中 山 道
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30塩尻宿から洗馬宿へ 歩行地図 |
仲町-阿礼神社-大小屋-大門-平出-洗馬郵便局-追分 6.7 km |
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30 塩尻宿
現在の長野県塩尻市。江戸初期ではここを通らず、下諏訪宿から贄川宿を結ぶ最短経路があったが、この区間が難所続きであったため経路が変更され、新しい宿場として整備された。最盛期には旅籠が70軒以上あり、松本藩六万石の玄関口として栄えたとされる。また塩の道と呼ばれる三州街道の分岐点でもあり、三河や糸魚川方面から塩が運ばれ中継地としても栄えた。明治の火災で本陣・脇本陣などは焼失してしまったが、いくつかの旧跡が残る。
本陣1 脇本陣1 旅籠75 |
2009年6月6日下諏訪宿からの続き。
■塩尻仲町~宮本町・鉤の手
●塩尻宿入口
下諏訪から塩尻へ来ると、右手に「是より西中山道 塩尻宿」と書かれた新しい道標が立つ。「仲町」信号から右折して宿場に入ることになるが、角の電柱脇に大きな「道祖神」が残っている。
●塩尻宿の町並
ここは現在国道がそのまま宿内を貫いており、ちらほ旅籠らしい建物も残り、宿の風情を残してはいるが、交通が激しくとてものんびりと見て回るというわけにいかなかった。道を横断するのも難しい。14:30 |
塩尻宿に入ってすぐ●「三州街道」の碑がある。別名伊那街道とも呼ばれ、塩尻宿から伊那谷を経て三河足助を経由し岡崎に至る道であって、中馬を用い(宿ごとに馬を変えない方式で運搬速度が速い)、荷駄や塩が運ばれた。
続いて右手に●「五千石街道」の碑がある。諏訪高島藩の飛地であった、東五千石領を経て松本へ至る道で、専ら領内の年貢や物資を運ぶためのものとして利用されたといわれ |
宿の中央付近右手には「いてふ屋」と呼ばれた旧旅籠屋の●「小野家」が昔のままに残っている。宿内では唯一の遺構と言えるだろう。国の重要文化財に指定されている。 文政11年(1828年)の火災後から、天保7年(1836年)にかけて主屋他が再建された。左側の方は修理中でシートが掛けられていた。
向側には「上問屋場」跡碑や「明治天皇行在所」跡碑があり、隣に●本陣跡の碑がある。川上本陣は建坪367坪もあって、中山道最大の本陣であったが、明治15年焼失した、ここらは碑ばかり立っているだけであった。14:45 |
本陣跡の隣は「脇本陣跡」でこちらは●中山道・塩尻宿」のモニュメントが立っている。ここも大きな脇本陣であったが、本陣同様明治15年焼失した。
隣の酒造屋さんらしく、杉玉が飾ってある、旅籠風の古い建物は「笑亀酒造」といって、明治の創業。ここは●塩尻陣屋跡であって、門脇に碑が立っている。 |
■宮本町・鉤の手~大小屋
●歩道橋の所で、旧道は国道を離れ右に曲がる。角に「中山道鉤の手跡」の碑がある。桝形がここにも見られる。右角に●阿礼神社がある。静かな林の中に建つ神社は格式高い式内社で、延暦年間には蝦夷征討に向かう坂上田村麻呂が、また治承4年(1180 )には木曽義仲が参拝し、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵参加を要請したと伝わる
14:50 |
神社から少し先の右手に本日最も見たかった建物の●「堀内家」が建っているが、残念ながら門前で樹木剪定の最中で、リフト付き作業者が取り付いていたので、正面から見ることができず、脇から眺めるしかなかった。「本棟造り」と呼ばれる建築で、屋根に「雀おどり」と呼ばれる、独特の飾りが付いている。雀おどりはこの地方あちこちでみられたけど、ここのが一番美しいように思う。「大小屋」という変った名前の交差点で国道と合流するが、角に大きな●「道祖神」群が見られる。 15:00 |
■大小屋~大門
●下大門の信号が「中山道」と「松本街道(善光寺西街道)」との分岐点で、右に行くのが松本街道、正面は「塩尻駅」へ、中山道は左へ行く。
右手に●大門神社がある。考古学的には有名な神社だそうで、境内から銅鐸が出土し、長野が銅鐸文化圏の地としても考えられることになったといわれている。神社の隣「耳塚」と呼ばれている変った祠があり、お椀を奉納すると耳が治ると伝わる。 15:15 |
■大門~平出
JR中央本線のガードをくぐると、右手に昭和電工の工場が続き、左手はどこかの学校の野球部の声がうるさく聞え(地図を見たら、昭和電工のグランドらしい)、のんびりと進む。やがて●平出一里塚が見えてくる。両塚が残り、旧道の方が南塚で、北塚は民家の裏にある。
すぐ先には●「平出遺跡公園」というのがあって、縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、竪穴住居が復元されていて、一応見ておいた。 15:40 |
■平出~洗馬郵便局
JR中央本線の踏切を越え、右手に県の農業試験場を見ながら進み、「中山道一里塚」信号で国道に合流して、しばらく●国道を進む。前方に山が広がり、気持よく進んだ。ガソリンスタンド裏に旧道が残っているようなので、スタンド裏の斜め左の砂利道へ入り、「平出歴史公園」交差点で右手に入っていった。いよいよ「洗馬」宿方面に来たわけである。「洗馬郵便局」を過ぎると、子犬がじゃれついてきたので、なぜなぜしたりして進んだ。●旧道らしい静かな道で、「雀おどり」が乗っかる家が見える。16:20 |
■洗馬郵便局~善光寺道追分
やがて右手に●「細川幽斎肱懸松」という松が一本見える。細川幽斎(細川藤孝のこと。細川ガラシャ夫人の夫)、が松に肘をかけて歌を詠んだという。松は何代目かの松という。
その先、右に分れる道があり、角に●追分の碑が立つ。道標には、「右中山道」「左北国往還、善光寺道」と彫ってある。西方(洗馬宿側)から見た書き方になっている。実際には、ここから善光寺道に入って50m程行った所の枡形に常夜燈があり、ここが「わかされ」だったと案内にある。道標は昭和7年の洗馬の大火以後道路工事に伴いここに移された。さてここから洗馬宿が始ります。
本日は4時半も過ぎたので、ここでやめにして、洗馬駅から塩尻へ戻りホテルに泊りました。中央線も塩尻を過ぎると、とたんに不便になります。 |
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