中 山 道
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10 本庄宿から新町宿へ 歩行地図 |
本庄駅-千代田-小島-神保原-金久保-神流川 8.5 km |
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10本庄宿
本庄は、武蔵武士団の中の児玉党一派の本庄実忠が室町時代に本庄城を築き、その後小笠原氏の城下町として発展する。小笠原氏は古河に移り、本庄城は廃城になったが幕府直轄地として開かれ、利根川の水運を利用した江戸との交運で河岸も賑わい、宿には市も開かれた。旅籠も多く飯盛女が100人以上いた。助鄕に来た若者が村に戻らず、取り締まりの願いが出されたりもした。
本陣2、脇本陣2、旅籠70 |
2007年6月24日、8時50分本庄駅到着。前回の地点、中山道交差点へ向かう。駅からまっすぐ北上した、りそな銀行付近が宿の中心地であったが、その前に市役所裏にある本庄城跡を見ることにした。
■本庄駅~金鑚神社
●本庄城跡
弘治2年(1556年)に本庄宮内少輔実忠の築城とされている。本庄氏は山内上杉氏に属していたが、後北条氏に攻められ配下になった。子の隼人正の代の天正18年(1590年)の秀吉による小田原の役の際に、攻められ落城した。徳川家康の関東入封で、信濃松尾の小笠原信嶺が1万石で城主になった。慶長17年(1612年)に小笠原氏が古河に移封されて本庄城は廃城になった。現在は城山稲荷神社の回りに跡が残るだけ。
●城山稲荷のケヤキ
本庄実忠が、本庄城築城のおりに献木したと伝えられる。 目通り周囲6.35m、高さ30mと極めて大きく、県の指定天然記念物。 9:20 |
旧道に戻り、りそな銀行の西隣が本陣跡ということだが、何にも跡らしきものはない。門だけが市の資料館に移築されている。現在の本庄市の町並みには宿場らしい跡は残っているとは思えないが、●古めかしい蔵や旅籠風の建物はいくらか残っている。 旧道をまっすぐ進んでいく。
●田村本陣正門
右手奥にある歴史民俗資料館内に移築されている、本庄宿の北本陣であった田村本陣の正門。 |
●本庄市歴史民俗資料館
明治16年に旧本庄警察署として建設された建物を利用したもの。木造二階建て瓦葺き。正面のベランダにはコリント式の列柱を配す。日曜日に開館するようになったようです。
●ローヤル洋菓子店
本庄商業銀行の担保の繭保管倉庫だったものを、再生利用した。総煉瓦造りの建物。明治20年代後半「繭の町」として栄えた本庄を象徴する建物といわれる。9:55 |
●安養院
菓子店の右手に入った所にある。曹洞宗の寺で、創建は文明七年(1475)という。児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが
水不足に悩まされたため、土地を探していたところ、現在の地を発見し安養院を開基したと伝えられている。本堂は本庄最大の木造建造物といっている。ここには御嶽講の祖である木食上人の墓などがある。 |
■金鑚神社~神保原
●金鑚神社(かねさな)
寺の先は少し古い家も見られる。右手に大きな神社が見えてくる。祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本武尊の三大大神。創建は欽明天皇二年(541)と伝えられる。権現造りの社殿、神楽殿
大門、御輿殿などを持つ。極彩色の彫刻が施された派手な神社であります。
●金鑚神社のクスノキ
目通り5.1m、根回り9.8m樹齢350年とされ、江戸時代の本庄城主小笠原信嶺の孫忠貴が寛永166年(1639)に、金鑚神社の建立時に献木したものと伝えられる。 10:10 |
さて宿はここで終わり、中山道は神社に沿って、右に曲がる。
●歩道におもしろいタイルがはめ込まれている。中山道69次の内埼玉県分を絵タイルで、ほかの宿名を字タイルで表現している。歩道橋を渡り小島という地区に入るが、普通の住宅地となっている。しばらく歩くと左手にあるのが
●浅間山古墳
本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群の中の一つ。直刀、鉄鏃、銅椀、耳環、などが出土されている。現在は稲荷神社となっており鳥居も立っている。上に上がると石室も見られる。 10:50 |
■神保原~勅使河原
●庚申塔群
神保原1丁目で右折し、国道17号線を横断して右手へ入っていく。このあたり金久保という所。旧道を入ると「キムラ乳業」の工場があり。向側に庚申塔などがまとめておいてある。
正面の小屋掛けは如意輪観音像。十九夜塔や二十三夜塔の類でしょうが、享保あたりの享の字がかろじて読めるので江戸期のものと思うけど摩滅してほとんど読めなかった。
11:15 |
●八幡神社
右手には金久保の八幡神社。案内板や由来などの説明もない普通の感じの神社。鳥居を潜ると右手に改修したときの古い屋根瓦が保存されているところが珍しいといえば珍しい。神社の先に「史跡金窪館阯入口」という標柱が立っていたので見に行く
●金窪城跡
標石からしばらく行き、なんにもないので辺りを見回すと左手に公園があり、そこに神流川の合戦の由来を書いた看板が立っていて、その前にちょこんと城跡の石碑が立っていた。治承年間(1177~81)加治家季の築城といわれ、元弘年間新田義貞の修築したと伝えられる。北条市と滝川一益が戦った神流川の合戦で焼失してしまう。 11:35 |
●畑 時能(ときよし)の墓(陽雲寺)
武田氏にゆかりの寺であって、元久2年(1205)の創建と伝えられ、元弘3年、新田義貞が幕府打倒を祈願して不動堂を造立し、天文9年(1540)斎藤定盛が諸堂を修復し、崇栄寺と名を改めたが、天正10年の神流川合戦で焼失した。 信玄の甥、武田信俊は武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、天正19年川窪与左衛門と名乗って、この地に八千石を与えられ、養母である信玄夫人を伴って入封。夫人は当寺に居住し、元和4年(1618)に没したので、法号の陽雲院をとって崇栄山陽雲寺と名を改めた。・・とある。境内に新田義貞の臣・畑時能(ときよし)の墓などがある。
●勅使河原の一里塚
先に進むと勝場地区、国道に出る右手前のお堂の傍に一里塚碑がある。23番目の塚にあたる。 12:05 |
■勅使河原~新町
●本庄側常夜燈(左)●新町側常夜燈(右)
国道に合流するといよいよ神流川を渡る。埼玉と群馬の県境です。英泉の本庄宿の絵では神流川の中州まで橋で渡り、その先は渡船によっている。両側に常夜燈があり、渡船の場所が変化するので目印で置いてあったとのこと。現在のものはミニチュアで、新町側の燈の下に説明がある。・・・「文化十二年(1815)、本庄宿の戸谷半兵衛が川の両側に常夜燈を建てた。夜になると火を点して夜道を往来する旅人の標準にした。武州側の常夜燈は見透し灯篭とも呼ばれ、現在は大光寺にある。」・・・しかし神流川橋の歩道はせまくて自転車のすれ違いは難しいくらい。ようやく群馬県で埼玉県は蕨宿から結構長かったという感じ。まだ先は長いね。
新町宿へ続く 12:15 |
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