東 海 道
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17 興津宿から江尻宿へ 歩行地図 |
興津宿-清見寺-清見潟-横砂-袖師-辻町 5.0km |
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17興津宿
薩堙峠を越えてきた旅人の休憩所として、これから越えて行く旅人の旅装を整える宿として賑わいを見せた。興津からは身延、甲府へ通じる身延街道が分岐する交通の要衝であった。また景色が良いため、興津は明治元勲たちの別荘地としても栄えた。
本陣2、脇本陣 2、旅籠 34 |
2007年8月24日朝8:00 東海道3日目 晴天
■浦安橋袂~興津駅角
●宗像神社
興津宿は小学校脇の宗像神社あたりから始めます。創建は不詳とのことで、祭神は宗像三女神と呼ばれる沖津島姫命ら3女神。江戸時代は「女体の森」といわれ、灯台がわりとされていた。
●身延道追分
日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結ぶ街道はここから始まる。鎌倉時代には駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道でもあった。常夜灯や道標や髭題目碑などというものがごちゃごちゃと並んでいる。 8:15 |
■興津駅角~清見寺
●東海道行路病死無縁各霊供養塔
理源寺門前にある碑で、東海道を旅行中、不幸にも行き倒れた旅人を供養する碑。特に一人旅で倒れると宿の責任で面倒をみた。
●髙山商店
興津宿の町並みは旧の国道1号線で、特に何も残っていない。わずかに旧町屋らしき家が残り、特に高山商店はお米屋さんで、きれいな瓦の歴史を感じる旧家である。室内には昔からの道具や日用品が展示されており、お米と暮らしの小さな博物館となっている。 |
●興津宿東本陣跡
右手に碑が立つが、時の当主は市川氏と言い、宿の役人を兼ね、苗字帯刀を許されていて、明治三年に廃止されるまで235年間続いていた
●元脇本陣、水口屋跡 8:30
左側にある。明治になり制度が変わると、一般客相手の高級旅館一碧楼水口屋として営業を始めた。しかし、昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、現在は鈴与研修センターとなっている。 8:35 |
■清見寺~静清バイパス
●清見寺 8:45
ここの地は景色が良いことで有名で、奈良時代にこの辺に関所が設けられ、その関所の守護として仏堂が建立されたのが清見寺の始まりとのこと。家康お手植えの「臥竜の梅」が有名。清水次郎長、榎本榎本武揚が建立した咸臨丸の供養塔などという物もある。境内の●五百羅漢は島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』の最後の場面に登場している。 由緒書きを読む 8:55 |
●清見関跡碑と傍示杭礎石
昔はこの辺りは山塊が海辺に突出していて、交通の要衝となっていたため、東北の蝦夷に備えて、白鳳時代に関所が設けられた。傍示杭は徳川時代、興津代官領と清見寺領に争いがあり境界決定のために作られた。
●興津坐漁荘 9:20
西園寺公望、70歳の時(大正8年)老後の静養のため建てた別荘で、現在のこの建物は平成16年に復元されたものであり、本物は明治村に移築されている。坐漁荘とは、何もせず、のんびり座って魚をとって過ごすの意味らしい。 |
■静清バイパス~辻町分岐
●斜めに立つ民家
この先静清バイパスのガード手前の細道を行き、線路を渡る。この辺りの家は道路に対して半分斜めに建っている。旧道に沿って立っていたものが、旧道が削られて新道が通った名残だそうだ。
●横砂の延命地蔵菩薩と常夜灯
国道と合流する所に延命地蔵堂と、秋葉山常夜灯が一つ残されていた。建立当時に近い状態で存在する稀な石塔ですと。 9:30 |
●生き残りの一本松 9:45
庵原川」の手前には松並木の名残りと思われる松が一本だけ残されている。この先左手にも、もう一本残されていた。袖師ふるさとの道の番号が振られているので保存する気はあるみたい。9:45 |
●細井の松原無縁さんの碑 10:00
辻村から西久保にかけて細井の松原という並木が続いていた。しかし、太平洋戦争の時、松根油を採取するため総て伐採されてしまった。その時、街道で行倒れになった人と思われる多数の人骨が出土し、その供養のために建てられたのがこの碑
●江尻宿入口
無縁さんの碑の所から右へ入って行く。18番目の宿場・江尻宿の入口となる。 10:00 |
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