東 海 道
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13 原宿から吉原宿 歩行地図 |
原宿-松陰寺-一本松-桃里-元吉原-吉原駅-吉原本町-新吉原宿 (12.6km) |
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13原宿
慶長6年に宿として成立。原宿は宿場の規模としてはかなり小さく、宿のある所は「浮島ヶ原」と呼ばれる沼沢地帯で、大雨でも降りだせば一帯の田畑はすべて水浸しになってしまうほどだった。原の名はこの「浮島ヶ原」を省略して「原」と呼ばれるようになった。広重の絵にもあるように「富士山」が目前に迫っていたから、富士山を眺めながら休憩する人はかなり多かったといわれる。
本陣1、脇本陣0 旅籠屋25 |
2007年8月22日の続き。
■松陰寺~交番東交差点
●松陰寺 14:45
宿にはいるとすぐ左手に見えてくる。「白隠禅師」ゆかりの寺としてその名を知られている。弘安2年(1279)に鎌倉円覚寺の末社として天祥西堂が開祖の寺と伝わっていて、江戸時代の宝永4年(1707)に起きた宝永山の噴火(富士山噴火)により大破した後、「白隠禅師」によって再び再興されたという。
白隠禅師は貞享2年12月25日、原宿の長沢に三男として生まれている。享保2年(1717)に松陰寺の住職となっていその評判は日本中にとどろき、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。良寛さんの歌碑などもある。 |
●白隠の摺鉢松
数多くの参拝者の内、岡山藩主だった池田氏がお礼に何か差し上げたいと申し出ると、白隠は「味噌をする摺鉢がほしい」と言われたという。 そこで備前焼きの摺鉢を贈ったのだが、ある日台風が襲って松の木は折れてしまい、その摺鉢を折れた場所にそっと被せてあげたという。 その後、松は摺鉢を載せたまま成長して現在もそのままの姿で残っている。
松の木は入り口左手に植わってあり、擂鉢は見上げると小さく見ることができる。10倍の望遠で撮影した。・・・帰ってから調べるとこの摺鉢は二代目だそうです。・・・
寺を出て、原駅の方へ進んで行く。現在の原は宿場の風情はまったく残されていない。 西町はずれにはJR東海道線の原駅もあるが、その駅前にも商店街もなく、喫茶店も見あたらす休憩すらできない。富士山で有名なのだが、全く雲がかかり姿も見せずがっかりである。見るには空気が澄む冬がいいそうだ。 15:00 |
●白隠誕生地
交番東交差点の左手前に白隠禅師誕生地碑。
交差点を直交する通りは「興国寺城通り」といって、北に2kmほどの地に北條早雲が旗挙した興国寺城址今は櫓の土台石や堀の一部が残る。・・といわれるが、ちょっと遠いので寄らずにすませる。
●本陣跡
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至ってる。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。 15:10 |
■交番東交差点~原新田
●高嶋酒造
左手に造り酒屋が見えてくるが、ここの入口には酒造りに使っている「富士の霊水」が汲める蛇口があって、いつでもおいしい水が無料で飲めるようになっている。飲んでみたけどまあ普通の水と思う。ここには酒蔵を改造した高嶋美術館があって、白隠禅師の書画などが保存展示されている。造られる酒は「白隠政宗」といい、看板があちこちにかけてあり、地元で人気の酒だそうだ。 15:25 |
又変わり●映えのしない町中を歩く。右側方向ががかっての浮島沼で、はるばると長き沼あり、といわれた地域も干拓され面影は全くない。
●沼川第二放水路
沼川は東海道とほぼ並行している川で、海水が逆流してここらの干拓地に害を及ぼすので放水路により海へ逃がすために造られた。が地図を見ると行き止まりになっている。どうなっているのだろう。 15:35 |
■原新田~柏原
●浅間愛鷹神社
愛鷹浅間神社付近を桃里と言う。これは浮島ケ原の開発を鈴木助兵衛が手がけた地で、助兵衛新田と呼ばれた。明治の後期に桃を作ったので付いた名前。神社前に助兵衛の功績を記録した碑が建つ。神社は新しく特徴はない。
●・・・・新田という通り
桃里を過ぎると沼田新田、田中新田、柏原新田とかの地名が多くなる。 16:25 |
●立圓寺
柏原交差点の手前に格調ある門構えの寺があったので寄ってみた。境内に変わったものがあった。●ゲラテック号遭難誌・・・
インドネシアのゲラテック号が、昭和54年10月清水港より救援米を運ぶ途中、台風20号に遭遇し、強風と高浪で船体が直立したまま柏原海岸に打ち上げられた。乗組員の2人も死亡したという。錨が記念碑替わりにに置いてある。左側の碑は冨士を模した三角形の望嶽碑という。ここから富士がよく見えたらしい。 16:40 |
■柏原~元吉原
●増田平四郎の像
昭和放水路の脇。天保7年(1836年)の大飢饉や水害で苦しむ農民を救済するため、原宿の増田平四郎は冨士沼の大干拓を計画した。韮山代官所に工事許可を願い出て叶わず、やっと認められた。工事に着工したのは26年後の慶応3年(1867年)であった。そして沼から海岸まで長さ505m、幅7mの大放水路を完成させたのが明治2年(1869年)の春であった。しかし、その甲斐も無く、その年の高潮で跡形も無く壊されてしまった。●昭和放水路 平四郎の夢を受け継ぎ,排水路のあった場所に,昭和放水路が築かれ,浮島沼も干拓され田畑となっている。沼川第二放水路と同じく、沼川の水を海に流す役割を持つ。次にJR線路を越す陸橋脇を左手に入っていき、街道風な細い道を元吉原へ向かう。 16:45 |
●元吉原宿」毘沙門天
元和2年(1616)や延宝8年(1680)に起きた地震や津波によって宿場のほとんどが崩壊し、吉原宿は天和2年(1682)、ここより10町ほど先に移された。 ここの左手にあるのが「毘沙門天」で知られている「妙法寺」という寺。本尊は聖徳太子の作といわれ、家康の愛妾お玉の方や紀州頼宣も信仰したという。かなり派手目のお寺です。●東海道線の線路を渡る。日本製紙の工場がある。そういえばここ田子の浦は万葉集でも知られるが、製紙カスの悪臭で有名だった。今はさすがにそういうこともなさそうだ。さて次の吉原宿はまだ先であるが、この元吉原辺から吉原宿として扱いたいと思う。 17:30 |
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