東 海 道
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日本橋から品川宿へ 歩行地図 |
日本橋-京橋-銀座-新橋-芝・浜松町-高輪-品川 約8㎞ |
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日本橋
天正8年(1580)江戸に入城した家康は、すぐさま江戸経営に着手した。まっ先に行ったのが日本橋川の整備と架橋といわれます。慶長8年(1603)日本橋が架けられ、翌年には日本の街道の起点として決められていく。以来、何度も架け替えられてきた日本橋ですが、現在の石造りの日本橋は1911年に建造されたもので重要文化財に指定されている。広重の絵では銀座方面から見ており、左側奥が三越、右奥は魚市場であった。七つ立ち(朝4時頃)の大名行列が出発している。 |
2017年1月7日(再訪・改訂版)
★日本橋
東海道を歩き終えてから10年ほどが経ち、その後の変化を見てみたいと思ったり、今までの内容が貧弱で不満が残ったりで、一度改訂版を作ろうかと思い、まず東海道は日本橋を再び訪れた。●日本橋を9時半頃出発。
初代の日本橋は慶長8年(1603)木造の太鼓橋が架けられたといわれるが、●現在の日本橋は明治44年(1911)年完成で国の重要文化財である。首都高速の架橋が覆い被さり味気ないことおびただしく。撤去してトンネルを通すという話も出てきているが、実現したらすばらしい。 「お江戸日本橋七つ立ち~~~」と歌われるように、江戸人は朝4時には出発していた。 日本橋川左岸に魚河岸があり、●日本橋魚市場発祥の地碑が北側橋詰に立っている。●昔の写真を見ると、江戸橋にかけて魚河岸が並び大層な賑わいであったようだが、関東大地震により壊滅し現在の築地に移転した訳である。 |
又日本橋は日本の国道の元標であり、魚河岸跡碑と反対の所には●「東京市里程標」の碑があって、脇に●主要都市までの里程標が置かれてある。橋の真ん中には日本道路元標のプレートが埋め込まれているのだが、見るには危険なので、里程標の脇に●レプリカが置かれている。 橋を渡った左手、●「滝の広場」は「晒し場跡」で、処刑人の首などを晒していた怖い場所であった。現在は日本橋桟橋と称する施設があって、日本橋川から隅田川へのクルージング船が出ていて、一度乗ってみたことがある。 |
日本橋~京橋
さあ日本橋を後に東海道の旅へ出かけよう。
最初に出会うのが「日本橋」交差点で、ここを右折するのが「甲州街道」。左折すると●コレド日本橋が建っている。以前は東急デパートであり、その昔は白木屋があった所。白木屋は寛文2年(1662)の創業であったが、昭和7年の大火後、東急に変わり、2004年にコレドに変わった。
デパートの入口に●白木の名水井戸が残っていたが、現在はというと、裏手の広場に移設されていた。 もちろん井戸は無くなっている。 ●京橋へ向って進むこととにしよう。 9:56 |
★京橋
京都に向って初めて出会う橋であるので●京橋という。本来京橋川に架けられたものであったが、埋め立てられてしまって上は高速道路が通る。 親柱が記念碑として残り、●銀座煉瓦の碑もあって、隣には明治初期に街灯として設置された●ガス灯(復元)も立っている。
道路の向こうには●江戸歌舞伎発祥の記念碑がある。寛永元年(1624)「中村勘三郎」率いる猿若座が初めて芝居興行をおこなったのがこの場所だった。又隣に●京橋大根河岸跡などというの碑もある。皇居附近では鍛冶橋とか、呉服橋とか橋の名前が多いが江戸城の堀に架かっていたもので埋立てられて名前しか残っていない。 10:10 |
■京橋~銀座
京橋の先が●銀座1丁目。銀座は1丁目から8丁目まであり、江戸時代の町割りが比較的良く残っているといわれる。 銀座通りの車道の部分が昔の街道の幅だったと、たしか「ブラタモリ」でいっていたような記憶がある。一つ先の通りが「柳通」で、右手植え込みの中に●銀座柳の木発祥の記念碑がひっそりと置いてある。2丁目右手に江戸時代銀貨を鋳造した役所が地名の起こりとなったことを書いた●銀座発祥の地の碑がある。
●銀座4丁目交差点が昔の銀座の終点で、この先は尾張町」と呼ばれ老舗が軒を並べていた所。 10:21
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■銀座~新橋
8丁目を過ぎると●新橋になる。新橋は朝鮮通信使を迎えるために新設された橋で、ここも上に高速道路が走っている。渡った左手に●新橋の親柱が残され、隣の一角が●小公園になり、そこに●銀座栁の碑がある。 「♪♪昔恋しい銀座の柳~~」。 西条八十作詞、中山晋平作曲 10:30 |
★汐留跡
新橋を越えた左手一帯は広大な「汐留貨物駅」があった場所で、再開発されてビル群となってしまった。鉄道発祥の地として有名な汽笛一声~と歌われた●旧新橋も復元整備された。●昔の写真とは微妙に違って感じがして面白い。又●0哩標識やレールがわずかに残され、●昔のプラットホームも復元されていた。 10:40 |
■新橋~芝
