鎌倉街道上道を歩く 8 
           (群馬藤岡~高崎まで)
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 (群馬藤岡駅-土師神社)-道中郷-庚申山-鮎川-緑埜-稲荷山古墳-山名古墳群-山名八幡-一本松橋-佐野-若松町-高崎城址 18.34 km


2015年3月22日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■群馬藤岡駅~諏訪神社
 鎌倉街道上道8回目。前回は埼玉県側の神流川の渡し場跡である「上肥土」まで来た。で 今日の出発は●八高線「群馬藤岡駅」。なぜここからというと、上肥土付近には橋が架かっていない。最寄りの橋は北側に「藤武橋」があり、芳賀氏本には八高線神流川鉄橋は人だけでなくバイクも鉄橋脇が通行可能と書いてある。しかし現在では立入禁止らしい。仕方ないので丹荘駅から群馬県側の渡し場跡である「道中郷」まで「藤武橋」を通って行こうかと思ったが、6.5kmもあり、群馬藤岡駅からでは3.5km位である。という訳で「群馬藤岡駅」から南下し2.3史跡など見て「道中郷」へ向かうことにした。
 駅から西へ向かい、県道23号を850m何かすると●諏訪神社に着く。社殿は西向きに面し、前方後円墳の上に建っている。境内は広くいかにも由緒がありそうな感じ。祭神は健御名神、八坂刀売神。 北側に陪塚であろう●古墳があり、「贈 従五位」という大正7年のなにやらわからない石碑があった。  9:33

■諏訪神社~土師神社
 更に南下を続け、国道254号の陸橋をくぐる。800m程先の右手に●史跡本郷埴輪窯跡の標柱が立ち、●窯跡を覆う建物が建っている。このあたりの古墳で使用されたと思われる埴輪を焼いたという埴輪釜があった場所にあたる。
 埴輪釜は登窯で、明治39年に発見され、昭和18年に発掘調査された。中から馬、家、太刀、矛、盾などの埴輪が出土されている。ガラス越しに内部をのぞくことができたが、窓の汚れ、日光がまともに照らし、写真を撮るのが困難だった。窯のサイズは長さ5.5m幅1.8mだという。 窯跡のすぐ先左手に●土師神社(はじじんじゃ)がある。北側の鳥居は裏参道口にあたる。本日は例祭があったようで、神主御一行が行進中でありました。
 埴輪を造っていた土師部の人々が祀った神社で、祭神は野見宿禰。野見宿禰は相撲の元祖でもあるので、境内に●相撲壇日本三辻之一という碑と 相撲辻というこんもりした所がある。相撲辻とは相撲の土俵とその場所を意味し、土師の相撲辻は大阪の住吉神社と石川の羽咋神社と共に日本三辻と云われているそうだ。  10:00

■土師神社~道中郷
 神社の長い境内を抜け更に南下する。左手に庚申塔などの石仏群があったりする。左手に●大きな水路竣工記念碑が建っている十字路の所が旧道であるのでそこを左折して神流川へ向かう。 左奥に小さな祠らしきものが見えるが、●これが葵八幡らしい。畑のど真ん中に建っており、回りがきれい耕されているし、進入路が見受けられず見に行くのに躊躇した。そこで遠景に撮っただけ。 葵八幡は木曽義仲の愛妾葵御前を祀ったものと伝えらる。 左折して5分も歩くと●神流川の群馬県側渡し跡にぶつかった。雑木やらで対岸が見通せない。   10:18

■道中郷(街道再開)~県道13号
 川から元来た道を戻って、●水路竣工記念碑のある十字路を北西に向かい、鎌倉街道上道の歩きを再開する。
 坂を上ると正面に●美九里東小学校があり、ここで旧道は消滅してしまう。そこで学校沿いに進み、右に曲がると学校の正門で、門の中に鎌倉街道説明板が立っていた。 校門前で旧道に復帰し、左折して西に向う。笹川を渡り、●県道13号の先の細い道へ入っていく。   10:28

 ■県道13号~藤岡モータースクール
 ●県道先の鎌倉街道の面影を残すような細い道に入ります。真っ直ぐ進むと工場の様な所になるので、右に曲がって山道の様な道を進んでいくと●灌木で進めなくなってしまった。このような所は山陽街道にいくらでもあり、慣れていたので強行突破しようと藪漕ぎして少し進んだのだが、全く手強く、進入はは不可能であった。 やむを得ず少し戻り、左手に伸びる迂回路を取った。しばらく坂道を上り、龍田寺の脇を通ると、●旧道の続きへと出た  10:50

■藤岡モータースクール~庚申山
 広い道に合流すると左手下側に藤岡モータースクールがある。やがて●庚申山山頂への案内板が右側にある所へ来る。案内板の向かいに●小さなお堂があり、中に一二夜尊の石仏が祀られている。
 庚申山山頂への案内板に従い山へ向かって行ったら、これは車用の案内板ということに気がつき、えらく遠回りになるので、途中で折り返して先に進んだ。 まもなく右手に●庚申塔が数基並んでいる所から真っ直ぐな登山道が続いていたのでそこを上った。5分足らずで高さ189mの庚申山山頂に着いた。山頂にはトイレや展望塔が設置されてある。また 山頂には●安政7年(1860)年の大きな庚申塔が置かれている。   11:05

