鎌倉街道上道を歩く 5 
     (狭山市駅~武蔵嵐山駅まで)
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 狭山市駅-入間川-鎌倉街道交差点-川越線踏切-西大家駅-本村-堂山下-今宿-鳩山-笛吹峠-大蔵-菅谷館-武蔵嵐山駅 26.04 km


2015年1月4日 ※ 写真をクリックすると拡大します
■狭山市駅~入間川土手
 西武線狭山市駅7時58分到着。●西口から出ると歩道橋が巡らしてあり、左側後方髙台上に神社が見える。歩道橋をずっと最後までr行くと、高台に繋がっていて、神社の方向へ道路を歩かなくても行くことができる。本来は駅前の図書館から坂道の参道を上がらないといけないようだ。
 ●八幡神社は元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒の出陣の折、勝利を祈願した。その際愛馬をつないだという馬繋ぎの松が本殿東側に残る。・・・といっても今では根本部分が残るのみ。また本殿は彫刻がすばらしく市の指定文化財である。
 旧道は駅で分断されているが、南側のガードをくぐり図書館の前から入間川に向かっている。そういうことで参道を下り、図書館前を左折して進む。 右手奥に●徳林寺がある。新田義貞の入間川合戦時の宿泊所だったといわれる。
 菅原橋を渡って真っ直ぐ行くと●入間川土手に出た。ここの辺りが鎌倉街道の「八丁の渡し」であったのではないかという。そうすると川の両側に入間川宿があったのだろうと思われる。   8:47 

■入間川土手~奥州道交差点
 入間川を渡る前に新富士見橋を通過して300mも土手沿いを行くと、●清水八幡宮という小さな社がある。ここは木曽義仲の嫡子志水冠者義高を祀っている。義高は頼朝の娘「大姫」の婿という名目で人質にされていたが、義仲が討たれた際、殺される運命にあり、密かに鎌倉を逃れてこの地まで来たが、追っ手によって殺された。大姫が大泣きに泣き、頼朝の妻政子の怒りも買ってしまって、追っ手が逆に討たれてしまったりしている。義高は入間河原に葬られ神社が作られた。
 新富士見橋まで戻り橋を渡る。渡って一つ目の「広瀬東」交差点を右折して「富士造園」あたりが旧道が繋がっている所となる。左折した先が入間川宿である。入間川宿は鎌倉時代の宿場であったが、次第に往来が閑散となり、江戸時代は八王子、青梅、川越を結ぶ宿場として存在したという。
 5.6分も歩くと●「奥州道」交差点になる。この道を何故か「奥州道」と呼ばれている。北倉庄一氏は、この先の何処かで東へ分岐して下野を経て奥州へ行くルートがあったに違いないと述べている。交差点の右側に地蔵が立っていて、●影隠地蔵という。志水義高が追っ手の目を逃れるために隠れた地蔵だという。昔は木造でお堂に祀られていた。場所は入間川の氾濫で移動しもっと東の方にあったものだという。 この交差点からやや急な坂になり、信濃坂と呼ばれる。この坂の下には昔「霞ヶ関」という関所があったという。   9:15

■奥州道交差点~鎌倉街道交差点
 ●台地上に上がった先は真っ直ぐ進んで、まもなく工業団地の間を通過して行く。工業団地を抜けると、右手には●智光山公園の広大な緑地が広がっている。公園の先、圏央道をくぐると段々と道が細くなり、車の通行量も減ってきた。南小畔川の小さな橋を渡る。道は大きく左へ曲がって大谷沢の台地に上り、右手はゴルフ場。国道407号との交差点には「鎌倉街道」という名前が付いている。その先は単なる1本道であるが舗装はされている。左側はコンクリート壁で、右側は資材置き場かなんかの鉄板の塀が長く続いてやや物騒な感じ。そこを過ぎると林の中に入って行き、●切り通しの下り坂になる。切り通しを過ぎた右手に●旧鎌倉街道の碑と説明板が立っている。   10:00

