21 鉢石宿から神橋へ 歩行地 図
 鉢石木戸跡-東武日光駅前-竜蔵寺-市役所-神橋  1.8km
21鉢石宿
 鉢石(はついし)宿は、正保元年(1644)に宿に定められ、日光街道の最終駅となる。元々、766年に勝道上人により日光が開山されたときの輪王寺とともにできた門前町で、鉢石の地名の由来は、鉢の形をしていた石があったことにちなんでつけれたという。その鉢石は、現在も史跡として保護されている
 本陣2、脇本陣0 旅籠19

2008年1月6日の続き 14:00
 ■JR日光駅~御幸橋
日光街道最後のコースはJR日光駅前から東武日光駅を通り、神橋まで真っ直ぐな道で、日光参道として観光客やみやげ物店が多く賑わう。本日は正月の参拝も終わり、人出はあるものの比較的落ち着いた感じがした。東武日光駅前広場では猿回しが出ていた。「日光猿軍団」で有名になったけど、違う団体であった。

●竜蔵寺  14:10
  御幸町に入った所、右手に竜蔵寺がある。畠山重忠の末子重慶が庵を建てたのがこの寺の始まりという。鎌倉幕府に謀反を企てたと誤解され首を斬られた重慶を弔うために寺が建てられた。本堂右手に「重慶阿闇梨塔」と彫った墓碑がある。また傍らに、戊辰戦争で戦死した芸州藩士墓がある。

 ■御幸橋~神橋
竜蔵寺の裏手稲荷神社の境内には、西行戻り石と呼ばれる大石がある。西行は69歳の時東大寺再建の基金集めに、奥州平泉まで旅したが、帰りに日光山に立ち寄り、僧たちの知恵を試そうとした。日光権現がこれを知り、小僧に姿を変え、大石に乗り、西行に話しかけ、西行が「どこへ行く。」と聞いたのに対し「冬萌(ほ)きて夏枯草を刈りに行く。」と歌で答えたという小僧の知恵に驚いて、この場で引き返したという。

 元の道に戻り御幸町の西の外れ、「そば処 魚要」となっている所は、入江本陣跡といわれているようだが確証はない。入江家は「御宮御菓子屋、本陣兼帯」といわれ日光御用達のお菓子屋であった。続いて高野本陣跡は、右手のゆば屋「さんフィールド」の店の駐車場の裏にある。屋号が付いた土蔵などが残る。個人宅なので土蔵だけ撮らしていただく。

●史跡鉢石(はついし) 14:35
 宿の名前のいわれとなった鉢石は、その先日本生命の隣、案内標識がある所を少し入った場所にある。一説には勝道上人が日光山を開いた時、ここに托鉢の鉢を置いて一休みしたことから名がついたともいう。
●天海上人像
 街道はずれに天海上人像がある。天海は安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧である。家康に取り入り、家康に神号の「東照大権現」を送り、100歳以上も生きたといわれている。正に政僧というべき人物。

 ●板垣退助像
 左手金谷ホテルの登り口に板垣退助像がある。なぜあるのかというと、戊辰戦争の時、幕府方の大鳥圭介と官軍の板垣退助が話し合って日光を戦火から守った功績があるということによる。
●杉並木寄進碑
 日光橋を渡った参道脇にある杉並木寄進碑がある。大沢宿手前にあった松平正綱の杉並木寄進碑と同じもの。

●日光街道ゴール (^。^)
 左の石段を登って行くと、右手に勝道上人に二蛇を与えて大谷川を渡らせたという、深沙大王を祀った蛇王権現祠がある。その隣にある樹齢550年、樹高43m、目通り5.75mの大杉が有名な太郎杉が大枝を国道に伸ばしている。  昭和30年代国道拡幅で切る切らぬの大論争を起こしたという大杉である。栃木県名木百選に指定されている。  14:50
 
 さて日光街道(道中)は日本橋からここで終わりを告げる。距離にして35里19町(約140.5km)ということになっている。ゴールは神橋としたい。これから先の日光の紹介はいくらでも本が出ているのでやめにしておきたい。

●神 橋
 寛永13年(1636)東照宮の造営が終わった時、以前からあった山菅橋を架け替えて、今の形の橋とし名を神橋と改めた。渡る手前の石垣のすぐ上に半ば埋もれている下乗石とともに重要文化財に指定されている。一般の通行は禁じられてきたが、現在は有料で渡らせている。以前の山菅橋については、「天平神護2年(766)、勝道上人が日光山に分け入ろうとして、谷が深く渡れずにいたら、深沙大王が現れて、青赤の二蛇を放ち橋としたので、上人は草を刈っている翁の山菅を蛇体に覆って渡ったという」伝説がある。大同8年(808)、上人は、その跡に橋を作り山菅の橋と名付けたという。日光二荒山神社の参橋である。

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