中 山 道
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40 野尻宿から三留野宿へ 歩行地図 |
野尻宿-本陣跡-野尻駅-下在郷-十二兼-柿其-金知屋-三留野 9.2 km |
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40 野尻宿
古くから集落の形成はあり、昔は「野路里」と書いた。駅伝制度が確立された慶長6(1601)年、宿場として整備された。宿場は「七曲り」といわれ、多くの枡形があり外敵の侵入を防ぐ機能を持っていた。宿の長さは東西5町余、宿場としては中規模といえる大きさだったが、ここにに泊まった大田南畝は「本陣も板ばめにして壁なし・・・・・・」とわびしい様子を書いている。
本陣1 脇本陣1 旅籠19 |
2009年7月25日 須原宿からの続き 13:15
■「倉坂」~野尻駅
●宿入口で完全に道を間違える・・
線路を渡ると「倉坂」という坂を上がって左折し、右折すると左手に高札場があるはずだと、進んでも高札場が見あたらず、おかしいと思いつつ歩いていったら「本陣跡」に出てしまった。ガイドブックをよく読返したら、倉坂を上がってから左に曲り忘れ、真っ直ぐ来てしまっていた。本陣跡の地点から戻っても良かったのだけど、上がり坂で戻る元気も湧かず、妻籠まで行かないといけないしで、「ま、いいか」と先に進むことにした。赤線の方が正しい道筋。
そんなわけで ●高札場跡 土台の石が「いぼ石」と呼ばれ、これに触れるといぼが取れるという
●東の「はずれ」 という野尻宿の東入口に当る家。・・・・は見逃した |
●野尻宿の町並み
宿の入口はちょうど「高札場跡」が見られる付近から始まっていた。
ここも他宿同様何度も大火に見舞われていて、特に明治の大火で多くの家は焼失してしまったという。
また当時の野尻宿は「野尻の七曲り」などと呼ばれ、くねくねと道は何度も曲がって外敵を防いだ。現在でもその曲がり方が残っており、ここだけは昔の面影を残している。 |
宿の中央付近、左手には「森家」が務めていた●野尻宿本陣跡」の標識があり、今はなにも残っていないが、「明治天皇御小休所」の石碑が立てられている。
また、本陣手前右手の家が脇本陣だったというけど、とくになにもなく、確認できなかった。案内板も見つからず。
左手の古い家は●旅館庭田屋で,特に旅籠風というわけではないが、印象に残った。 両側には古い家もあちこち残ってはいた。 13:30 |
■野尻駅~下在郷
宿の終りはやはり●「はずれ」という屋号を持つ「吉村家」の家で、案内板も立っている。ここは西のはずれにあたる。宿の入口に東の「はずれ」があり、出口に「西のはずれ」という同じような名前の屋号の家があるという珍しい形をしている。
宿場を出ると「二反田橋」を渡って「下在郷」と呼ばれていた集落に入る。この先は緩い下り坂になっていて、やがて●「国道野尻信号」の地点に出て来るが、ここでは国道には行かないで、真っ直ぐ進む。 |
■下在郷~新茶屋
真っ直ぐ進むと踏切にぶつかるが、渡ると「阿寺渓谷」の方へ行ってしまうので、ここは渡らないで、国道の高架脇の寂しい道を入っていって、線路を右手に見ながら●線路と平行に進んでいく。
●「中山道13号踏切」を渡って行くが、本当は渡らず、手前で林の中を進んで行くのが本当らしい。(しらなみ坂という)しかし途中道が消えていて、進めないので「13号踏切」を渡り、さらにその先の「14号」踏切を渡り、線路の左手に出てさらに進む。 14:15 |
■新茶屋~十二兼駅
左手に出た先は●「新茶屋」と呼ばれていた集落で、昔は茶屋があって賑わっていたというが、古い集落は残っておらず、新築の大きな家が一軒建っていた。
しばらくすると国道に合流していて、「南木曽町」に入ることになる。国道に出たらすぐ●対面にある坂を登っていく。登りきった所左手に石仏が並んでいる。
14:38 |
●Y字路を右手へ坂を下りていき、左手に「熊野神社」がある。この先で国道を横切りさらに線路を横切って進むと「十二兼」という集落に入るというところ・・・・・・正面の線路に踏切がなく、国道を右折して100m位歩いた所に踏切があった。国道を左折すると地域住民の為に小さなトンネルがあると後で知って、そちらの方が近道だった。
線路を渡った先が立場で賑わったという十二兼で、近くにはバス停や公民館も見られ、左手には●JR「十二兼駅」もある。 15:00 |
■十二兼駅~三留野入口
十二兼駅を通り過ぎ、右手は木曽川が音を立てて流れ、●寝覚めの床のような景観が続いていた。柿其橋を渡って対岸に出ると、「国の近代化遺産」の「柿其水路橋」が残っているというので、見てみたい気もしたけど先に進んだ。
少し歩くと右手に「明治天皇御小休所跡」碑が立てられている。ここで明治天皇が巡行の折り休まれ、「御膳水」を飲まれたと言われていて、●「中川原御膳水碑」も建てられている。 15:15 |
その後旧道は、その先で国道に合流して、国道を進んで行く。
この辺り、昔は●「羅天の桟(かけはし)」があった難所といわれ、「木曽路名所図会」でも、「三留野から野尻まですべからく路が険しく、桟道多し」とか書かれている。島崎藤村の「夜明け前」の冒頭部分「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・というのはこのあたりを描いているといわれている。現在ではそんな険しい道だったとは想像もできないような、整備された国道を木曽川を見ながら歩いて行った。
但しこのあたりから雨が降ってきて、左手に傘を持つようになり、撮影が難しくなってきたので、写真が撮れていない。(オリンパスの軽量一眼、E-P1を持ってきたが、これは片手だけの操作が難しい。コンパクトカメラも持ってくるべきだった)
「金知屋」の先から左手に入り、JRのガードをくぐって行くと、次の三留野宿へ入っていく。 15:45 |
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