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| 8若柴宿 若柴宿は千住から第8番目の宿で常陸国への入口にあたる宿場でした。水戸街道は、小貝川の渡しを越えたところで牛久沼を避け、台地上の若柴へと経路をとり牛久宿へ向かっている。隣接の藤代宿、牛久宿との距離がともに1里程度と短かく、本陣はなく、明治19年の大火で多くの家屋は消失し、記録も消失してしまったそうです。明治以後現在の国道6号線が牛久沼東側に開設され、若柴宿は取り残されるようになってしまい、反面、水戸街道の中でも最も宿場の面影を残す場所として現在に至っている。 |
![]() ■若柴宿若柴、牛久方面の知識は「牛久沼ドットコムhttp://www.ushikunuma.comが詳しく、以下借用させていただく・・・下町、仲町、上町、と続く旧水戸街道若柴宿。特に下町の八坂神社の周りには、門構えの旧家が並び建ち、往年の宿場の面影を偲ぶことが出来ます・・・。なるほど堂々とした旧家が並んでいる。新築の四脚門の家もある。藤代とはえらい違いで、ただ開発が及んでいないからとも言える。宿の東側は竜ヶ崎ニュータウンではあるが・・・。宿の周りには「ねがらの道」とか色々趣のある散歩道があるようだが廻る時間がなかった。 |
![]() ■田舎屋宿は途中で又直角に右折している。その角のおそば屋さん。旧家風で、趣あるけど正月は9日までお休みであった。詳しい紹介は牛久沼.comに載っている。角の奥は金龍寺。 |
![]() ![]() ■金竜寺寺には詳しい案内がないのでまたまた牛久沼.comよりの借用・・・足利尊氏を倒した新田義貞と代々の墓があるのがここで、元々上州大田の地に創建されたが、新田氏の流れをくむ由良国繁(ゆら・くにしげ)が牛久藩主となったときに、牛久に移りそれから寛文6年(1666)をここに移転したという・・なかなか大きな寺で参道左がすぐ墓地であった。新田義貞の墓が裏手にあるというが、新田義貞の墓は他にもあり、真偽の程は判断できかねる。山門の脇になぜかカエルの彫刻がある。六角の観音堂。またこの寺には牛久の地名にまつわる伝説や色々あるようだ。 |
![]() ![]() ■旧家この家の同じ名前があちこちに見られるのでこの地域の名主のようです ■星宮神社 金竜寺の先左手に、若柴の鎮守、星宮神社がある。天慶4年(941)、常陸国太守平貞盛によって建立、寄進されたという古い歴史を持つ。祭神は天御中主大神で、一番最初に現れた神様、創造神の元祖ということになっている。肥後国八代神社から分霊勧請して祀ったものと伝わる。 |
![]() ■成井の一里塚さて街道は若柴宿を抜け、見晴らしよい田畑が広がる中を歩き、原新田、成井と続く。やがて成井の一里塚の案内板が立っている。水戸街道15番目の一里塚である。永禄4年(1561)には存在していたといわれる。両側に残っているのは珍しい。 |
![]() 成井を過ぎ、工事中の道を行き、きもちのよい林に入ったりして、やがて坂道を90度に曲がり、JR常磐線の踏切を越える。国道6号を横断し、東側の細道に入る。ここが牛久宿の入り口となっている。 |
| 9牛久宿 (若柴から3.6km) JR牛久駅の手前、6号線の西側にくの字形の800mほどが牛久宿。下町と上町で成り立っている。江戸と水戸を結ぶ水戸街道のほぼ中央に位置する重要な宿駅であるが、次の荒川沖宿と両宿で継立を行う合宿であった。人馬の数は規定より多い50人・50疋の人馬を常備していた。水戸当主がお国入りの時、牛久宿はその場合の宿館に指定されていた。このような時は、隣接の定助郷7か村が牛久宿へ人馬を提供して補ってきた。この負担が大変で文化元年(1804)女化原の助郷一揆が起きている。本陣は正源寺あたり、脇本陣はなかったようである。若柴同様牛久市の知識は「牛久沼ドットコムhttp://www.ushikunuma.comが詳しい。 |
![]() ■牛久宿宿の中であるが、本陣跡とか旧跡らしきものは全くと言ってよいほど何もない。 ■芋銭河童碑 郵便局の横、「芋銭河童碑道」の石標がたっているので左に進んでみる。この地域の資料を準備しておらず、よくわからずに進む。道が左右に分かれて、左が旧牛久城中区域ということで、左側を行く。角に牛久城大手門跡の碑が建てられている |
![]() ■牛久城大手門跡の碑このあたりが牛久城の大手門あたりだそうで、この先が城跡かと思い竹林の中など付近を歩いてみるが、それらしきものはなし。城跡はこの先の牛久沼湖畔であった。城はこの看板から後ろ900mもあるような広大なものであったそうです。 ■得月院 案内板を見て小川芋銭の墓をたずねる。小川芋銭は明治元年(1868)江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた牛久に帰農後、牛久沼にちなむカッパの絵を描いた。 |
![]() ■五輪塔(市指定文化財)本堂裏墓地の中に建っており、文禄3年(1594年)に得月院を開基した牛久城主由良国繁の母「妙印尼(みょういんに)」の墓碑で、「文禄三年」と刻まれている。 ■小川芋銭の墓(右) 小川家の墓として一緒に眠っている。 得月院の先には牛久沼湖畔に小川芋銭の散歩道として、河童の碑であるとか雲魚亭とか牛久城陣屋跡であるとか巡ってみたいものはあるのだけど、街道からはずれるので又の機会でということにした。 |
![]() ■明治天皇行在所碑明治17年11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。明治天皇の女化行幸は、この演習の視察のために牛久で宿泊した記念碑。 ■正源寺 山門の上が格子でなかなか風情がある。両側に石造り?の仁王像が建っている。本堂は下った位置にあり山門と違ってモダンな建物。山門の右隣は旧観音堂がある。山門と観音堂は昔のままのようでした。 |
![]() ■薬師寺旧街道は国道6号と合流する。JR牛久駅を過ぎ、田宮地区にあるのが田宮山薬師寺。弘仁七年(816)徳一和尚の開基と伝えられますが、幕末の頃より百年以上も無住となり荒廃しましたが不思議なご霊験により蘇ったとあるがなにかはわからない。平成8年建立の派手な鐘楼がある。 ■宝匡印塔(市指定文化財) 明和5年(1768)天下太平、五穀豊穣を祈念して建てられた。寄進者の名前に苗字があるのが貴重だということ。案内板が古く、後ろの塀にもたれかかっていた。 |
![]() ■中根。荒川沖一里塚この先6号線と一緒で排気ガスをがまんして歩く。圏央道をくぐり、ひたちのうしく駅は科学万博の臨時駅でそのまま使われている。なかなかモダンな駅。土浦市に入りすぐ、国道の両側に一里塚がある。左側が土浦市で「荒川沖の一里塚」、右側が牛久市「中根一里塚」とあって名称が違っている。日本橋から17番目の一里塚である。このすぐ先はJR荒川沖駅で次の荒川沖宿がある。午後3時だけど土浦宿まで行くには中途半端なのでここで終了し、駅へ向かう。次は荒川沖宿から始める。荒川沖宿はこの先の荒川沖南区交差点より始まっている。本日の行程 21.9km |
| 7 藤代宿へ | 10荒川沖宿へ |