■鎌倉街道交差点~川越線踏切
 第二小畔川を渡ると少し田園風景が続く。やがて住宅街が見えてきて、二又の所は右手の住宅に続く細い方の道へ入って行く。住宅へ入ってから先、旧道は2本に別れていて、このまま真っ直ぐ進むと霞野神社に至る。右手は住宅の中ではっきりしないのだが、右へ曲がり●西北に真っ直ぐ進む方の道を進んでみた 少し進んで左に折れると●霞野神社がある。このあたりは女影ケ原と呼ばれ、本殿横に「女影ケ原古戦場」の碑と説明板が立っている。建武2年(1335)北条高時の子時行は兵を挙げ鎌倉を指して進撃した。ここの合戦で足利直義の軍を破り、更に小手指原、府中、そして井手の沢での決戦にも時行方の勝利となり、鎌倉を占領する。これを中先代の乱という。 本殿右手に古戦場の碑がある。この碑から東へ進み、天神社が見える所を左折して、神流川を大神橋で渡る。ここら辺は鎌倉街道ではないと思われる。更に県道15号を渡って進み●川越線の踏切を渡る。踏切には「鎌倉街道踏切」の名前が付いている。   10:28

 ■川越線踏切~西大家駅
 踏切を渡ってコンビニを左へ道なりに行き、小畔川渡る。ここから先は●旭ヶ丘というほぼ正方形に整然と区画された地域を真っ直ぐ北へ向かう。当然旧道は消えている。右手の少年野球場の脇を通って行くと、神社があり脇に黒い石碑が立っていて、「高萩飛行場跡」と彫ってある。
 高萩飛行場は昭和13年12月陸軍航空士官学校の高萩分教場として使用開始された。飛行場の規模は東西1700m、南北1300m、面積は約220ヘクタールというからほぼこの区画は飛行場跡に相当するわけだ。 そして終戦後開拓団が入り開拓された。 区画を抜けると駒寺野新田。その先は鶴ヶ島市町屋で●二叉にやって来た。右手に行くと地図に「堀割道跡」と書いてあるので、十分魅力的で右に曲がりたいところ、芳賀氏は左側が旧道であると云われる。そこで左の道を取らざるを得ない。左手の道はどうってことのない農地の間の舗装路である。右手を通る「堀割道跡」も気になるので途中でそっちへ曲がってみた。掘割状の道路遺構が残っていると云われるが、特に遺跡らしい所は見つけられず、排水路が付属した細道であった。県道に出て踏切を渡る。すぐ右側が●東武越生線の西大家駅である。  11:28

■西大家駅~本村
 踏切を渡ると直ぐ右手に●国謂地祇神社がある。国謂とは国井であり、大昔からその土地にある湧水を意味するのだという。地祇は土地の神様のことであり、この神社は湧水を利用して農耕を営んでいた人々が祀った神社ということになる。
 神社の横から北へ進む。国際大学のグラウンドを回り込み高麗川を●森戸橋で渡る。この先しばらく進むと●民家の石垣の所で二叉に別れ、旧道は左手の細い方を進む。旧道の様な農道の様な感じの細道が続いていた。ほんの少しで県道川越越生線に出る。
11:58

■本村~堂山下
 県道を左へ進むと●鎌倉街道0.4km、歴史民俗資料館0.7kmという看板が立っているので●そこの細道に入って行く。農地の間を抜けて行くと●「鎌倉街道遺跡」という標柱が立っている。裏側には鎌倉街道の説明文が書いてある。・・・・「ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和57年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約5メートルの旧道面があり、両側には排水溝もあった。低湿のため長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」・・・・
 左側には福祉施設の建物が点在している。林の中を進むと赤土道になってきて、●凹状の道路跡が続いている。街道そのものが音のままに舗装もされずに残っている区間であるといわれる。県道を越して更に続いており、左に埼玉医科大、特別支援学校を見て、越辺川の手前の●広い道に突き当たり、そこで消えている。右手に堂山下遺跡がある。   12:47