 ■庚申山~鮎川
 登山道を下りて元の道に戻った。その先は広々とした田園風景が広がっている。 県道175号との交差点を越え、すぐ県道13号との変則五差路を直進して行く。すぐの十字路交差点右に●道祖神と「右本郷、左藤岡、正面西平井田」と書かれた道標がある。正面に●新しい地蔵尊ある所を左に入って行く。その先、●火の見櫓のある三叉路になり、右手に鮎川公会堂があります。正面に「右藤岡町道 鮎川村青年会」、「正面東平井、西平井」などと刻まれた道標がある。
 lこの三叉路は右の道を取る。これが旧道で、やや●左にカーブすると目の前はこれ又広々とした田園風景になる。 その道の右手に道標があり、右上大塚道などとかろうじて読めた。その先右手に大きな●凱旋馬頭観音がある。凱旋とあるからには出征馬の凱旋を記念して建立したのだろうと思われるがいつの時代なのかはわからない。 旧道はこの先で鮎川にぶつかり行き止まりになった。
 11:48

■鮎川~緑埜
 芳賀氏は鮎川は増水していないかぎり小石伝いに対岸に渡れるとあるので、●川縁に下りてみた。残念ながら増水といえる程度ではなかったが、ちょっと渡れるとは思えなかった。 そこで土手伝いに西へ行き、上流に架かる緑埜橋を渡ことにした。
 渡って200m程先で右折して道なりに350m程進むと、先ほどの旧道が復活している。その合流地点の角に●千部供養塔がある。 天明3年(1783)の浅間山大爆発の模様と、各地の降灰量や凶作による諸物価の高騰などの被害状況を刻んだ供養塔で、当時の被害状況を記録する貴重な碑文である。大爆発から9年後の寛政4年(1792)当地の代官斎藤八十衛門雅朝により建てられた。
 千部供養塔のある二股はここも右に曲がり、●田圃風景の広がる真っ直ぐな一本道を進む。
 芳賀氏本では水路を越えた辺りから旧道は2本に別れ、直進して西へ進むと白石へ抜け、「吉良上野介陣屋跡」、三ツ木、鏑川を渡り山名八幡宮へ進んで行くコース。もう1本は北へ進み、上信越自動車道を越え、更に北へ向かうと稲荷山古墳などが並んでいる珍しい所を通り、鏑川を渡り山名八幡へと向かうコースである。どちらも面白そうなコースであるが、ここは北へ向かい古墳を見て回るコースの方を選んでみた。  12:15

■緑埜~稲荷山古墳
 分岐点辺りを右に取って、北へ向かうが田園地帯は旧道は消滅している。区画整理された真っ直ぐな農道を進み、上信越自動車道を越た。国道254号の●白石交差点先で旧道が少し復活するようである。道なりに進むと県道173号を越える。県道を越える正面に大きな古墳が見えた。 県道を越えて西へ向かい、台地に出て右折して北へ向かうと●真っ直ぐな旧道を彷彿させる堀割の様な農道になった。右手の高台に●稲荷山古墳がある。頂上に碑が立つ。全長175mの前方後円墳だが、丘の頂上を利用して造られているため、後円はわかりやすいが前方がどこまでかわかりにくい。案内板によれば陪塚も2つあるとのことだが、よくわからなかった。5世紀前半という。   12:50

■稲荷山古墳~七輿山古墳
 稲荷山古墳の北側に埋蔵文化財収蔵庫があり、そのすぐ北側に●皇子塚古墳がある。案内によると径31m、高さ6mの四段に造られた円墳である。羨道、前室、玄室からなる珍しい複室構造である。 北側に隣接する平井地区1号古墳と共に6世紀後半の築造になるという。 続いて北側右手に宗永寺があり、左手に●七輿古墳がある。こちらは堂々とした三段で築造された前方後円墳であり、全長146m、6世紀代の古墳としては東日本最大級である。名前の由来は多胡郡郡司となった羊太夫は、のちに謀反を図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、居城の八束城から逃れた羊太夫の一族がここで落合い、妻女ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったということに基づく。
 入口から上るとすぐ右手に●五百羅漢像が並んでいるが、ほとんど首が折られていて異様な感じがするがこれは何であろう。説明板では何も触れていない。  13:15

■七輿山古墳~鏑川橋
 七輿山古墳から北へ進むと旧道は一旦消える。伊勢塚古墳の右側で復活しているらしい。北へ向かうと●鏑川の土手にぶつかる。猫岩という大石があって、そこが渡河地点というが、どれが猫岩だかよくわからなかった。土手上を東へ向かい、●鏑川橋を渡る。高崎市に入った。 橋を渡って山名町南交差点を左に曲がって進み、●山名古墳群入口の標識のあるあたりが旧道らしいと思うのでそこを右へ入った。   13:38

