戦いで一度敗走した義貞軍によって焼き討ちされてしまった。  15:55

■国分寺跡~西国分寺駅
 尼寺跡へ戻って先に進む。尼寺跡のある黒鐘公園の先に●切り通しの道があり、鎌倉街道の古道の姿を今に残しているといわれている。芳賀氏はこの道は尼寺を縦断することになっておかしいので、元弘3年の焼失以後の道ではないかと言っている。
 この路は長くは続かず、武蔵野線を越えることができない。そこで泉町陸橋により線路を越えることになる。府中街道に出るとすぐ泉町の交差点である。旧道は府中街道を左折して北上する。
 北上する前に、このあたり近年発掘された古代道路の遺構が残っているので見ておくことにしたい。泉町の交差点から右手奥に入って行くと●史跡東山道武蔵路跡がある。東山道武蔵路は東山道が上野国衙から武蔵国衙へ分岐する官道であった。その後武蔵国が東海道に編入された後もそのまま維持され、武蔵と上野国への連絡路として利用された。その後律令制の衰えとともに管理が行き届かなくなり、平安時代末期までには廃道となっている。道は真っ直ぐで道幅は12m位あったといわれる。
 武蔵路跡から北側の中央線までの敷地は国鉄の中央鉄道学園があった所で再開発中。左側には団地が建ち並び、団地の縁の歩道の下には武蔵路が通り、発掘後埋められた。昔の武蔵路の様子を示すため歩道に●側溝の状況が再現されている。(新旧の写真)古代の道路は細くて曲がりくねった粗末な道であるというのが一般的な常識であったのが、覆った訳で歴史上重要な意味を持つ発見であったと思う。 ということで泉町交差点から寄り道をして来たが、ゴールの●西国分寺駅に着いたので武蔵野線で帰宅することにした。
  16:30

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