東 海 道
|
|
38 岡崎宿から知立宿へ 歩行地図 |
根石町-伝馬町-連尺町-八帖町-矢作橋-暮戸-宇頭茶屋-来迎寺-知立 (15.3㎞) |
|
38岡崎宿
岡崎は家康の生誕地であり、先祖の松平家の本拠地でもあったので、岡崎城を中心に城下町として発展した。また天正18年(1590)岡崎に入部した田中吉政が東海道を城下に引き入れ、城の防衛上、27曲りと呼ばれるように多くの曲折をなした街道を作った。現在では戦災や戦後復興の道路拡張のため宿場町としての面影はほとんど残らないが、旧東海道に建立されていた城下27曲りの石碑を参考に旧街道筋をたどることができる。
本陣 3, 脇本陣 3, 旅籠 112 |
2008年8月2日藤川宿よりの続き
■岡崎若宮町~27曲がり
●二十七曲がり記念碑
二十七曲がりの道筋はこの二十七曲がり記念碑を右折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるまで。記念碑に地図とか案内板が彫られているが、いかんせんピカピカすぎて反射がきつく、写真が撮れない。右折して元市民病院の敷地角には最初の標柱と●記念モニュメントが作られている。14:10 |
●27曲がり標柱群
城下町にのような曲がり角があるのは、いうまでもなく、簡単に敵が城に近づかないようにするためといわれる。岡崎宿は特に多くて、「三十六町二十七曲」などといわれる。反面道が長くなって、宿の繁栄には有利な面があったのかもしれない。きれいな標柱が作られて、跡をたどればいいようになっているけど、この標柱が途中でなくなり、後半は昔からの石柱に変わる。これが少し読みにくくて、跡をたどることができなくなってしまった。どうせ作るなら矢作川の最後まで作ってほしかった。 |
岡崎27曲がりの図
出典:「東海道さんさくマップ 岡崎」より (社) 中部建設協会発行 丸数字は作者による |
1 欠町から両町角
●根石観音堂
碑から両町まででは途中に「行基」の建立になるという観音堂がある。
2 両町角より伝馬町
●伝馬町町並み
右折して、伝馬町に出ると、ここは宿のメインストリートあった所で、本陣、脇本陣などがあった。現在では跡形もなく、碑が立っているだけ。歩道脇に、いろいろな石像(飛脚、飯盛女、お茶壺道中など)が立っている。14:25 |
3 伝馬町1丁目から籠田公園
●岡崎信用金庫資料館
伝馬町1丁目を左折していくと、途中に岡信本店が資料館として開館している。大正時代に建てられたゴシック風の荘重な建物
●籠田公園
資料館の先を右折すると、植え込みある大通へ出る。ここを右折した所にあるのが「東惣門跡」碑。 しかし、昔の道筋はこの交差点よりも手前で右折していて、東惣門をくぐってから、複雑に曲がりながら現在の「籠田公園」の中を通っていたそうだが、その道は消滅している。今は公園の西側を行って、連尺通へ出る。 |
4 籠田公園から柿田橋
連尺通を西へ真っ直ぐ行くと、「シビコ」の前にわかりにくい「岡崎城対面町前角」の標石で右折をして行き、その先をまた、右往左往して広い通が●「木まち通」、町名を材木町という。木まち通りは「材木商」の集まっていた場所だったというので、歩道には材木のブロックが敷き詰められている。「伊賀川」に掛かる●「柿田橋」手前で左折して、ここから川沿いを歩いて行く。 |
5 柿田橋から八丁蔵通
土手をs少し歩くと「三清橋」手前に出るが、ここは工事中であった。ここで三清橋を渡るが、当時の道筋は失われたようなので、は三清橋を渡ったら二本目の路地を左折していくと、右手に「銭湯」がある。ここの角を右折して行くと、●国道に出てしまう。旧道は向川に続いているので歩道橋を渡って行く。左折すると「岡崎城」に行くが、時間の都合で寄らなかった。向かい側に続く旧道は「板屋町」と呼ばれていて、古い家並みが見られるが、この板屋町は伝馬町と共に「遊廓街」があって賑わっていたそうだ。信号を渡って向かい側に続く旧道に入って行くと、先には愛知環状線が走っており、高架下をくぐると「八帖町」と呼ばれている場所に出る。この八帖町は「八丁味噌」の発祥地として知られ、味噌工場や旧家が並ぶ。先は突き当たっていて、ここの正面には●「右西京・左江戸」と刻まれた新しい道標がある。 15:25 |
