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 45 庄野宿から亀山宿   歩行地図
 庄野-本陣跡-女人堤防碑-和泉橋-小田-和田   7.7km

45 庄野宿
 寛永元年頃(1624), 東海道では最後に設置された宿場で。隣の 石薬師宿同様規模はかなり小さかった。四日市宿や関宿にはさまれて、宿泊客が少なく、休憩だけの旅人が全体の3分の2程であったといわれる。幕府は, 宿場の不振を理由に文化12年(1815), 石薬師と庄野の2宿に関して, 通常 配備の人足100 人, 伝馬100 疋を 人足50人, 伝馬50疋に半減している。
本陣 1  脇本陣1  旅籠15

2008年11月10日
  朝亀山駅から加佐登駅へ戻る。亀山駅前で能褒野神社鳥居を撮っておいた。
■庄野入口~庄野本陣跡
  加佐登駅を降りて、亀山方面の踏切を渡ると、左手に電柱を作る、日本コンクリート工業があり、その対面の西へ向う細い道が庄野宿入口であった。入口に、●「東海道庄野宿」の標柱と案内板が立っている。●町並は、元々小さな宿であったので、昔のままの細い道が続き、ひっそりとしているが、古い家もちらほらと見受けられる。  9:05

 左手に●庄野宿資料館がある。旧小林家住宅で、連子格子の風格を感じる家だった。月曜日の閉館日なので入れず。建物前に広重の「庄野・白雨」の画の案内板が立つ。この絵は特に名作として評価が高い。右手庄野集会所の前に●「庄野宿本陣跡」と書かれた石標がある。本陣は沢田家が勤めた。

■庄野本陣跡~女人堤防碑
 本陣のすぐ先右手角に●高札場跡の表示板がある。右手常楽寺の先に●式内社川俣神社がある。境内の奥に県指定天然記念物スダジイの巨木がある。高さ11m、幹周り5m、樹齢300年の巨木であった。この先右手に入口にあったものと同じ「東海道 庄野宿」の新しい石柱が立っていて、そこが京方の入口で宿はあっけなく終ってしまった。  9:20

 ●女人堤防碑
 すぐ先の左にある。右手に山神の碑●「従是東神戸領」の石標もある。この当りは、亀山藩と神戸藩の境になっており、安楽川と鈴鹿川の合流点で、江戸時代には水害で苦労したところであったという。そこで村人たちは堤防の築造を願ったが、許可されず、女性たちだけで夜間堤防を築いた。一旦は捕らえられたが、藩では家老の嘆願により、助けることとし、むしろ功をねぎらって褒美を与えたという伝説が残っている。・・しかし夜間工事とはいえ、見つからないわけもなく、これは相当疑問の残る話ではないかと思う。堤防とはどこにあるのか、案内がないのでよくわからなかった。むしろ石碑が沢山ならんでいたが、どういうものか気になった。  9:45

■女人堤防碑~中富田
 しばらく行くと、左手に●中富田一里塚碑が立っている。「従是西亀山領」と書かれた石標もある。その裏に川俣神社がある。●本殿はここも神明造りで、脇に心柱が一本建つ形式で神社らしく、好ましい。同名の川俣神社というのは、前の庄野宿の端とここと、この先と三カ所あるが、二つの川の合流点ということと関係があるらしい

■中富田~和泉橋
 さらに行き、安楽川手前、左手に三つめの●川俣神社がある。境内の右手に旧和泉橋の親柱。珍しくは、「北緯34度52分14秒」と書かれた国土地理院の石柱がある。そこで自分のGPSを見てみると、「34:52:12」となっており、2秒ほど違っていた。距離にすると60m程、どっちが正しいか微妙な問題だ。その先、旧道はそのまま進んでいたけど、現在は橋がないので、左折して、●和泉橋を渡る 10:20

 ■和泉橋~小田
 和泉橋を渡って右折して、旧道へ戻る。右手の公民館前に旧和泉橋親柱がある。「小田」に変る途中に道標がある。半分埋って、「右のぼ・・」)と刻まれている。ヤマトタケルの御陵と定められた能褒野御墓への道標と思われる。小田町を行き、公民館を過ぎた右手に●「地福寺」がある。結構古い歴史を持ち、昔は七堂伽藍の備わった大寺で東海道を行き交う多くの人々の信仰を集め、毎月一七日には門前に市も立つほどであったそうだ。東海道は寺の先で左斜めに下っており、道路を横切って向かい側の砂利道に入って行く。・・・ここで右手の踏切を越えると、能褒野御墓への道となるので、大きな寄道となるのだけど、せっかくだから寄って行くことにした。  10:45

■小田~能褒野神社 大きな寄道 4.8km
 井田川駅手前の踏切を越え、県道640号を行き、鳶ケ尾交差点を右折して行くと、能褒野御墓へ着く。往復5km弱。亀山駅前にも●能褒野神社の鳥居が立っている。亀山からだと,」片道4キロくらいあるようだが。・・ヤマトタケルが伊吹山で病に倒れ、ついに「野褒野」の地で亡くなる。明治12年にこの地にある古墳を正式に、ヤマトタケルの御墓として比定した。ここは「のぼのの森」となっているので、●神社の参道を上がって行った。 11:30

 ●能褒野神社
 神社は地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため、明治28年に社殿が竣工し、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より鎮座祭がとりおこなわれた。明治42年、弟橘姫と建見児王が合祀され、現在は県社となっている。
 ●能褒野御墓
 比定された古墳は前方後円墳で、この地方最大のもの。もちろん宮内庁管理で立入りは出来ない。付近には「陪塚」が沢山ある。

■井田川踏切~和田の道標
 急いで旧道に戻ってきて、「井田川駅」手前の●無人踏切を渡る。駅前を通って、「川合町北」で国道を横断する。川合に入ると、道に「旧東海道」のプレートがはめ込まれている。川合椋川橋を渡り、亀山バイパスをくぐって行くと、右手に「題目塔」が建っていて●谷口法悦供養塔と呼ぶ。かつてこの辺りは刑場であり、受刑者の供養のために建てられた塔という。  12:50

■和田の道標から亀山
 その先左手に●和田の道標がある。「従是神戸 白子 若松道」とある。「元禄三 庚午年」(1690)と刻まれている。市内に残存する最も古いもの。その先「和田」の道を行く。右手に石上寺がある。その先右手に●和田一里塚の復元したものがある。かってはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていたという。  13:15

 その先左手に亀山ローソクの工場がある。亀山は洋ローソクでは国内有数の産地だそうだ。
 右手に●露心庵跡の案内板が立つ。天承12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を亀山城下東端に葬った。関氏一族の露心が仏庵を築き、戦死者を供養した。この庵から西が亀山宿となる、と書かれているので、案内板に従い、ここから先を●亀山宿としたい。  13:45

44 石薬師宿 46 亀山宿