東 海 道
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39 池鯉鮒宿から鳴海宿へ 歩行地図 |
知立・山町-中町-知立神社-今岡町-境橋-桶狭間-有松-鳴海 ( 12.2 ㎞) |
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39池鯉鮒(知立)宿
現在の地名では知立と書く。江戸時代は、池鯉鮒の方が多く使われたようである。昔から馬市や木綿市が開かれた土地で、中世は鎌倉街道の要衡として栄え、江戸時代には東海道の宿場として賑わった。近くに鯉や鮒の多く住む池があったからその名が起こったといわれているている。ここは大火で何度も焼けていて、昔の宿場の雰囲気を伝えるようなものはほとんど残っていない。
本陣1 脇本陣1 旅籠35 |
2008年8月3日
知立駅前、「知立アリスインに」泊まりました。朝から相当の暑さ。早速宿入口にある、慈眼寺へ向かいます。
■知立山町~中町
●慈眼寺
広重の絵にもあるように、知立は馬市で知られていて、その中心地は慈眼寺がある「桜馬場」であった。境内に●「馬市の碑」が建っている。8:30 |
■中町~西町公園
●知立の町並み
広い道を横切った次の裏道が旧東海道。商店がちらほらという程度の道だが、「中町交差点」で国道51号を斜めに横切っている。 ちょうどこの付近には呉服屋さんやお茶屋さんなど古そうな店がある。国道を横断して行く、細い道が旧道で右側に、●「地鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑があった。 8:45 |
先に進み、「リリオホール」なぞを過ぎた、左手に古い●和菓子屋さんがある。 看板に「地鯉鮒銘菓 都築屋美廣」と書かれているが、朝早いせいか閉まっており、銘菓とはなにかはわからず。
右折した左手の西町公園はかって●知立城のあった跡です。入口に案内板と、石垣と、古そうな金属製の標柱が立つ。公園内にも「知立古城址」と刻まれていいる、電柱のような標柱が立つ。右手途中に酒屋の古い看板を見つけた。 |
■西町公園~知立神社
道はすぐに左折するが、その突き当たりに●「了運寺」がある。楼上が鐘楼になった門が印象的。 枡形のように左折した道は狭い、旧道らしい雰囲気があった。やがて地下道を渡ることになるが、ちょうどこの地下道入口には「総持寺跡」の碑もある。現在の総持寺はこの先に移動しているが、ここは家康の側室「お万之方」の誕生地と言われている。大イチョウがあると書いてあるのに、それらしい木が見あたらず、何の案内板かな・・っという感じ。 9:00 |
●知立神社
国道155号線を渡って進んだ右側奥に、「式内知立神社」がある。正面に重要文化財、●「多宝塔」がある。神社に多宝塔とは?・・と思えど、神仏習合の時代の遺物なのでしょうがない。廃仏毀釈から、人々は苦労して歴史的文化財を守ったこということでも興味深い。瓦葺の屋根も柿葺きに戻っている。社殿も柿葺きで重厚な建物。境内に芭蕉の句碑などもある。 9:15 |
■知立神社~今岡町
●総持寺
知立神社から旧道に戻り、先へ進んですぐ左側に総持寺がある。 前の地下道入口にあった案内板にあったように大正15年に再建されたもの。この地は徳川家康の側室、お万の方の誕生の地で、石碑に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻まれていた |
旧道をしばらく歩くとやがて「逢妻大橋」に出る。昔は「池鯉鮒大橋」と呼んでいたようだ。現在の橋は平成8年に掛け替えられている新しい橋。この先国道1号線に出るが。ここから先はうるさい国道で暑い中、あまり面白くはない。「一里山」というバス停もあるように、昔はここには一里塚があったという。●「今岡歩道橋」付近から国道と離れて左手に旧道が残っている。
9:45 |
■今岡町~境橋
旧道に入ると左手に●「洞隣寺」があり、墓所に面白い墓がある。何度直しても傾くという「中津藩士」の墓と「めっったいくやしい」の墓。・・説明・・ 今岡町にはかって立場が置かれた。その立場の名物として「いもかわうどん」があった。その●案内標識がある。平打ちのちのうどんで、産地名から「いもかわうどん」と呼ばれていたが、いつか「ひもかわうどん」と呼ばれるようになった。名古屋の「きしめん」のルーツらしい |
●今岡町あたり
この辺りは国道の裏街道で、あまり車も来ない、静かな町並みが続く。格子の残る古い町屋が点々と残っていて、街道の風情を感じさせてくれる。国道を横断して、パン工場の脇を通り、境川に架かった●境橋を渡る。 ここは三河国と尾張国の境なので、境川という。この橋は江戸時代、真ん中から半分づつで、造りが違っていた変な橋であったという。 10:20 |
