3 越谷宿から粕壁へ  歩行地 図
宿入口−越谷本町−新宮前橋−久伊豆神社−大沢橋−北越谷−ノ割−春日部 13.2km
越谷宿
   越谷宿は1899年の大火で、町のほとんどを焼失して昔の面影は残っていない。
宿場は越谷本町から北越谷の旧道が東武線にぶつかるまでで、本陣跡は北越谷側にある。
両側には、戦前のものと思われる洋風木造ペンキ塗りの病院、石造りの建物、黒塗りの塗屋 造りの商家など古い建物があちこちに残っている。

2006年8月27日草加宿からの続き
■瓦曽根〜元荒川・大橋

●照連院

 4号線瓦曽根から左に●旧道へ入る。草加に似た感じの道である。曲がる手前の4号右手に照連院がある。千徳丸供養墓があり、千徳丸は武田信玄の孫で、武田勝頼の子、武田氏が滅亡したとき、家臣秋山長慶はこの地に落ちのびた。千徳丸が早世したのでここで供養したという。越谷駅前を通過して北越谷へ入る前に右折して少々長い寄道を行う。 

●久伊豆神社
 越谷の総鎮守にして郷社。有名なの藤の花で5月の「フジまつり」は人でぎゅうぎゅうになる。うっそうとした長い静かな参道を入って行く。平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵もある。久伊豆神社というのは埼玉にはけっこう目につく。地域性に関係あるかも。祭神は大己貴命(大国主)である。名前が「くいず」とも読めることから、クイズマニアには有名になった。

●天嶽寺
  久伊豆神社参道の左手にある。入口付近の庚申塚には石仏が並ぶ。家康、秀忠、家光は狩りのためによく越谷宿を訪れて当寺に立寄ったといわれる。久伊豆神社の前を流れているのが元荒川でその対岸に鷹狩りの際の将軍休憩用の御殿が建っていた。

●御殿跡
 慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越谷の土豪会田出羽資久の敷地内(元荒川べり)に移し壮大な御殿を建造した。明暦の大火の際江戸城本丸が焼け落ちたので、仮居館として移設されてしまった。この御殿は中原御殿とか小菅御殿とかと同様で鷹狩り用に立てられた物である。 ●建長元年の板碑も碑の横に立っている。(建長元年(1249)銘の年号が刻まれ市内で発見された最古の物という。

■大橋〜北越谷
●越谷の旧家

 元荒川を大沢橋で渡る。地図では大沢橋とあるが、橋銘標には単に大橋とある。
元荒川はその名の通り、元の荒川で、荒川が現在の川筋になったのは、江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が付替えを行ってからのこと。春日部には元利根川というのもある。ここらへんが越谷宿の中心地。旧家もちらほら残っている。

■北越谷〜一ノ割
●北越谷駅前

 駅前に高層マンションが建ち雰囲気を変えた。
●香取神社
 越谷では大きい神社で本殿の彫刻が見事である。説明によると、彫刻師は浅草山谷町・長谷川竹次良で、この板壁の北面には、川面で布を洗ったり、製品を竹竿にかけて干したりする紺屋の労働作業を表現した図柄が彫刻されている。江戸時代、越谷・大沢は、紺屋の盛んな所で、当時の作業状況を知る貴重な民俗資料といえる。なお、越谷にはこうした労働作業を彫刻したものはここにしかみられないとのこと。 

●宮内庁の埼玉鴨場
 東武線の高架をくぐると元荒川の土手にでる。桜の名所となっている。その先に鴨場がある。外交官や閣僚、議員、最高裁判事などを招いて伝統的な鴨猟が行われているという。もっともここで捕獲された鴨は食べられることはない。足にプレートを付けて放鳥されている。立入りは不可能。門が固く閉じられている。この先バイパスをくぐりまた4号線に合流し、特にめずらしいものはなく、淡々と歩く。
●一の割一里塚跡
   なんの目印もなくでかい看板の隣であやうく見逃すところだが説明もなんにもなし

■一ノ割〜春日部
●圓福寺

   街道を歩いていると一ノ割駅に向かう表示板と一緒に、圓福寺の看板があり、呑龍上人誕生の地とあるので、700mあるが行ってみる。當麻曼陀羅他色々仏像は多いが拝観することができない。浄土宗のHPによると・・・圓福寺は呑龍上人の生家井上家の菩提寺で、上人が幼少のころ手習いに通うなど、上人の誕生地ともいえる寺。呑龍上人江戸時代の浄土宗僧侶、呑龍上人は、貧者救済に尽力し、また、多くの孤児を弟子として育て、「子育て呑龍さま」として現在も信仰を集める。上人が幼少期に学んだ圓福寺で、上人生誕450年を記念し、慶讃法要、稚児行列、雅楽・舞楽の奉納などが行われる・・・とあって生家の菩提寺で生誕の地というわけではなさそう。(写真は2007.1.1に取り直したもの)

野田線のガードをくぐり左へ折れるところが粕壁宿の始まりとなる。

 2 草加宿へ  4 粕壁宿へ