1 千住宿から草加宿へ  歩行地 図
 千住大橋-北千住-梅島-竹の塚-草加  10.3 km
 千住宿  
江戸四宿の一つで、日光道中と水戸・佐倉道の宿も兼ねる。本格的宿場となったのは寛永2年(1625)に日光道中の初駅となった段階からで、当初は千住町内のみであった。万治元年(1661)には千住大橋を越えて荒川右岸の小塚原町・中村町を加えて、掃部宿、小塚原町、中村町ととなり、千住八ヶ町とよばれるようになった。掃部(かもん)とは千葉氏の一族の石出掃部亮吉胤のことで千住大橋の架橋や新田開発に功があったことにちなむ。
本陣1 脇本陣1 旅籠55

■千住大橋~市場入口
●千住大橋
  橋が架けられたのは徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところであったといわれる。江戸時代を通じて一回も流出がない名橋であった。
●橋戸稲荷神社と鏝絵
   橋を渡ると足立区で左側には大橋公園、芭蕉が千住宿で船を上がったという記念碑が建つ。その奥に稲荷神社があるがあまり有名ではないらしい。案内板 このあたり川越、飯能方面の物資の集積所として栄えた。千住宿の人々の信仰を集め現在に至るという。拝殿の前扉に伊豆長八の鏝絵があるというが残念ながら確認できず。

■市場入口~旧千住宿
●奥の細道矢立の碑

 少し行くと4号線は二手に分かれ、旧道は右手になる。角に奥の細道矢立の碑がある。(芭蕉の「おくのほそ道」の旅が千住から始まったことを記念して建てられた) 右手奥はにやっちゃ場の名残り、足立市場である。 
 江戸時代この通りで毎朝、野菜・魚を売る市が開かれ、ヤッチャヤッチャのセリの掛け声から「やっちゃば通」と呼ばれた。左に「千住宿歴史プチテラス」(千住宿の歴史館)がある。 千住仲町の信号を越えしばらく歩くと賑やかな交差点に出る、左歩道上に●高札場跡碑

●千住宿
 スーパートポスがある通が旧千住宿。足立区でも一番賑やかな商店街ではないだろうか。駅に通じる交差点を渡ると元々の宿であった千住1丁目、宿場町通りという。この先には問屋場跡の碑とかあるらしいが見過ごす。●千住ほんちょう公園には高札場の説明と千住宿の説明版がある。

●千住宿の旧家  右手に商家造りの「横山家」、安政年間の建築。左に斜め間口の絵馬屋の吉田家。どちらも個人宅で住まい中なので外から見るだけ。
●水戸街道分岐
 横山家先の所に水戸街道の分岐点がある。右折が水戸街道、細い道路である。分岐点の所に道標があったが、じゃまなので撤去され足立区郷土館に置いてある。水戸街道の先は本来水戸まで続くのだけど荒川で分断され行くことができない。川の向うは小菅駅から行くことになる。

■荒川~梅島駅
  骨接ぎで有名な名倉医院を右に見ながら旧道は荒川を斜め左方向へ行っているが、我々は千住新橋を渡るしかない。左へ少し行って梅島駅方向へ行く。●荒川は以前は荒川放水路といって大正から昭和にかけて人工的に掘った川である。北区岩淵水門で隅田川と分岐している。岩淵水門は昔小学校が近かったので懐かしいところである。それにしてもこんな大きい川を人力で掘るとはすごい。といっても江戸時代の利根川には負ける。昔は機械などなかったし。
●日光街道分岐点
 梅島駅手前には道標が一つある。右側が千住からの旧道。左側が東武線が昔通っていた線路跡である。梅島駅ガード下をくぐって竹ノ塚へ向かう。駅から草加まではほぼ真っ直ぐ。

■梅島~毛長川
●炎天寺

  草加までの途中で有名なのは炎天寺であろう。平安時代の後期八幡太郎義家は戦勝記念に寺の隣に八幡神社を建立、季節が6月なので村の名を六月、寺の名を幡勝山、祈願がかなったので成就院,炎天のさ中だったので寺の名を炎天寺としたという。小林一茶でも有名でこの寺にたち寄って、「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」という句をのこしたと言われている。以来は俳句で有名になり寺内は句碑、蛙合戦の像など蛙にちなんだものが多い。そのほか竹ノ塚駅西側伊興地区は寺町といって広重の墓のある東岳寺など、白旗古墳など史跡が多いが街道から遠いので行けなかった。

毛長川~草加駅
●火あぶり地蔵

  その後草加バイパスを越し埼玉県に入る。毛長川が県境だ。吉町5丁目信号角に火あぶり地蔵が祀られている。 (奉公に出ていた娘に母危篤の知らせが届き、主人に暇を願い出たが許されず、主人の家が焼けてしまえば母に会えると火をつけた。娘は捕縛され火あぶりの刑となった。村人は娘を哀れに思い地蔵を建てた)。
●草加宿入口
  そこを過ぎ、草加駅に向かう左斜めの道が草加宿の入り口になる。 

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