■鏑川橋~山名
 右へ入ると●山名古墳群と呼ばれる群集墳が広がっている。古墳時代後期から終末期の6世紀中頃~7世紀前半につくられた古墳群である。現在一帯に前方後円墳1、帆立貝形古墳1基、円墳17基の合計19基の古墳が保存され、これだけ状態が良い事例は県内でも数少ないと説明にある。 市技能開発センターの脇を通って、●上信電鉄の踏切を越える。突き当たって右折し●山名八幡へ向かう道を通る。左手の丘陵地帯には万葉歌碑、昭和天皇山名御立野所跡、山名城址、山ノ上碑など史跡が沢山あるが、とても回れそうになくすべてパスせざるをえない。  13:48

■山名~一本松橋
 電鉄線「山名駅」左側に●山名八幡宮があるが、見事に参道が線路で分断されている。宇佐八幡を勧請した社で創建は不明だが新田氏の祖である、新田義重の三男山名義範が造営したという。山名氏は新田義範がここ山名に土着して山名氏を名乗ったのが起こりで、応仁の乱の山名宗全と祖にあたる。山名氏は西国に勢力を張ったが、出身ははここだった訳だ。
  上信電鉄のガード下が参道になっているのでくぐっておいて、県道へ出た。県道をしばらく歩いて●薬師沢橋手前を右手に入るのが旧道。右に入ると高崎商科大学がある。大学の角を右折すると●一本松橋を渡る、現在の橋はコンクリート製で何の面白みもないが、昔は木橋で風情があったのだろうと思う。   14:20

■一本松橋~放光神社
 橋の上から●木橋が架かっていたと思われる烏川の西側を眺める。芳賀氏によれば橋の手前右側に神籠石、北側に赤石、上流に聖石の三名石があって、昔の渡河地点にあると説かれる。確かに川の左手に一つの大石、上流に数個の石が見えた。しかしこれらが三名石であるのかさっぱりわからなかった。 一本松橋の渡りきると、「歩行者迂回」の案内板により左に曲がり、川の方へ少し戻り道なりに曲がって行くようになっており、この付近が木橋が架かっていた地点なのかなと思った。
 上越新幹線をくぐり、佐野一本松通りを進んで行く。下佐野町南バス停の先の分岐部分に道祖神が置かれている。この道はクネクネして案外と見通しが悪い。●下佐野町バス停先の二叉を左の旧道に入ると、車があんまり入らなくなってきた。500mも歩くと、右手に●放光神社と史跡放光寺跡の石碑が立っている。 放光寺は先の山ノ上碑の建立僧長利がいた寺といわれる。  14:48

■放光神社~佐野渡し跡
 すぐ先、上越新幹線を越えた所に●定家神社がある。社殿は鮮やかな朱色で、彫刻が美しい。祭神は藤原定家で、定家祀る神社は初めて。この地と定家が関係あるのかどうかはよくわからない。
  新幹線沿いに少々進むと●常世神社が見える。謡曲「鉢木」の主人公佐野源左衛門常世が領地を横領された後に住んだ屋敷跡に常世を祀るために創建されたといわれる。
 旧道に出て150mも歩くと左手に●佐野の舟橋歌碑が立っている。 歌碑には船木観音の文字と、馬頭観音の線刻画像の下に、万葉東歌の一首    「かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ」   と刻まれる。
 船橋とは船と船をつなぎその上に板を渡した浮橋で、この地にかって船橋が架かっていて重要な交通路であったことを示している。  15:00

■佐野渡し跡~城南緑地 
   ●新幹線手前の分岐を左に入って更に進む。右手に荘厳寺、左手●琴平天満宮がある。 琴平宮は古墳の上に建っていて、その狛犬の代わりはなんと烏天狗像である。厳寺と琴平宮の間の狭い道を進み、県道71号線の下を狭い跨線橋でくぐる。すると城南緑地という公園があった。 その公園の端に●鎌倉街道記念碑が立っている。上道の解説と高崎から北に金井、南に馬上宿と興禅寺があったことなどが書かれている。 15:20

■城南緑地~若松町
上信電鉄の踏切を渡り、国道17号線の高架上を通ることになるが、国道へ下りるには右手の児童公園の方へ曲り、公園を回り込んで「城南交差点」へ出る。交差点から●総合運動場の右手に沿って進む。野球場が過ぎたあたりで●右手の坂を上がって行く。これから先は竜見町の住宅街をジグザグに進んで行くことになる。すると●広めの道へ出た。   15:50

■若松町~高崎城址公園
 この先はよくわからなくなったが、佐藤病院の脇を通り、●興善寺の前を通って適当な所で左折すると●高崎城址入口に出た。高崎城址を上道の一応のゴールとしていたので、やっと終わりとなった。交通の便が悪いこともあって8回かかってしまった。
 上道自体はこの先、北陸方面に続いている訳だけど、とても行くことができないので、あっさりとゴールとした。
鶴岡八幡宮からここまで地図上では150km程度だけど、あちこち寄り道が多く200km近くになってしまった。また街道が消滅してしまった箇所も多かった。 ●城内の公園をぶらぶらして高崎駅から帰宅の途に着いた・・・・・鎌倉街道上道終了
 16:00

     7 小前田駅~丹荘駅