19 大沢宿から今市へ 歩行地 図
 大沢−大室−水無−森友−七本杉−下今市  7.5km
19 大沢宿
大沢の名は、建久年間(1190〜1198)源頼朝がこの地に狩に来た時、この地をその家来に与え開墾をさせ、地名を御恩沢としたのがなまって大沢となったといわれる。現在の大沢宿の町並みには、度重なる大火のため旧街道の面影を感じさせるものは、ほとんど無くなっている。
本陣1 脇本陣1 旅籠41

 2008年1月3日の続き14:10
■大沢交差点〜大室入口
●大沢交差点

 大沢宿入口になります。さらに交差点の先にまた●杉並木に入る。ここの並木には大沢の古杉やら、枝喰い杉とか、名前がついている杉があるそうだが、案内板などなく、杉の巨木ばかりで、全くわからなかった。かろうじて●大沢の4本杉であろうと思われるのを発見した。4本が正方形のように植わっている。互いに倒木を防ぐためという。

 ■大室入口〜水無
 杉並木の途中、大室の信号で右手へ入る道がある。その道をしばらく進んでいくと、左手に●御殿開田之碑が立っている。ここは将軍が御社参の折りに泊まった大沢御殿の跡で、最後の留守居役安西氏の孫が明治百年記念に跡地を開田した記念碑。
●大沢の一里塚  14:40
 日本橋から32里目。左右とも塚があり、右の塚に二本の大杉が生えている。

●歩道部分二種類
 ここの部分の並木も歩道部が高く、主として車道を歩いて行った。歩道の所は畑が続いていて、あぜ道のような所山道のように、陽も差し込まないような鬱蒼な杉が続いている所もある。いづれにしても車道が続き騒音がうるさい。
 やがて杉並木が切れて、その先の方は、水無という地名になる。地名の由来は「名主清兵衛宅に梨の古木があり、水気の多い梨がなるので水梨と呼んだところから水梨村と呼ぶ」ということから。いつのころからか水無と書くようになったという

■水無〜下森友
 水無の先で又国道と分かれて行く。この道は、砂利敷で全く歩きにくい。江戸時代の街道がそのまま残っているような感じがする。ここの木には個人の名が書かれたプレートが下っている。これは杉並木オーナー制度で、個人が1本1000万円で購入し、運用益で保存事業を行うというもの。1000万円というのはちょっとな-。もっとも買い戻し制度があるようだけど。プレートはここだけでなくほかの並木にもあった。 

 ■下森友〜七本桜
 ●「下森友」のバス停の先の交差点で国道と合流する。右へ行くのが「奥州道」、左へいくのが「いたばし道」。右手奥に「来迎寺」がある。森友の信号の先は、ここもまた国道と分かれて、旧道は右を行く。●鬱蒼とした杉並木が続く。  15:10

 ここの並木は舗装状態も良く歩きやすい。しかしたまに車が来るのが玉にきず。しばらく歩くと、左手に割れ目から桜の木が出ている珍しい杉がある。●「さくらすぎ」と呼ばれている。桜の種が杉の割れ目に入って地面に根を下ろしたものとのことで、春には桜の花が咲くとか。桜と杉が共存している珍しい形。
 15:30

●並木ホテ
 桜杉の先右手に日本橋から33里の一里塚跡がある。右側の塚上の大杉の根元は大人4人程も入れる空洞で「並木ホテル」という名が付いている。空洞の中は真っ黒で、昔地元民がたき火をしたためといわれている
七本桜〜下今市
●和尚塚

  東武線の先、日光市役所前バス停近くの国道脇にある。元々200年以上前、行き倒れた僧侶を祀った所だというが、戊辰戦争の時の無名戦士の墓となっている。 旧幕府軍兵士は、多くは遺体が野晒しにされた。見かねた地元民は、主に東木戸方面の遺体を集めてこの地に埋葬。氏名不明の旧幕府軍兵20名前後が葬られているという。 15:40

 下今市駅近くで国道と合流する。合流地点に●追分地蔵がある。追分地蔵は、高さ2mと大きい。この地蔵は、弘法大師が日光含満ヶ淵に建てたが洪水で流され、大谷川の砂原に埋まっていたのを近くの人が大石と思い楔を打ち込んだら赤い血が出たという。ここは●例幣使街道との合流地点でもあり、街道の標柱も建つ。15:50

 本日はこれまでにして、下今市駅より東武線で
帰宅した。  本日の距離 23km程

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