15 府中宿から竹原宿  歩行地図
  恋瀬橋−国分町−一里塚−杉並−行里川−竹原宿      5.87km

15府中宿
府中とは石岡のことだが、石岡の名前は明治からのもの。石岡は古代東海道の終点であり、常陸国府と常陸国分寺、国分尼寺などが置かれた古い街で史跡には事欠かない。江戸時代は水戸頼房の五男頼隆が初代府中藩主となり、石高二万石であった。昭和4年の大火により中心部がほとんど焼失し古い町並みは残らず、大火後の町並みが残っている。

 2007年5月3日石岡駅9時24分到着。観光案内所へ寄り歴史関係案内図をもらい清涼寺まで戻る。国衙跡、総社などは前回3月4日に訪れているので、写真はそれを使用する。前回まで・・・・恋瀬川を渡り石岡市へ入る。国府7丁目交差点を左に取り、医院の所を左の細道へ入り、つきあたりを右折して355号線にもどる。定石の通りカギ形をとっているここから府中宿が始まる。左手少し奥に清涼寺がある。・・・・・    
★清涼寺
 元徳2年(1330年)に尼寺が原(国分尼寺の地)に建立し、国分尼寺の伽藍の一つであった。文明12年(1480年)ごろ現在の地に移った。府中城落城にて焼失したが、その後府中城主となった佐竹義尚が菩提寺として文禄元年(1592年)に再建した。文亀元年(1501)曹洞宗になった。ここから標識に従い北方石岡小学校へ向かう。
★陣屋門
 建物は明治に取り壊され門だけ、石岡小学校校庭に移築されている。藩主松平頼隆は江戸に常駐していたので、代わりに地元で政務をとるために設置された役所が陣屋で、城というほどではないが一応の防備設備を持っていた。文政11年(1828)江戸小石川の藩邸を新築した際に余った材木を使い建築したもの。

★常陸国衙跡
 常陸国府の成立は、七世紀後半から八世紀初頭であって、国府も大規模なものであった。国分寺、国分尼寺・国衙工房などの施設が存在した。国衙の所在地は、石岡小学校付近にあたる。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や、倉庫群など、さまざまな建物があった。常陸国府は、東日本の軍事・経済の拠点として、又、宗教文化の中心としての、重要な役割をになっていた。・・・案内板より

★常陸総社
 古代国司は国内の寺社の参拝と管理をする必要があるが、実際に神社を全て回って歩くことは困難であるので、国府の近くに有力な神を合祀した総社を作り、これを参拝することで全ての神社を回ったことにするという、便法として総社というものが造られた。ここの総社も国衙の近くに作られ、石岡小学校の南側に存在する。天平年間(729〜)天神地祇六柱を集めて創建したと伝えられる。

★丁字屋
 旧道に戻り石岡の中心街、中町商店街を行く。江戸時代末期に建てられた染物屋さんで木造2階建ての商家建築です。昭和4年の大火で焼失を免れた建物。、「まち蔵藍」といって内部の見学が可能だけど、残念ながら五月の連休だったので、おやすみであった。
★福島屋砂糖店
 丁字屋の対面。ここも休日でおやすみ。大火後の建築で壁は黒くてよくわからないがコンクリート製。

★ 十七屋履物店.
  これも大火後の建築木造2階建の看板建築。看板建築というのは、・前面の壁面が垂直に立ち上がっている。壁面は銅版やモルタル・タイル張りである。などの建築をいうことになっている。2階は柱型の左右に縦長の窓を配し、軒下にはロンパルディア帯をあしらっている。昭和初期の商業建築の好例であるといわれる。ここの界隈はこういつ建築が多く楽しい。
★本陣跡
  パンとケーキの店、ヴィオレのあたりが府中宿本陣があった所。店の後ろの家の表札が「矢口」で矢口家は本陣を勤めていた旧家である。中町商店街は昭和4年の大火後の建築で、それでも築80年以上の重厚な建築があちこち残っており、建築好きにはたまらない地区ではある。しかしそう見て回ってもいられないので先に進む。
まず国分寺をめざしまっすぐ北に進む。青柳鐵店という何とも時代がかかった、それでいて普通のビルのある交差点を左に曲がってすぐ細い道を右に曲がる。

★剣道指南場
 右に曲がった左手にある古い屋敷。
青柳剣道指南場という。これも時代がかかった建物
★国分寺跡
 右に曲がった突き当たりが、国分寺跡になる。国分寺は、聖武天皇の時代、天平13年(741年)勅命を以って天下諸国六十六ヶ所に建てられたもので、常陸国の場合はここに置かれた。寺域は、東西約270メートル、南北約240メートルの規模を持っていた。国分尼寺は少し西北方向の所にある。現在の寺そのものは真言宗国分寺といって普通のお寺。発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、七重塔の位置が、寺域東側に推定されている。
★旧千手院山門
 千手院は、弘仁9年(818)、行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、近世では府中における大寺のひとつになったが、大正8年(1919)3月、国分寺と合併して廃寺となり、現在ではこの山門が残るのみ。

★若松の道標
 国分尼寺へ行く途中、若松町という石標の前の五差路に立っている道標で「左かきおか まかべみち みぎうつのみや かわらい道」と刻まれている。
★国分尼寺跡
 道標の右北に府中小学校がありその北辺に広大に草原の様に広がっている。金堂、中門跡、講堂跡の基壇が残っているだけ。国分尼寺の総本山は奈良の法華寺、国分寺の総本山は東大寺となっている。

★石岡の一里塚
 さて先ほどの青柳鐵店のある交差点まで戻り、JR常磐線の線路を越える。陸橋の上から石岡駅が見えるが、ホームのには鹿島鉄道の線路がまだ残っている。本年3月31日をもって廃線になってしまった。前回来たときはまだ動いており、写真を撮っている人もいたけど。やがて街道の両側に大きな塚が見えこれが石岡の一里塚。右側の榎は枯死したようだ。ここから先の街道は白黒写真のようにみごとな杉並木だったようで、水戸藩が親藩のためだっそうです。現在は代替品の様に小さな並木が植えられている。地名も杉並とかが残っている。関東鉄道バス石岡車庫の先で、県道を左に入っていく。行里川というところ.。

★行里川旧道
 あまり車も通らず静かな通り。両側は結構な農家が続いている。
★長屋門
 左手に非常に大きな長屋門に出くわす。門だけで一棟のアパートくらいある。歴史のある名主クラスの家であろうか。道は右方向へ弓なりに進み、県道を横断して川を渡る(この川は園部川という看板が掛かっていたが、1/25千の地図は行里川)美野里町にはいると言いたいが合併して小美玉市という。(美野里町の方が好きだけど)。竹原坂下を通って右に竹原神社を見ると次の竹原宿へ入ることとなる。

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