東海道新幹線のガードを越えると左手角に●日比谷神社がある。最初東海道を歩いたときはなかったのではないかと思って調べたら、都市計画の関係で平成21年にこちらに移転してきたという。祭神は豊受大神で伊勢神宮系の神社である。
東海道は新橋を過ぎると第一京浜と変り、大量の排気ガスの中を行かないといけないのでおもしろくない。芝大神宮へ行こうとしたら、右手に「芝神明商店街」の看板が下がっているのでそこを通ってみようと思った。中に入ると●芝神明商店街の纏のペナントが下がって賑わっていそうな感じだが、日曜のせいか閑散としている。商店街のはずれを右折すると●芝大神宮である。寛弘2年(1005年創建された由緒ある神社で、鎌倉時代から「頼朝」や多くの武将に崇敬されて、江戸時代には家康より15石の社領を賜った。また、文化2年(1805)に町火消し「め組」と相撲の力士たちの乱闘事件が起きたことでも有名。●狛犬はその「め組」が奉納したもの。 11:00 |
★増上寺
「大門」交差点を右折すると、●増上寺の大門が見える。しかし残念ながら耐震改修工事中でシートで覆われ中が見えなかった。そこで●前回の姿を紹介しておきたい。増上寺が開かれたのは、明徳4年(1393年)、浄土宗第8祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれた。浄土宗の東国の要として発展して行く。家康が徳川家の菩提寺として選び、以来2代秀忠など、十4代中6人の将軍の墓所が設けられている。
●三解脱門は慶長16年(1611)の建立で重要文化財。 ●大殿と称する本堂に当る建物は現在のもの。後ろに東京タワーが見えている。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離などの影響により規模は大幅に縮小したが、芝公園は寺の境内に入っていた位の広さを持っていた。 11:15
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■芝~三田
●古川に架かる金杉橋を越え、やがて大きく右にカーブして行く。日比谷通が右手から合流して来る左手の「三菱自動車」のビル脇に●西郷隆盛と勝海舟の会見碑がある。慶応4年(1863)隆盛と勝はこのあたりにあった薩摩藩邸で会見し、江戸城無血開城の交渉を行った。
●札の辻交差点の所に高札場があったので「札の辻」という。そこを過ぎた右手のマンションの奥に●御田八幡神社がある。由緒ある神社で江戸町民に人気あった。 11:50
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■三田~高輪
左手に国史跡の●高輪大木戸跡が見えてくる。江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番をおいて警固させた。江戸の入口であるため高輪は大木戸と呼ばれる。旅人が送り迎えされるのもここまでであった。ここら辺は昔は牛町といい、牛飼いが多く、ここから荷物運搬用の牛を派遣した。江戸時代のトラックターミナルというような町であった。
やがて「泉岳寺交差点」から右手に入って、再び●泉岳寺に寄ってみた。 山門の隣にマンションが建って、景観論争が起きたが、そんなに違和感は感じなかった。言うまでもなく赤穂浪士四十七士の墓所であり、●浅野内匠頭や奥方の墓もある。●四十七士の墓所には線香の香りが絶えない。泉岳寺自体は七堂伽藍を完備した、叢林として名を馳せており、浅野家との関係は寛永の大火によって焼失してから。高輪再建移転した際に浅野など五大名が尽力したためにできたという。
12:10
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■高輪~御殿山
寺の先右手に●高輪海岸の石垣石というモニュメントが小さく残っている。・・・ 江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです・・・・というあっさりした案内板がある。
●品川駅をすぎ、左の八つ山橋を渡りかける、このあたりからは昔は江戸湾が見えたはずで、高縄手といった高台の場所である。●右手は御殿山跡で八つ山という山があった。「むかし大日堂ありしゆゑ大日山ともいふ」(図会)。所。今は削られてなくなってしまった。右手前方奥は御殿山ガーデンといって、高層マンション群となっている。八つ山橋を渡ると●昔の八つ山橋の親柱が保存されている。 12:40
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■ 品川宿入口
八つ山橋を渡ったあたりは第一回目の時は工事中であったが、きれいになって東海道五十三次の案内板やトイレなどが整備されている。●京急踏切を渡れば宿場に入るわけである。踏切の所に●是より 品川宿 地内 」という標柱が立っている。踏切を渡ると品川宿です。
日本橋から約2里、8km程の距離ながらあちこち細かく見ていたら、3時間ほど経ってしまった。 12:40
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