■堂山下~今宿
 旧道は越辺川を越えて北上していたが、当然進めないので通常は右折して苦林から今川橋を渡って行く。ただ普通にバス道を行っても面白くないので越辺川を越えて行ってみようと思った。
 堂山下遺跡の所から左折して広い道を南へ行き、埼玉医大の手前の林の中を看板に従い右手に入って行くと、に大きな板碑が立っている。延慶3年(1310)の銘があるので●延慶の板碑といわれている。(説明文) このあたりでは珍しく大きなもので有名であるという。 道を少し戻り、特別支援学校の所で越辺川の橋を渡る。リサイクルプラザの脇を通ると前方は大学のグランド。その先は乗馬学校がある。旧道はその学校の辺りを通っていったものと思われるが、私営地で通れないので適当に迂回して行くと●馬の練習コースの脇を通ることになる。右手の池は旧越辺川の旧流路だったという。鳩山町との境界を過ぎると今宿である。芳賀氏の本の説明ではこのあたりどう歩けばいいのか良くわからないので適当に進む。左手に八坂神社を見た。北に進んで西浦橋を渡ると●今宿の歩道橋の所に出た。今宿は昔の苦林宿に対して新しい宿という意味であり、江戸時代になってから開けたという。苦林は少し南側の地名であり、東に行くと苦林野古戦場がある。南北朝の時代、宇都宮氏の家臣で越後守護代芳賀禅可と足利基氏が激戦を展開した。
 13:30

■今宿~鳩山中学校
 歩道橋からしばらく県道を北へ行く。すると●細い旧道が右斜めに続いている。入るとすぐ左手に●赤沼供養塔と称する3基の石碑がある。真ん中の日本回国四国七遍供養塔の下部右側に「北ハ ひきの岩殿道」、「中ハ すがや野はらみち」、「西ハ 小が者ちち婦道」と刻まれているらしいが、読みにくい。この「中ハ すがや野はらみち」は鎌倉街道のことであるという。ここから先はNTTのあたりを通っていたたというが、今では変わってしまって訳がわからない。ここも又適当に北上して行く。やがて●鳩山中央公民館や鳩山中学のあたりに来た。旧道は中学を縦断してして、昔の校舎の下側に旧道の凹道が保存されていたというが、新校舎になって撤去されたというのが残念なことだ。校庭の南側のネットに鎌倉街道の説明板が掲示されていた。  13:50

■鳩山中学校~笛吹通
 校庭を巡って県道に戻る。鳩川を渡り、「鳩山駐在所」の十字路を過ぎると小川を渡る。ここに架かる小さな橋はなんでも大橋というそうだが、村名にもなったという有名な橋だったそうである。
 その先しばらく行くと「大橋」という信号がある。ここに架かる橋は●新橋というが、こちらの方が大きくて大橋にふさわしい。ここから先は武蔵嵐山駅までバスも無いので、歩き通さないといけない。10分も歩いて●笛吹通へ曲がって行く。
 この道が笛吹峠を越えて行く道である。
 右手本の少しの高台に小さなお堂がある。●羽黒堂といい、中に地蔵尊が祀られている。昔、お歯黒をつけた大将の首を埋めたので羽黒となったとか、家来にはぐれたために射られた大将の首を埋めたので「はぐれ」となったとかの2説の伝承がある。
 14:24

■笛吹通~笛吹峠
 道は●ゆるやかな坂道になり、右手に「街道沼」という名のため池がある。ため池を過ぎるとあっさりと●笛吹峠へ到着した。もっと急な坂道を想像していたが、そんなことはなかった。現在では車を通すため切り通して緩やかになっている峠が多いが、ここは昔もそんなに難所の様な感じはしないのだろうと思う。
 ここが有名な理由の一つは歴史上有名な合戦があり、正平7年(1352)新田義貞の三男義宗は足利尊氏と戦ったが、最終的に笛吹峠で敗れ、越後へ落ちて行き、尊氏は関東を制圧する。この戦いで時大将であった宗良親王が、月明かりに誘われて笛を吹いて敗戦の心の乱れを静めたことから、笛吹峠と呼ばれるようになったと云う。頂上に●史跡笛吹峠の石碑が建つ。   12:40

