水戸街道歩き旅









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  水 戸
  
 1 千住宿から新宿・松戸宿へ  歩行地図
 千住追分-荒川土手-小菅-綾瀬駅-西亀有-中川橋-金町-葛西橋-松戸駅 12.8km

水戸街道1日目    2006年5月4日  晴
 10時小菅駅着  高速道路が被さっており、雰囲気は良くない。水戸街道は本来、千住宿から枝分かれしてくるが、荒川に分断されているので小菅から出発する。駅を出ると東京拘置所である。江戸時代、寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。後にそこは、将軍の鷹狩りの際の休息所にあてられ、元文元年(1736)には頻繁に狩をした吉宗の命により小菅御殿が造られた。明治にはいって一時小菅県庁が置かれたこともある。その後曲折を経て東京拘置所となった。写真は撮らずに通過する。
    
※ 2010年5月3日 北千住から荒川土手までの部分を追加しておきました
   
※ 写真をクリックすると拡大します

千住宿の高札場を過ぎ、左手に「槍かけだんご」の店を過ぎると、少し複雑な●交差点に出る。ここが水戸街道との追分けになっていて、真っ直ぐ行くのが「日光街道」で、すぐ荒川の土手に突き当る。水戸街道は右手へ直角に曲る細い道で、●入口の左手は小公園になっている。
  公園の前には「東へ 旧水戸佐倉道 北へ 旧日光道中」の道標が立つが、これは本物ではなく、本物の道標は足立区立郷土博物館に収められている。細い街道へ入り、千代田線、TX、JR、東武線のガードを潜って行く。

清亮寺
 元和5年(1619)の創建。明治初期日本医学発展のために解剖された囚人の 解剖人塚がある。また「槍掛松」でも有名な寺でもある。
 
槍掛松
 街道一杯に松が張出し、大名行列ができないので松を切るかとなった際に、徳川光圀公が"切るには惜しい名松なので、ここで休憩を取り槍を松に立てかけて、再び出立するときには槍もちが反対側に回ってから槍を持ち直せば、槍を倒したことにはならないだろう"と言い松も切られずに済んだ、という話がある。その松も昭和20年頃に枯れてしまったそうです。現在は写真と碑が残るだけ。

荒川土手
 寺をでるとすぐ、荒川土手にぶつかり、水戸街道はこの荒川で遮られてしまう。現在の荒川は以前は「荒川放水路」と呼ばれ、大正2年から昭和の始めにかけて人工的に掘削された人工河川である。もちろんむかしはこんなものはないのでそのまま葛飾の「新宿」へ繋がっていたわけ。
 土手の上に登ると、河川敷が広く開け、スポーツを楽しんでいる風景が見られる。ここから先は、道が途切れるので、やむなく下流にある「堀切橋」を歩かないといけない。約2kmの遠回りで、回っていくと小菅3丁目の水戸街道入口へと続く。

小菅3丁目水戸街道入口
 どうこう言う道でなく普通の道。水戸街道の入り口だとは思えない。特に説明板もない生活道路
水戸橋
・・その昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没した。元禄8年(1695)水戸黄門がこの橋のたもとで妖怪を退治し、「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」と自ら筆をとったものといわれている。

鵜森橋
 古隅田川に掛かる橋。ここに流れる川は古隅田川という。隅田川は元々は入間川の下流部であり、足立区と葛飾区の境界となっている。改修の歴史が複雑で一言で述べるのは難しい
JR綾瀬駅付近
 小菅3丁目の交差点を過ぎ、左斜めに入っていく道を進む。道なりに進んでいくとJP常磐線の高架に近づき、右折して線路沿って歩きます。この辺り、大曲ともいわれているという。
     9:40

 西亀有3丁目交差点を過ぎ、幹線をほぼ真っ直ぐ進んで行く。道上小の辺りは親水公園になっている。
アリオ亀有
 亀有2丁目交差点の左手はショッピングセンター「アリオ亀有」というのができている。元は日本板紙の工場があった地域で、現在、亀有、金町地区は大きな工場が移転し、大規模開発が盛んに行われている。中川対岸の金町地区では、三菱製紙中川工場跡地の再開発が都市基盤整備公団により進行中。その先新中川橋を渡る。渡ってすぐ東詰を右折すると新宿に入っていく。
    10:05

2  新宿
 新宿が発展したのは、江戸時代に入ってから。水戸藩をはじめ安房、下総、常陸や奥州方面に領地がある大名や御家人、一般の旅人などでにぎわった。また佐倉街道への分岐点もあり、成田山へお参りする人も多くにぎわった。明治17年中川に中川橋が架けられたが、通行料を取ったので、賃取橋ともいわれた。この橋銭は町の主要な財源となった。しかし、明治30年(1897)に常磐線が通る際、通行料が取れないなどの理由で反対運動があったようで、新宿をはずれて通り、さびれる方向へ変わっていく。
 現在の新宿には、江戸時代以前の面影が今も残っている。渡った所から右へ折れ曲がり、また左へ折れそれぞれの角に寺社が建つ道筋もその一つ。 警備上の問題からまっすぐ見通せないようになっている。本陣はなく問屋があるのみ。

日枝神社
 中川橋を渡り、右折して現在の水戸街道方面へ行くと、日枝神社がある、鳥居は新しいが山王神社形式の特色ある形式のもの。祭神は日枝大神(大山昨神)、宝暦(1750頃)新宿の守護神として鎮座、享保14年に現在地へ移転したという。
水戸街道道標
 水戸街道のそば屋脇に道標がある。右佐倉街道 左水戸街道と刻まれており、成田山にお参りするにはここから右へ佐倉街道を行くことになる。佐倉街道は近いうちにここから訪ねよう。   
10:30

地蔵菩薩石仏群
 水戸街道に出て、すぐJOMO脇を左折、
旧街道の道幅拡張工事にともなって地蔵等を一箇所に集めたという記念碑があった。
宝永3年、享保7年建立ののもの 
奥に帝釈道の道標(明治30年)もあった。a

葛西神社
 新宿から国道6号線につかず離れず沿ってきた旧道は金町5丁目で、大通りにでる。6号線はその手前で陸橋をのぼっており、旧街道は金町駅前辺りで左に折れて葛西橋を渡って行くその手前に、葛西神社。『・・享保年間当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時には「はやし」として流行し、・・・』とのことです。
江戸川風景
葛西神社から土手に上がると江戸川である。対岸は松戸市。 
11:10

金町関所跡
 葛西橋先の東京都ポンプ場前に金町関所跡碑、松戸にはここから渡し船で行っていた。松戸に入り土手づたいに行くと 天領松戸宿の入り口を示す「是より御料松戸宿碑」が建っている。ロータリークラブの寄贈によるもの。対岸の金町関所から渡し船で江戸川を渡った旅人は下横町に上がる。ここから松戸宿である。このあたりは渡船場河岸(下河岸)とよばれ、銚子から利根川をさかのぼってきた鮮魚をあつかう魚市場で賑わった。ここから葛飾橋を渡り対岸の松戸へ行くことになる。    
11:30

 3 松戸宿へ