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鎌倉街道上道を歩く 7 (小前田~高崎まで) |
歩行地図はこちら 地図 |
小前田駅-用土-中野-猪俣-中里-駒衣西-摩訶池-陣街道-児玉-長浜町北-植竹-神流川 17.26 km |
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★猪俣 野中交差点から左へ700mほど歩き、寿司屋さんの角を右折して道なりに回り込んで行くと、突然●猪俣小平六の館跡という石碑があった。説明板は全くない。地図を見ると猪俣川が二本に別れる間に建っていて、川が堀の役目を果たしていたのだろうと思われる。 猪俣党は武蔵七党として、児玉、横山、村山、野与、丹、西、などで知られている武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族といわれる。 保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。 猪俣小平六範綱は保元の乱、平治の乱では源義朝に使え軍功をあげた。また源頼朝にも仕え、しばしば軍功を上げたという。 館の南側にある●高台院の下の方に●小平六範綱の墓がある。 小平六の死後、一族の霊を慰めるため猪俣百八燈という行事が毎年行われている。その場所は高台院からすぐ見える●堂前山の尾根にある。堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともすそうだ。 11:40 |
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■中野交差点~中里 野中の交差点に戻って先に進む。新天神橋の手前に●横関酒造がある。「天仁」というお酒と奈良漬など造っているようだ。 ●新天神交差点を渡ってすぐ左に斜めに分かれる道があり、この道が旧道である。ここから先の旧道は国道と平行した裏手をジグザクに通って駒衣西あたりまで続いている。 コンビニの裏手を通過して右折し●一つ目の角を左折して行く。角の庚申塔の大きな石碑が立っている。 12:15 |
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■中里~駒衣西 ゆるやかな上り坂になって、すぐ右手に●雷電神社がある。征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の為、この地に至った時、激しい雷に遭遇し、これを鎮めるために雷電を祀ったのが始まりと伝えられる。●本殿は覆い屋に覆われて中に鎮座していた。詳しくは案内板を見られたし。 すぐ先の右手に塚があり、浅間大神の石碑が建っている。やがてやや広い道路に出ると、青いトタン壁の家の所に●鎌倉街道の新しい案内柱が立っているので、案内に沿い、右手の道へ入って行く。 12:28 |
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■駒衣西~常福寺 旧道を西へ行くと、枌木川に架かる橋にさしかかる。橋を川に沿って少し行くと●曝井(さらしい)の遺跡というのがある。 さらし井は枌木川の端にある岩石で囲まれた湧き水で、その昔、織布を洗いさらすために使われた。昔織布を洗いさらすために使用された湧き水で、ここでさらされた布は調布として都に運ばれた。ここはいかなる旱魃にも枯れたことがなく、又織布をさらす井戸は共同作業所であり、若い女性が集まる所から愛を語る場所ともなったという。 井戸の先へ行くと、● 大伴部真足女遺跡( おおともべのまたりめ)という県指定旧蹟がある。案内板によれば・・・・・掘形の田畑に囲まれた90メートル四方の遺跡で、豪族:檜前舎人石前(ひのくまのとねりとねりいわさき)の館跡といわれています。万葉集には妻である真足女が、防人として赴任する夫に寄せた歌が載っています 、万葉集二十巻 ・・・・・枕太刀腰にとり佩きまかなしき背ろがまき来む月のしらなく・・・・・ 遺跡の前の●常福寺は創立が天平年間といわれ、領主檜前舎人石前の創建した寺と伝えられる。 13:10 |
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■児玉~玉蓮寺 国道を西へしばらく行くと●道の右手に折れる道があり、折れた先に●龍體稲荷神社がある。龍體という名前は珍しいと思うが、由来はよくわからない。神社の西側に鎌倉街道が通り、山車の収納庫の所に鎌倉街道の案内板が立っていた。 稲荷神社の前を抜けて北に向かう●小道は鎌倉街道らしい雰囲気のある道気持ちの良い道であった。 14:15 |
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■雉岡城跡~長浜町北交差点 公園入口から東へ細道を真っ直ぐ向かい、旧道に出会って左折して●細い住宅街を進んだ。やがて八高線にぶつかり、旧道はここで消える。「長浜町交差点で」線路のガードをくぐる。 右手に●長福寺がある。●長浜町北交差点手前で左折して、「カインズホーム」の裏手の道が旧道らしく、八高線で消えた旧道は長福寺の所を曲がってここに繋がっていたのだと芳賀氏は述べている。 15:00 |
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6 武蔵嵐山駅~小前田駅 | 8 群馬藤岡駅~高崎駅 |