■笛吹峠~大蔵
峠が鳩山町と嵐山町の境になっており、越えると嵐山町。将軍沢へ向かって下りて行くが、途中に鎌倉街道と伝わる道路遺構が残っていると云われるがよくわからないので舗装路を一路下りて行く。
 大蔵に入ると●「縁切橋」という大きな看板があった。案内を読むと・・・・東国へ遠征した坂上田村麿がこの地で軍勢の準備に追われて時、京から心配のあまり奥方が追って来てここで会ったが、「大命を受けているのに、妻女がが来るとは何事か、今から縁を切るぞ」と宣言したという。このことから「縁切橋」の名が付いたという伝説がある。・・・・・といっても●橋が架かっていると思われるような辺り一面、川なぞ流れておらず、なんだこりゃという感じである。
 大蔵は木曽義仲の父である源義賢のゆかりの地である。大蔵の十字路手前を右手に入って行った所の農家の庭先に●義賢廟所の額が架った覆い屋があり、中に●義賢の墓と伝えられる五輪塔がある。五輪塔は義賢本人ではなく、妻の可能性もあるらしい。
 15;15

大蔵から都幾川
 大蔵の十字路を左折して500mほど行くと森の中に●大蔵神社がある。この付近一帯が源義賢が居住したという大蔵館跡であると云われる。土塁、空堀りの跡が残っているらしいがはっきりとは確認していない。義賢は源頼朝の叔父にあたり、久寿2年(1155)大蔵合戦の際悪源太義平に攻め滅ぼされた。
 大蔵十字路まで戻り先の道の続きを行く。左手に鎌倉時代の創建と伝えられる●向徳寺がある。本尊は阿弥陀三尊像で、山門右手に●何枚もの板碑が残されており、往時を偲ばせるものとなっている。
 その先の古道のルートは従来将軍沢から大蔵館跡を経て都幾川を渡り菅谷館跡西側に出ていたと考えられていて、菅谷館跡には堀割状の遺構があり、道路遺構とみられていた。しかし昭和58年に館跡西側の堀割状遺構を発掘調査したところ、道跡ではなく館に付属する堀跡であることが確認された。ということで現在の国立婦人教育会館がある地域に付近を通過していたものと考えられている。しかし現在では通れないので、学校橋を渡って国道254号を左折して県立嵐山博物館へ向かった。   15:35

★菅谷館跡
 博物館の入場は午後4時までで、入れないことはなかったが、菅谷館跡を見る時間が無くなる為、入場せず裏手の菅谷館跡を見て回ることにした。 菅谷館跡は畠山重忠の居館跡であるとされているが、発掘調査の結果戦国時代に築造された城跡が大部分であり、畠山重忠が出陣した菅谷館そのものかどうかは検討の要があるという。この菅谷館跡はほぼ完全の姿で保存整備され、●郭跡●堀割などが残され、一帯は史跡公園として整備されている。中に●畠山重忠の像が立っている。畠山重忠は鎌倉幕府創設に多大に貢献し、宇治川の合戦や一の谷の合戦、奥州藤原氏の征討などで多くの手柄をたてたが、頼朝の死後、北条氏の陰謀により二俣川で謀殺されてしまった。    15:56

■菅谷館跡~武蔵嵐山駅
 菅谷館跡を出て、武蔵嵐山駅に向かう途中、菅谷中学校南隣にある●稲荷塚古墳に寄ってみた。周辺には多くの古墳が存在していたようだが、残っているのはここだけ。墳丘が損なわれて形が変わっており、現況では東西20m、南北の16mの円墳状である。墳丘の南側が崩され、●横穴式石室が開口している。  その後●武蔵嵐山駅から武蔵野線経由で帰宅した。   16:25
      4 西国分寺駅~狭山市駅   武蔵嵐山駅~小前田駅