6 八丁蔵通から矢作橋
右折すると●古い家がある。前方には「矢作橋」が見えてくる。しかし 当時の矢作川に架かっていた「矢作橋」は今の国道に架かる橋よりも下流にあったそうだ。現在の●「矢作橋」を渡るが、ここも工事中で脇の歩道を渡っていく。渡る手前には味噌工場の雰囲気のある建物が並んでいる。「矢作橋」は「日吉丸と蜂須賀小六」の出合で有名で、出会いの像もあるというけど、工事中で移動されていた。15:30 |
■矢作橋~柿崎町
矢作橋を渡ると、右手に●旧道の入口が残っている。国道1号より1本北に入っているので、静かな道が続いている。すぐに右手に家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃)ゆかりの●勝蓮寺がある。信康画像をはじめ多くの遺品が残されているそうです。 |
●誓願寺(十王堂)
少し先の右手にある。義経の愛妾、浄瑠璃姫ゆかりの寺。寿永3年(1138)三月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り弔った。但し浄瑠璃姫の墓というのは蒲原宿にもあった。旧道は少し先で国道1号と合流する。途中で「暮戸」を過ぎ、
「宇頭町」を越えるとここより「安城市」に入り、その先の●「尾崎東信号」で右手に入るのが旧東海道です。入口には松並木が見えている。
16:15 |
■柿崎町~浜屋町
●松並木の残っている旧道に入ってしばらく歩くと、「尾崎」という所に入る。ここは立場で賑わったいわれる。やがて右手に●「熊野神社」が見えてくる。説明によると、昔はこの神社奥に「鎌倉街道」が通っていてそこを「踏分の森」と呼んでいたという。「義経」もこの鎌倉街道を越えて矢作宿に出ていただろうと考えられる。この熊野神社入口左手には一里塚跡碑がある。16:25 |
宇頭茶屋信号」を越え、さらに交差点を越えた右手に●「永安寺」が見えてくる。 この寺は延宝5年(1677)助郷役の免除を願い出て刑死した、「大浜茶屋」の庄屋(柴田助太夫)の霊を祀る。天然記念物に指定されている見事な「雲龍松」と呼ぶ松がある。この松はまるで龍が雲の上を飛んでいるように横に広がった枝ぶりで、俗にこう呼んでいる。寺を出てしばらく歩くと交差点に「明治用水」の記念碑があり、左手は●「明治神社」。明治用水は江戸時代に計画され、明治時代にに完成したエポックメイキング的な用水で、矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、などに用水を供給している。我々の年代では教科書に出てくるほどの有名な名前だけれど、現代ではどうだろう。
16:45 |
■浜屋町~来迎寺町
またしばらく歩くと、松並木が始まる。。 途中には、東海道の松並木の案内板もある。さらに進んだ来迎寺町信号の角に、無量寿寺の道標がある。無量寿寺は「在原業平」にちなんだ伝説の残る寺として有名だというので、寄ってみたかったが、北へ1キロもあるので、時間が無く断念した。道標から先に進むと左手に一里塚跡がある。ここの一里塚は日本橋から数えて84番目の物で、●●「来迎寺の一里塚」と呼ばれていた。17:35 |
■来迎寺町~知立・内幸町
さらに先に進むと、高架陸橋の下を潜ることになるが、手前にこれも無量寿寺への●道標と明治用水の説明板が立っている。道標の先の旧道は見事な松並木が続いている ここに残っている松並木は●「知立の松並木」と呼ばれて、長さ500mほどに170本もの松が残っている。 その先には小林一茶句碑や広重画の「池鯉鮒」の看板が作られている。 16:00 |
さらに松並木が終わる手前には●「馬市の址」「馬市句碑」「万葉歌碑」なども作られている。池鯉鮒に入ったと思われるところだけど、宿入口はまだ先になる。知立の松並木が終わりに近づくと「御林」交差点で、先が三方に分かれていて渡るのに複雑になっている。ここは地下歩道を通って行くが、出た所がちょうど●知立宿の入口に続く道で、名鉄の踏切を渡ると先が知立宿の入口になっていた。 あたりは相当薄暗い 18:10 |
|