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鎌倉街道上道を歩く 4 (西国分寺駅~狭山市駅まで) |
歩行地図はこちら 地図 |
西国分寺駅-姿見の池-上水本町-八坂交差点-東邑山駅-正福寺-八国山-元町-入曽-狭山市駅 25.60 km |
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■姿見の池~熊野神社 元の道に戻って北へ進む。左手に東福寺があって、石段の下に●「傾城の墓」と称する石塔(花が手向けてある方)がある。傍らに傾城由来碑が立っていて、姿見の池の説明板にあった、畠山重忠と遊女の「夙妻太夫(あさづまだゆう)」との悲しい恋の伝説の由来が書いてある。碑が立てられたのは昭和12年4月。この悲恋物語が恋ヶ窪の名の由来だという。但し国府が窪という地名があって、それが訛ったものと理解するのが妥当らしい。 . 少し北に向かうと右手に●熊野神社がある。境内に●聖護院道興准后の御歌の碑というものが立っている。文明18年(1486)に「廻国雑記」に詠んだ歌で ・・・朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪 今はた訪ふも 知記(ちぎ)りならずや・・・・ とあり、恋ヶ窪の名前は室町時代には有名だったが、地名のみが残っていたということから、既にこの頃には荒廃していたものと思われる。 9:50 |
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★八坂交差点(九道の辻) この先に●八坂交差点がある。ここは昔から九道の辻と呼ばれていた。交差点の西北の野火止用水の所に●九道の辻の標柱が立って説明が書いてある。それによると・・・ここ九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間に位置し、江戸道、引股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の九本の道がこの地に分岐していたことから九道の辻の名前が付いたもので、この付近は野火止用水が開通される前まで広漠たる原野の中にあったいわれる・・・・とある。現在、地図をよく見ても7本しかないが、芳賀氏説によるとブリジストンの工場を斜めに進んでくる旧道がここで交差すると9本になると説明してある。ちなみに八坂の地名はこの先の八坂神社にちなむ名前ではないかと思う。 また交差点を野火止用水が流れており、老中松平伊豆守信綱が玉川上水の水を自分の領地内に分水するために作られたもの。 新田義貞が鎌倉攻めの際、道を見失い1本のサクラを植えて目印にしたという●伝説のサクラが交番の横に植わっている。●府中街道を進む。これからの府中街道は旧道を拡張した道であり、別ルートとしてこの九道の辻から北西へ斜めに進み正福寺経由の道があるらしいが、そちらは別の機会にしたい。 11:22 |
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■東村山駅前~正福寺 東村山駅前を過ぎて商工会館の所で、●左へ行くのが旧道。道端に●「鎌倉古街道」の標識が立っている。この道に入ってすぐ左へ折れて行く道に出会うのであるが、ここで少々寄り道して有名な正福寺を見に行くことにした。 左へ折れ、踏切を渡り、「東村山駅西口」交差点を曲がり、「正福寺バス停」を右へ行くのがわかりやすい。 ●正福寺山門をくぐると。都下唯一の国宝●千体地蔵堂が建っている。創立年代は鎌倉時代といわれ、弘安元年(1278)北条時宗が鷹狩に来てこの地で発病し、苦しむ夢枕に地蔵菩薩が現れ救ってくれたのを喜び、地蔵堂を建立したという。この地蔵堂は入母屋作り、柿葺きの屋根に鋼板ぶきの裳裾をつけ、典型的な唐様建築である。堂内には千体の名前通りの多くの地蔵尊が奉納されている。といっても見ることはできない。 境内左手に貞和の板碑というのがお堂の中に収まっている。都内最大級の板碑。前川の橋に使われて、経文橋とも呼ばれていたといういた。12:10 |
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■正福寺~久米川町5 先ほどの「鎌倉古街道」に戻って先に進む。ちょとっと進んで又●左手の細い道が旧道である。この先で西武新宿線に分断されて消滅してしまっている。そこでしばらく線路の東側を歩くことになる。しばらく行くと右手に少年野球場があり、そこに「鎌倉古街道」の案内看板が立っている。その先左手に●白山神社がある。元は大きな神社であつたらしいが今は境内、社殿とも小さな社である。このあたりからは西武線を越していたといわれている。 まもなく、●門構えのある大きな屋敷の所で突き当たる。立川家といって鎌倉時代から続いているという旧家という。 12:42 |
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3 町田駅~西国分寺駅 | 5 狭山市駅~武蔵嵐山駅 |