■境橋~桶狭間
国道1号線に出て、また暑い中、国道を歩き、、「豊明駅」を過ぎ、その先で1号線から●左へ入る旧道が掛かる。旧道入口には「阿野一里塚」を示す大きな標識がある。左手先に●「阿野一里塚」がある。珍しく両側に塚が残っている。江戸から86番目のもの。
10:45 |
すぐ先の小学校前に東海道松並木の●名残の松が一本だけ残っていた。この松は、家康が東海道を開いて植えた松並木の一本で、市内では数少ない名残りの松です。
●桶狭間古戦場
国道に再び合流して、名鉄名古屋本線のガードを抜け、「中京競馬場前駅」の前の南に100mほど入った所に桶狭間の史跡公園がある。この地は信長が永禄3年(1560)今川義元を破った、有名な古戦場で、公園の中に、●古戦場碑、●今川義元の墓などが並んでいる。隣の「高徳院」には義元の本陣跡碑などがある。またこの先1kmほど行った、田楽坪(でんがくつぼ)という地に義元の墓などがあるらしいが、地形からすると、こちらが戦場跡としては正しいという説もある。行きたいと思えど、暑いので行く気が起きず、国道に戻る。 12:00 |
(2020年2月4日 追記)
■桶狭間古戦場公園周辺
というわけで、美濃路を歩く前日、気になっていた田楽坪へ行って見ましたので、追記します。
有松駅から南へ2km弱、田楽坪の地は●「桶狭間古戦場公園」として整備されています。園内に織田信長、今川義元の銅像が建ち、●田楽坪のねず塚から出土した「駿公墓碣」と刻まれた義元の墓碑、馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、などもありました。地元では、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地として売り出していて、どうもこちらの方が本家のような気もしないでもない。案内板 |
約4万5千を率いる今川義元は沓掛城を出発し、おけはざま山にて本陣を構え、休息に入ります。 公園から東へちょっと行った高台に●本陣跡の碑があり、その後方●標高64.9mの所が本当の本陣の場所であったらしく、眺めが良く本陣にふさしい場所であっただろうと思います。案内板 |
信長は折からの雷を伴った大風雨の中、山を越え狭間を抜けて、今川軍の本陣に迫り、ついに義元の首を取るに至ります。公園内に●義元公首洗いの泉があったり、長福寺境内に●林阿弥が今川方武将の首検証跡に供養杉が植わっていたりします。
義元が首を取られたのはここではなく、本陣から東へ現在の豊明の地へ逃げ、そこで取られたという説もあったりしますが、全体的に、桶狭間古戦場とは豊明と田楽坪と全体を指すのではないかと考えます。 |
■桶狭間~有松
●●「立場・有松」
国道1号線に出て「大将ヶ根」の交差点から右手に別れて有松に至る。有松は鳴海宿手前にあった立場で、ここで有名なのが「有松絞り」というもので、 尾張藩では有松と鳴海以外には作らせなかったという。現在でも名が知られていて、人出が一番と言って良いくらい多かった。 |
中程に●「有松・鳴海 絞り会館」があった。中に入るといろんな有松絞りの品々が展示販売されている。中の人は車で来るせいか、スキっとしているけど、こちらは汗だくだくで、入るのに遠慮しようかなという具合であった。絞り作業の実演も見られるようだったが見なかった。有松の町は●昔ながらの商家が今も問屋として営業しているのには感心してしまう。 古い家並みは約1キロ程続いていて、江戸時代に戻った気分にさせてくれて非常に気分が良かった。 |
特に右手に見える「服部家」は寛政2年の建築と言われ、有松を代表する町屋建築となっている。●竹田家住宅(左)
ここは有松絞りの考案者 竹田庄九郎の子孫の家であるという。絞問屋の伝統的形態を踏襲している。特に主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にたいへん優れている。
●小塚家住宅(右)
ここも絞り問屋の形態をよく残し、1階は格子窓、2階は塗籠壁、「うだつ」があり、塗籠造のなかでは最も古いもののひとつ。 12:30 |
■有松~鳴海
有松を出て、名電の踏切を越え、旧道をずっと歩いていく。ここらでお昼でもと思い、適当な店がなさそうなところ、中華の店があったので、「冷やし中華」を頼んだら、これが冷えておらず、ぬるくて閉口した。「平部北信号」交差点に過ぎて行くが、交差点の角に●文化3年建立の大きな常夜燈が建っている。ここから鳴海の宿場となる。 13:10 |
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